第201話 しっぽり
1
「おぉ、美味そうだな」
風呂上がりの俺を待っていたのは、卓上に並んだ豪華な食事だった。
「勇にぃ、こちらに」
三人横並びで未夜と朝華が俺を挟むように座る席順となる。
「さぁ、まずは一杯」
右手に座った朝華がビール瓶を傾けて酌をしてくれる。とくとく、と音を立てて黄金色の液体がグラスを満たし、しゅわしゅわと白い泡が立ち上っていく。
火照った体に染み込むビールの味は格別だ。
「あぁ、美味い」
「勇にぃ、日本酒もありますよ」
「もらおうかな」
「分かりました」
「はい」
小さなへりの薄い盃に日本酒が奥ゆかしくちょこっと注がれた。
「このお肉美味しい!」
未夜が顔をほころばせる。小さな網の上で自分で焼く、さしの入った分厚い肉。聞くと米沢牛だという。
「とろけるぅ」
まるで子供のような満面の笑みだ。
肉もいいが、温泉旅館とくればやはり刺身だろう。
旅館の定番、舟盛りに箸を伸ばせば、自然と酒量も増えていく。
刺身、酒、刺身、酒。
この無限ループを止められるものなど、この世に存在するのだろうか。
「勇にぃ、勧めておいてあれですが、あんまり飲みすぎないようにしないと」
「おっと、そうだな」
俺はあまり酒が強くないので、ある程度飲むと気分が悪くなって盃に手が伸びないようになる自前の悪酔い防止センサーがある。それによると、もう二、三杯できつくなってくるだろう。
今回は眞昼のこともあるので、ここらでやめておこう。
一人きりになったら連絡をくれ、と眞昼からメッセージがあったものの、その機会はなかなか来そうにないな。
豪勢な食事を終え、器や皿を片付けてもらう。
ここまで充実した時間を過ごしてきたが、時刻はまだ午後七時前。
「どうですか? 食後のお散歩なんて」
朝華の提案で俺たちは〈ざんげつの間〉から外へ出た。
日本庭園が本館との間に造られており、そこを散歩できるようだ。
冷たい石畳の上に石灯籠の影が落ちる。星々が煌めく空を見上げていると、自分がどこかへ飛ばされそうな錯覚に陥った。
秋の夜風を受けながら木々がざわめき、本館の方からは明かりとともに人々の楽しそうな声が漏れてくる。
「……いい雰囲気」
未夜がうっとりした声で言う。
「本格ミステリの舞台にぴったりとか考えてるんだろ」
「ち、違うよ馬鹿勇にぃ」
「ははっ」
*
「そろそろ戻るか」
「そうですね」
「うん、寒くなってきたよ」
十分ほどの散歩を終え、〈ざんげつの間〉に戻る。
「ふわぁ、なんかもう眠いや」
未夜の目がとろんとしている。
今日は歩きっぱなしだったから、未夜の体力はもう限界のようだ。
「未夜ちゃん、もう休む?」
「うん」
「じゃあ歯磨きとトイレしないと」
「うん」
子供か、というツッコミを喉でせき止める。
そういえば、寝室は二階にあると言っていたが、まさか三人並んで寝るわけじゃないだろうな。現役女子高生たちと同じ部屋で寝泊まりするなんてことが許されるはずがない。最低でも部屋は分けなくては。
二階に上がると、三枚の布団が川の字になって俺たちを出迎えた。
「おい朝華。俺は別の部屋の方が――」
「寝室はここしかありませんよ」
「何?」
いや待て。
未夜がいる場なら朝華も一戦を超えてきたりはしないだろう。そういった意味では、未夜の存在は一種の保険になり得る。
「私真ん中!」
未夜が布団にダイブしたかと思えば、数秒も経たぬうちにすぅすぅと寝息が聞こえ始めた。
「もう寝ちゃったみたいです」
「どんだけ疲れてたんだこいつは」
朝華が未夜の体を動かし、彼女に布団をかけなおす。
「勇にぃ」
朝華が俺の肩に手を置く。
「これで二人っきりですね」
吸い込まれてしまいそうなほどに美しい瞳が俺を見上げる。
「お、おい朝華。未夜もいるんだから」
未夜の方を見ると彼女は気持ちよさそうに寝息を立てている。
「うふふ、分かってます。勇にぃ、まだ眠くはないですよね?」
「あぁ」
「下、戻りましょうか」
階下に降りると、朝華は窓辺を示して、
「勇にぃ、実は〈ざんげつの間〉には秘密の部屋があるんですよ?」
「秘密の部屋?」
朝華は広縁に向かうと、向かって右手の方へ姿を消した。俺もあとを追う。すると、そこには壁の代わりに扉があった。障子のせいで死角になっていたため気づかなかったのだ。扉の先は細い通路があり、左側は窓になっている。
少し進むと右手にふすまが現れた。
なんでこんな隠し部屋みたいなものがこの部屋に……?
嫌な予感がする。
朝華がふすまを開ける。その中は四畳半ほどの狭い和室だった。
その部屋に電灯はなく、唯一の光源は明かりを灯した行灯だけ。そして、薄暗い部屋の中央には二人分の枕を備えた布団が一枚。布団の脇にはティッシュが一箱添えられていた。
「な、なんだこの部屋……」
「ふふ、分かってるくせに」
「朝華……」
「男女の温泉旅行って、そういう意味を持つものですから」
酔いが一気に醒めていく。やはり朝華はそのつもりだった。そのことに気づいた瞬間、あの湘南の夜に見た朝華の艶めかしい肢体が幻影となって目の前の朝華に重なる。
あの柔らかさ、そしてぬくもりまでもが蘇り、リアルな刺激となって俺を誘惑する。
「勇にぃ、さっきの散歩で体が冷えてしまったので、私お風呂に入りなおしてきますね」
そう言って朝華は来た道を引き返す。俺も慌ててその背中を追う。
「お、おい朝華」
「勇にぃも一緒に入りますか?」
「いや、入るわけないだろ」
「それじゃあ、少しだけ待っててくださいね」
朝華は露天風呂の方へ向かっていった。
一人残された俺は、この状況の打開策を考える。
まずいぞ。
このままだと朝華のペースに流されて、またあの湘南の夜の再現になってしまう。自分で言うのもなんだが、今の俺に朝華の誘惑を耐え切る自信は正直言ってない。
朝華に手を出していいはずがない、と頭では分かっている。分かっているつもりだが、期待をしてしまっている自分もいるのだ。
眞昼や朝華から言い寄られながらも自分を律し、この関係を何とか穏便に収めなくては、と普段は偉そうに考えているくせに、いざそういう状況に直面すると欲望の方が勝ってしまうのか。
自分が自分で嫌になる。
朝華が風呂から戻ってくれば、もう逃げ場はない……
どうする?
未夜を起こすか?
いや、それはただの時間稼ぎに過ぎない。
その時、俺は今自分が一人きりだということに気づく。
一人になったら連絡をしてくれ、と眞昼から頼まれていたっけ。
それが解決策になるわけでもないのだが――ただの現実逃避だろう――、ほかにできることもないので、俺は眞昼に電話をかけた。
「眞昼か?」
「あっ、勇にぃ? 今会えるの?」
「あぁ、一応一人になったんだ。朝華は風呂だし、未夜はもう寝てるし……」
「そっか。じゃあさ、〈あかつき亭〉の駐車場に出てきてよ」
「うん? お前今どこにいるんだ?」
「いいから」
電話は切れてしまった。
眞昼の泊まっている宿がどこにあるのか分からないし、待ち合わせ場所も指定していなかったが、言われた通りに俺は外に出た。広い駐車場にはぽつぽつと車が点在している。ひんやりと冷たい夜気の中を歩いていく。やがて敷地の入り口に人影を見つけた。
「あっ、勇にぃ」
「お前、なんでこんなところに」
俺は駆け寄る。そこには眞昼がいたのだ。
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