第195話  朝華のペース

 1



「朝華ー!」


 未夜が駆け寄っていく。


 朝華はクリーム色のセーターに黒いショーパンという服装だった。あんなに足を出して寒くないのだろうか。


 未夜が朝華の手を握ってぶんぶんやるのを微笑ましく思いながら俺は荷物を持ってゆっくりと向かう。


「おう、朝華」


「二人とも待ってましたよ」


 にこりと微笑んで、朝華は言う。


「今日はありがとな」


 と言って俺は宿泊券を取り出す。正確には、朝華から貰った誕生日プレゼントは旅行そのものではなくこの宿泊券なのだ。


「あっ、それは形だけのものなので使いません。どうぞ記念に取っておいてください」


「そうなのか」


「もうチェックインは済ませてありますので、お部屋に案内しますね」


 基本的にホテルや旅館などのチェックインは午後からというのが普通の段取りなのだが、さすがは源道寺家御用達の高級旅館。


 玄関口をくぐると、そこは広いロビーだった。


 左手の庭に面した壁は一面がガラスになっており、テーブルと椅子が並んでいる。談笑をしている老夫婦や、渋い顔で新聞を読んでいる中年男などが座っていた。裕福な客層だ。


 受付の横には大きな竜の掛け軸があり、〈あかつき亭〉というこの旅館の名が達筆な字で記されていた。それをぼんやり眺めていると視界に人影が入り、そちらに視線が移る。


「このたびは〈あかつき亭〉へようこそいらっしゃいました。女将の三村みむらでございます」


 しっとりとした声の妙齢の美女が仲居を伴って出迎えてくれた。


「朝華お嬢様のご友人と伺っております。〈あかつき亭〉従業員一同、誠心誠意、おもてなしをさせていただきます」


「あっ、どうもお世話になります」


「お世話になります」


 俺と未夜は揃ってお辞儀をする。現役女子高生二人とおっさんの三人旅行なので、変な目で見られはしないかという不安があったのだが、大丈夫そうだ。


「お荷物をお預かりします」


「お願いします」


 仲居の人に荷物を預け、部屋に案内される。


 全体的に古びた印象を受けるのだが、決して汚らしいわけではなく、むしろ厳かで雅な空気が流れている。気分は箱根街道で休憩をとるお殿様……?


 俺たちの部屋は離れにあるそうで、庭を抜ける渡り廊下を進んでいく。紅に色づき始めている木もちらほら見え、少し肌寒い風が吹き抜けていく。


「こちら、〈ざんげつの間〉になります」


 案内されたのはまさかの二階建てで、離れの部屋というよりもはや建物だった。


 外観こそ世捨て人の住む庵といった感じだったが、内部はリゾート感満載で、聞けば数年前に改装したという。


 荷物を置き、女将から設備についての説明を受ける。寝室と個室風呂が二階にあり、夕食は一階の広間に運んでくれるそうだ。一階には直通の貸し切り露天風呂があり、芦ノ湖が見えるという。


「それでは失礼いたします」


 女将と仲居が退室し、俺たちはようやく息をついた。


「ふう」


 畳の上に腰を下ろす。やはり畳のある部屋は落ち着くぜ。


「勇にぃ、おビールがありますよ」


 隅の冷蔵庫を開けると、中には大量の酒やジュースが。


「ルームサービスでほかのお酒も頼めます」


「ダメだろ、こんな朝っぱらから酒なんて……」


「温泉旅館に来たんですから、時間なんて関係ありませんよ。羽目を外す場所ですから。さ、一本だけでも」


「そうか?」


「未夜ちゃんもジュースあるよ。どれにする?」


「んー、ジュースは来る時に飲んだから甘くないやつ……コーヒー――いや、お茶ある?」


「あるよ。はい」


 俺と未夜はそれぞれ飲み物を受け取り、ほっと息をつく。


「そうだ朝華。さっきね、海賊船が」と未夜が先ほど目にした芦ノ湖の観光船について話題に挙げる。まだ時刻は午前九時四十五分。


 広縁の椅子に座って外に目をやると、風に揺られる木々のざわめきがさわさわと耳に届いた。


「未夜ちゃん乗ってみたいの?」


「うん」


「じゃああとで行こうね」


「うん」


「そういや朝華はいつ来たんだ?」


 俺が聞く。


「私は昨日の夜に」


「え? 昨日?」と未夜は目を丸くした。


「うん。この部屋で一泊して、二人を待ってたの」


「そうだったのか。一人だからって酒なんて飲んでないだろうな」


「うふふ、そんなわけないじゃないですか。それより勇にぃ、これからどうします? まずはお風呂に入りますか?」


「早すぎだろ。風呂は夜の楽しみに取っておいて、観光に行こうぜ」


 そうして俺たちは箱根観光に繰り出した。


 2



 俺が酒を飲んでしまい、車の運転ができなくなったので、箱根観光は徒歩で行うことになった。といっても、芦ノ湖沿いの観光スポットは徒歩で十分な距離なので大きな問題はない。


 まずは朝華がどうしても行きたいというので、九頭竜くずりゅう神社という神社に向かうことにした。木漏れ日の落ちる峠道を歩く。広がって歩くと車の通行の邪魔になるので、一列になって進む。先頭が未夜、次に俺、最後に朝華という順番だ。


 秋という季節柄、風が冷たいけれど、アルコールが入っているのでむしろ気持ちがよかった。左手の木々の切れ間から芦ノ湖が見える。


「そういや、箱根って初めて来たけどテレビで見るような温泉街って雰囲気じゃなかったな」


 俺が誰にともなくそう言うと、朝華は後ろから、


「箱根湯本から少し上ったところがそういう雰囲気ですね。芦ノ湖周辺は温泉街というよりかは、観光地としての空気が強いですから」


「そうだったのか」


 朝華は幼い頃から家族旅行でちょこちょこ箱根に足を運んでいるそうだ。さすがはお嬢様。


「勇にぃは温泉街の方がよかったですか?」


「え? いや、そういうわけではないんだが」


「そうですねぇ、温泉街の方は子宝の湯とかありますからねぇ」


 からかうような調子で朝華が言った。


「おいおい、マジでそういうんじゃないからなっ!?」


「うふふ」


「何騒いでるの?」


 少し先を歩いていた未夜が振り返る。


「いやなんでもねぇぞ」


 ごまかす俺の後ろで朝華が囁く。


「ちなみに、これから向かう九頭竜神社には縁結びのご利益があるそうですよ」


「そ、そうか」


 俺の背筋を、なぜか冷や汗が伝った。


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