第202話  ご褒美

 1



 眞昼は道の脇の木陰にしゃがみ込んでいた。


 薄手のジャージ姿で、寒そうに口元を手で押さえている。


「やっと来た」


「眞昼、お前どこにいたんだ」


「どこって、ここだよ」


「は?」


 眞昼は立ち上がる。


「いつ勇にぃに呼ばれてもいいようにね」


「ずっとここで待ってたのか?」


 最初にラインで連絡があったのは五時前ぐらいだった。今は七時過ぎ。二時間以上もこんな寒空の下で俺を待っていたというのか。


「これぐらい待てなきゃ、『ずっと待ってる』、なんて言えないもん」


「馬鹿! こんなとこにいたら風邪ひくだろ」


「うん、正直めっちゃ寒かった」


「それに女の子がこんな暗いとこで一人でいたら危ないだろ」


 外灯はあるものの、女の子が一人でいるには危険な暗さだ。


「大丈夫だよ。あたしたちの旅館はここから近いし。歩いて五分もかからないから」


「そういうことを言ってるんじゃない」


「分かったよ。ごめんて」


「ったく。そこまでしてなんの話があるんだ?」


「それなんだけど、ちょっと歩きながらでもいい?」


「ああ」


 どのみち眞昼を宿まで送っていこうと思っていたので、彼女の宿泊する旅館まで歩いていくことにした。


 暗い夜道を二人で肩を並べて歩く。


 道の両脇の木々の枝が道路に覆いかぶさるように伸びているので、星明りはほとんど届かない。人気もなく、風に揺さぶられる音が時折聞こえるだけ。


「旅行、楽しかった?」


 眞昼が聞く。


「ん? まあな。未夜が今度は眞昼も一緒がいいって言ってたぞ」


「そっか。未夜と朝華は何してた?」


「未夜は歩き疲れてもう寝ちまった。朝華は――風呂に入ってる」


「ふーん。じゃあぎりぎりセーフって感じだったか」


「?」


 眞昼たち北高女子バレー部が泊まる旅館は本当に〈あかつき亭〉の近くにあったようで、雑談をしていたらすぐに到着してしまった。〈あかつき亭〉ほどではないが、なかなか風情のある旅館だ。


「勇にぃ」


 眞昼に手を引かれ、脇の林の中に連れ込まれる。


「なんだよ」


 俺がそう言ったのとほぼ同時に眞昼はジャージのジッパーを半分ほど下げた。豊満な胸が露わになり、白い肌に浮く血管が蠱惑的なアクセントになっていた。


「おい、眞昼?」


「勇にぃ」


 眞昼はそのまま俺を抱き寄せた。彼女の胸に顔が埋まる。柔らかく、温かい。眞昼の匂いで体の中がいっぱいになる。引き離そうとするが、頭と背中をとんでもなく強い力で抱きしめられてしまい、身動きが取れない。


「ま、まふぃう」


 肌同士が触れ合い、そこに生まれる温もり。


 つい先ほどまで朝華に誘惑されていた俺にとって、これは拷問に等しい。


「朝華の誘惑に負けないで帰ってきたら、あたしがもっといいことしてあげる」


「!?」


 朝華?


 朝華と言ったのか?


「たぶん朝華は今回の旅行で勇にぃを落とそうとしてくるけど、負けちゃだめだよ?」


 なぜ朝華が……というより、どうして眞昼は朝華が俺を誘惑しようとしていることを知っているのだ?

 

 眞昼は一層強い力で俺を抱きしめ、彼女の胸に俺の顔が深く沈んでいく。


「もし朝華に負けないで帰ってこれたら、、好きにしていいよ」


 そう囁き、眞昼は俺を解放した。


「眞昼、なんで朝華のこと……」


「だって、あたしと朝華は勇にぃ争奪戦のライバルだから」


「あ、朝華が俺のことを好きなの、知ってたのか?」


「うん。朝華もあたしが勇にぃのこと好きなの知ってるよ」


「……マジかよ」


「あれ? 勇にぃ知らなかったんだ。あっ、そうだ」


 眞昼はポケットからスマホを取り出したかと思うと、再び俺を抱き寄せる。


 パシャ、という音とともにライトの光が薄闇を払い、俺は解放された。


「眞昼、お前なんの写真を」


「ん? ちょっとね」


「それより、朝華と……」


 俺が想定していた最悪の事態。


 それは朝華と眞昼が互いが互いに俺のことを好きだということを知ってしまい、俺を巡って二人の仲が険悪になってしまうのではないか、ということだった。


 二人の小さな頃を知っている身としては、俺なんかのために眞昼と朝華が仲互いをしてほしくない。


 だからこそ、二人には知られずにこの関係を何とか収められないだろうか、と考えていたのだがすでに二人はお互いの気持ちを知っていたのか。


「お願いだから、俺なんかのために喧嘩はしないでくれよ」


「喧嘩? しないよ、そんなこと。朝華とは『親友と書いてライバルと読む』的な関係だからさ」


 言って眞昼は悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「もう一回言うけど」


 眞昼は、今度は俺の手のひらを自分の胸に押し付ける。悪魔的な柔らかさが手のひらから脳に伝わる。


「朝華に手を出さないで帰ってこれたら、ご褒美に好きにしていいよ」


「……眞昼」


「じゃ、送ってくれてありがと」


 旅館へ駆けていく眞昼の後ろ姿を見送りながら、俺の心の内で様々な感情が渦巻いていた。



 2



「勇にぃ、お待たせしました」


 ついに勇にぃと結ばれる。


 うふふ。


 勇にぃは一階の広間にいた。


 緊張しているのか、正座をしてビールを飲んでいる。


 こちらに気づいたようで、勇にぃはお酒で赤くなった顔を向ける。


「朝華。その……」


「なんですか?」


「その、ま――」


「ま?」


 その時、私のスマホがぶるっと揺れた。どうやらラインのメッセージが届いたようだ。


 こんな時間――といってもまだ八時にもなっていないのだけれど――に誰だろう。画面に目を落とすと、眞昼ちゃんからだった。


『朝華も頑張ってね』


 メッセージとともに写真が送られてきた。


 眞昼ちゃんが自分の胸に勇にぃを抱き寄せている写真。


「……ふうん」


「朝華。眞昼のことなんだが――」


「眞昼ちゃんに会ってきたんですか?」


「ああ。その、お前ら二人、俺を巡って争ったりしてないよな?」


「どういうことでしょう」


「眞昼が……俺のことを好きなのは」


「もちろん知ってますよ。私たちは『強敵と書いてともと読む』仲ですから」


「俺のためにお前らが争う姿は見たくないんだ」


「心配性ですね、勇にぃ。安心してください。私たちは争ってなんかないですよ。勇にぃのことで眞昼ちゃんを嫌いになったりとか、そういうことは絶対にありません」


「本当か?」


「ただ――」


「ただ?」


「日本は一夫多妻制ではありませんからね。最終的に勇にぃと結ばれるのが一人である以上、私たちはお互いに相手を出し抜いて、勇にぃを落とすために全力を尽くすつもりです。今回も、興が醒めてしまいましたね」


 私たちは二階の寝室に戻り、気持ちよさそうに眠っている未夜ちゃんを挟むように布団に潜った。


 今回は私が上手く眞昼ちゃんに出し抜かれてしまった。ただそれだけのこと。


 それにしても、眞昼ちゃんの行動力というか、土壇場での機転はすごい。湘南の時とは違って、完全にアウェイの状況だったのに。


 あと一歩のところだったんだけどなぁ。


 怒りもないし、不満もない。まぁ、勇にぃを落とせなくてちょっと悲しかったけど。


 仮に、眞昼ちゃんが選ばれたとしても私は親友として心から彼女を祝福できるだろう。私にとって、眞昼ちゃんと未夜ちゃんは勇にぃの次に大事な存在だから。


 だけど、一番は勇にぃ。


 私にとって、勇にぃは人生そのものだから。


 あの人に選ばれなければ、私の人生には意味がなくなる。


 もし勇にぃと私が結ばれなくなってしまった場合は……


 その時は……


 もちろん……



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