第200話  全ては順調に進んでいる

 1



「ふー、やっと到着だよー」


 未夜はロビーの椅子に座り、大きく息をついた。


「楽しかったけど、疲れたぁ」


 午後四時半過ぎ。


 観光を終えた俺たちはようやく〈あかつき亭〉に帰り着いた。


「未夜ちゃん、お疲れね」


 観光の前半は徒歩で箱根を歩き回ったせいか、体力のない未夜はもうへとへとのようだった。


「うん。なんかもう眠くなってきたかも」


「ふふっ、まだお楽しみが残ってるよ」


「おかえりなさいませ」


 女将の三村が俺たちのに気づいたようで、こちらへやってくる。


「お食事は何時ごろに?」


「六時過ぎにお願いします」と朝華が答える。


「承知いたしました」


 そう。


 この後は温泉に食事。


 温泉旅行の楽しみはまだあるのだ。


「それじゃあ、部屋に戻りましょうか」


「ほれ、行くぞ未夜」


 椅子の上でとろけている未夜を回収する。


「ふぇーい」


 朝華に先導され、俺たちは〈ざんげつの間〉に戻った。


「食事の前にお風呂を済ませましょう」


「たしか二階が個室風呂で一階が露天風呂だったよな」


「はい。どちらに入りますか?」


「そうだなぁ。やっぱり露天風呂のがいいかな。お前ら先に入っていいぞ」


「?」


 朝華は不思議そうに首を傾げた。


「勇にぃ。露天風呂は貸し切りですよ?」


「それがなんだ?」


「一緒に入らないんですか?」


「は、入るわけねぇだろ!」


「何言ってるの朝華」と未夜もツッコむ。


「だって、私たちの仲なんですから。タオルを巻けばいいじゃないですか。せっかくの温泉旅行ですし」


「ダメに決まってるでしょ。ほら、行くよ」


「あぅ」


 未夜に手を引かれ、朝華は露天風呂の方へ連行された。


「ったく」


 未夜が一緒で助かったな。


 一人になった俺はソファーに腰を下ろした。


 スマホを何気なく見ると、眞昼からラインが来ていた。


『勇にぃ、今日会える?』


 俺はメッセージを返す。


『お前、合宿だろ』


『もう自由時間になったから』


 自由時間とはいえ、こちらの宿に合流することはできないだろう。返信に悩んでいると、追加のメッセージが。


『今じゃなくてもいいんだ。勇にぃが一人になった時でいいよ』


 一応今は一人だが、未夜たちが出たらすぐに露天風呂に入らなくてはいけない。


『大事な用があるから』


『なんだよ』


『今はまだ秘密』

 

 いったい何事だろうか。


『一人になれそうな時間があったらラインしてね。そっちに行くから』


『分かった』


『あと朝華には秘密だよ』


 なぜ朝華の名前が出てくるのだろう、と一瞬疑問に思ったが、眞昼が俺に好意を寄せていることは今のところ俺しか知らない。未夜や朝華たちにバレないように、ということだろうか。


 俺としても、朝華からも好意を寄せられている現状で、眞昼と朝華がお互いの気持ちを知ってしまう状況は非常にまずいと思う。


『分かった』とメッセージを送ってやり取りは終わった。


 なんの話なのかは分からないが、朝華や未夜の目を盗んで眞昼に会うのは難しそうな気がするな。この後はもう風呂に入って飯を食って、まったりしたあとは寝るだけなのだから……


「……さすがに、ないよな」


 俺の脳裏にあの湘南の夜の出来事が蘇る。


 朝華が俺に夜這いをかけたあの衝撃的な夜が。


「……」


 男女の温泉旅行。


 同じ屋根の下。


 条件は揃っている。


 いや、今回は未夜もいるんだ。


 朝華もそんな大胆な行動は取れない気がする。


 いやでも、朝華、だしなぁ。


 警戒をしておくに越したことはないだろう。


 未夜が一緒にいる旅行で朝華に手を出した、なんてことになったらそれこそ……



 2



「気持ちいいねぇ」


「だね」


 私と未夜ちゃんは洗いっこをしたあと、肩を並べて温泉に浸かっていた。


「今日はいっぱい歩いたから、その疲れが溶けてくねぇ」


「未夜ちゃん、はしゃいでたからね」


「だってせっかくの旅行だし、それにしてもあんなに歩いたの久しぶりだなぁ」


「ふふ、お疲れ様」


「なんかもう眠たくなってきた。ふわぁ」


「このあとはご飯があるから、寝るならそのあとだよ」


「うん」


 ゆったりと温泉に浸かりながら絶景を眺める。夕焼け空を雲が流れていく。茜色に染まる芦ノ湖の湖畔が美しい。


 癒される時間のはずなのに、なぜか心がざわついている。


 未夜ちゃんはもうじき陥落するだろう。全ては順調に進んでいるはず。


 このざわつきはいったい……



 3



 午後五時半頃。


「勇にぃ、お待たせしました」


 浴衣姿で未夜と朝華が戻ってきた。


 二人とも濡れ髪で、湯上りの火照った肌が妙に艶めかしい。


「お、おう」


 未夜が冷蔵庫で風呂上がりのジュースを物色し始めた。それを横目で見ながら露天風呂へ向かおうとしたところで朝華が寄ってきた。


 火照った肌から甘い香りがほわほわと匂い立つ。


 朝華は俺の耳に顔を寄せ、


「私たちの残り湯、楽しんでくださいね」


「――っ!」


「うふふ。未夜ちゃん。私にもジュース」


「はいはい」


 平常心を保ちながら、俺は露天風呂へ向かう。


「……かけ流しじゃねぇか」


 何が残り湯だ。


 ちょっと変な想像しちまったじゃねぇか。


「ふう」


 湯に浸かると、じんわりと体が温まる。


 空はもう薄暗い。前方の林の切れ間から芦ノ湖が見えた。対岸にちらちらと輝く光は、どこか別の旅館だろうか。


 冷たい外気に湯けむりが溶けていく。


 眞昼は一人になったら連絡をくれ、と言っていたがいったいどんな用事があるのだろうか。


 話をするだけならラインや電話でもいいわけで、直接会うことが大事なのだろうか?


「……」


 突然強い風が吹いたかと思うと、紅に染まった落葉がひらひらと湯に舞い降りた。



  

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