第178話  無意識に爪を研ぐ

 1



「そういえば、未夜先輩はこのことを知ってるんですか?」


 ふと疑問に思った。


 眞昼先輩と未夜先輩の仲なら恋愛相談をしていても不思議はない。聞いた話では、二人は子供の頃からの親友だという。


「未夜には……まだ言ってない」


「そうなんですか」


 意外だ。とっくに相談してるものだとばかり思ってた。


「夕陽ちゃん、さっきのことだけど未夜には絶対に言っちゃダメだよ」


 夕陽の肩に両手を乗せて、眞昼先輩は言った。真剣な表情だ。


「え? なんでですか?」


「なんでって……その」


「?」


 眞昼先輩は視線を逸らして手を胸の前に持ってくる。


「は、恥ずかしぃ、から」


 いちいち可愛いなこの人。


 元気という概念の擬人化みたいな人だと思ってたのに、恋愛方面になるとそういう活発な面はすっかり鳴りを潜めて純情乙女になるなんて、ギャップがすごいよ。


「とにかく、未夜だけじゃなくて、あたしに好きな人がいるってことは、誰にも言わないで。今はまだ、あたしと夕陽ちゃんだけの秘密にしておいて。お願い!」


 ぱん、と手を合わせると、その大きなふくらみがぷるんと揺れた。


「分かりました、分かりましたよ」


 そのおっぱいにお願いされたら、ノーなんて言えるわけないじゃん。それにしても、これで鉄壁聖女の一人が陥落か。


「ありがと」


「ちなみに、狙ってる男の人、タイプで言うとどんな感じなんですか?」


「タイプか。うーん」


 難しい顔をして眞昼先輩は唸る。眞昼先輩が恋するくらいだから、きっとガッツがあって男らしい感じだろうな。


「のんきで、ぼんやりしてて、鈍感で――」


 ……それはいいイメージなの?


「でも、優しい」


「へぇ」


 眞昼先輩がここまで慕う男だ。きっと悪い人ではないんだろうな。


 やがて昼休みの終わりを告げるチャイムが校内に響き渡り、夕陽たちはそれぞれの教室へ戻った。



 2



 終礼の鐘が鳴り、生徒たちは思い思いの場所へ足を向ける。部活に参加する者、受験に向けた特別補講を受けに行く者、そして私を含めた帰宅する者。


 私の向かう先はいつも変わらない。〈ムーンナイトテラス〉の入口扉を開けると、カランコロンと軽やかな呼び鈴が耳に届く。十年以上も前から、ずっと聞いてきた音だ。


「こんにちはー」


「あら、いらっしゃい未夜ちゃん」


 おばさんは手前の席の片づけをしていた。カウンターの奥にはおじさんがおり、店内の混み具合はそこそこである。


「勇なら今二階で休憩してるわよ」


「分かったぁ」


 たんたん、と階段を駆け上がって二階へ。リビングにはいないから部屋の方かな。ノックをしてから勇にぃの部屋に入る。


「勇にぃ?」


「おう、未夜か」


「……え、なにやってるの?」


 勇にぃはベランダの手前で体育座りをしていた。肩越しに私を見つめる目に生気が宿っていないように見えるのは気のせいか?

 

「風に、吹かれていたのさ」


「……なんのために」


 私は荷物をテーブルの脇に置いてベッドに腰かけた。


 勇にぃはぼんやりとベランダから空を眺め続けている。なんだか元気がなさそうだ。丸めた背中には哀愁が漂い、相当へこんでいると想像できる。


 どうしたんだろう。


 勇にぃは元気いっぱいって感じのキャラじゃないけど、露骨に落ち込んだりマイナスな感情を表に出すことはほとんどない。なにがあってあんなに落ち込んでるだろう?


 もしかして、仕事のことでおばさんに怒られたりしたのかな。


「はぁ、ハエになりてぇ」


 なんかへこみ過ぎてヤバいこと言ってるし。


「勇にぃ」


「んー」


「勇にぃってば」


「あー」


 ダメだ。返ってくるのは生返事ばかり。まずは勇にぃを元気づけてネガティブワールドから連れ出してあげなきゃ。


 私は立ち上がり、勇にぃの背後に立つ。悲壮感漂う肩にぽんと両手を乗せ、


「勇ーにぃ」


「おわっ、な、なんだよ」


 そのまま私はしゃがみ込み、勇にぃの背中におんぶしてもらうように体を寄せた。首に手を回し、そのまま体重を預ける。


「ねぇ、カフェオレ飲みたいから作ってよー」


「お、おまっ」


「はーやくー」


「わ、分かったから離れろ」


 勇にぃの背中がどんどん熱くなっていくのを感じる。元気になってくれたかな。


「はいはい」


「ったく」


 私は勇にぃの背中から離れて立ち上がる。勇にぃもしぶしぶといった調子で腰を上げた。


「カフェオレだな、アイスでいいか?」


「うん。あっ、氷は少なめね」


「分かった」


 勇にぃが部屋を出ていくのを見届けてから私は改めてベッドの縁に座りなおした。それにしても、いったいどうしてあんな落ち込んでたのかな。


 誰かと喧嘩をした?

 車をぶつけた?

 部屋にGが出た?

 それとも、ただ単に疲れてるだけとか?


 数分後、勇にぃが戻ってきた。


「ほれ、カフェオレ」


 テーブルにグラスが二個置かれた。一つは私のカフェオレ。もう一つのブラックコーヒーは勇にぃのものだろう。


「ありがと」


 私は滑り落ちるようにベッドの縁から床にお尻を移動させる。上手く着地できた。カフェオレを一口飲んで勇にぃに視線を向ける。


「美味しい」


「そりゃ、俺が作ったからな」


 得意げに勇にぃは腕を組む。それから私の斜め前に座ってブラックコーヒーに口をつけた。


「ふぅ」


「今日忙しい?」


「ん、まあまあかな」


「勇にぃ、最近お疲れ気味?」


「そんなことはないぞ。なんでだ?」


「だって、なんか元気なかったから。ねぇ、なんであんなに落ち込んでたの?」


「それは……」


 勇にぃは口ぎゅっと口を結んで俯く。その表情の暗さと重さに、大きな悩み事を抱えていることが想像できる。


「悩み事?」


「……」


 言おうか言うまいか、葛藤が窺える。


「わりぃ、今はちょっと言えねぇや」


「そっか」


「心配かけてごめんな」


「大丈夫だよ。私は勇にぃの味方だから、なにかあったら、私にできることならなんでも力になるよ」


「未夜」


「その代わり、私が困った時とか、私になにかあった時は勇にぃが助けてよね。勇にぃは私のお兄ちゃんみたいなものだから」


「ああ」


 勇にぃは微笑を浮かべたけれど、やっぱり微妙に影があるように見えた。それから私たちはとりとめのない話でコーヒーブレイクを楽しんだ。


「さて、そろそろ戻るか」


「もう休憩終わり?」


「ああ」


 勇にぃはぐいっとコーヒーの残りを飲み干してお店の方に戻る。


 一人残された私は勉強道具をカバンから取り出してテーブルに広げ、黙々と勉強を始めた。


 そういえば、昔……


 さっき、「私になにかあった時は」と言った時、あることが記憶の底から思い起こされた。


 遠い遠い、ずっと昔の記憶。


 もうすっかり忘れかけていた


「そんなこともあったなぁ」


 勇にぃ、憶えてるかな。


「ふふっ」



 3



 俺は仕事に戻った。


 未夜にはやっぱり心配をかけたくない。


 それにもし未夜に眞昼と朝華の二人から告白された、なんて相談をしてしまえば、未夜は朝華と眞昼の両方と関わりがあるから、何かの拍子に未夜が口を滑らせてしまう可能性がある。

 もしそんなことになったら、朝華と眞昼はお互いが恋敵であることに気づいてしまうかもしれない。


 結局のところ、それは避けられない事態なのだろうが、遅らせることができるならそれに越したことはない。何かしらの対策というか、話の持って行き方を準備できる時間は長い方がいいのだ。


 ただ、どういうふうにすれば上手く話がまとまるかは、全く見当もつかないけれど。


「はぁ」


 女子高生に、それも飛び切りの美少女二人に想いを寄せられるなんて本来であれば小躍りして喜ぶべきことなのに、俺は頭を抱えるばかり。


 嬉しさよりも不安が俺の胃を締め上げる。


 本当に、これからどうなってしまうのだろう。


 今週の土曜日にまた朝華はこちらに帰ってくるだろう。その時、眞昼からも想いを寄せられていることはバレないように注意を払わなくてはいけない。


「勇、窓際のテーブル片づけといて」


「おう」


 背中に未夜の体温と柔らかさの余韻が残っている。あいつ、無遠慮に体を密着させてきやがって、と文句を言いたいけれど、未夜に限って言えば、変なことを想像する心配はないだろう。

 あの距離感の近さは兄と妹のようで逆に安心する。


 そろそろおかわりを持って行ってやるか。


 アイスカフェオレを作り、二階へ上がる。


 未夜は真面目に勉強に勤しんでいた。


「未夜、おかわり持ってきたぞ」


「ありがと。ちょうど無くなったとこだよ」


「順調か?」


「うん」


 平和な顔をしてカフェオレを飲む未夜。


 そんな彼女を眺めていると、ほっこりと心が安らぐのだった。




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