第169話  クソガキは無敵

 1



 今日もクソガキたちの相手をして疲れた。ったく、あいつら、わけの分からん心理本なんか持ち込みやがって。

 熱い湯にゆっくり浸かり、疲れを癒す。


「ふぅ」


 疲労が湯に溶け、体を心地よい浮遊感が包む。やっぱり風呂は最高だぜ。


「上がったぜ」


 風呂から上がってリビングに行くと、父と母がこたつを挟み、神妙な顔をして座っていた。


「そろそろかしらね」


「そろそろ、だな」


 俺がやってきたことに気づくと、二人は同時にこちらに目を向けた。なんだなんだ、いったい全体なんの話をしていたんだ?


「勇」


「ん?」


 母が手招きをするので俺もこたつに入る。


「な、なんだよ」


 卓上にはパンフレットが置かれている。表紙には赤い車に乗った若い女の写真がでかでかと載っており、その下に『レッツドライブ』という文字がポップな書体で記されていた。


 母はそのパンフレットに目を落として、


「あんた、そろそろ免許取んなさい」



 2



 翌日の夕方。

 俺は隣町の富士市にある自動車学校を訪れていた。十八歳になり、車の免許を取得できるようになった高校生たちは、だいたい冬休み前から自動車免許を取るために自動車学校に通うようになる。

 といっても、受験を控える進学組が通い出すのはもう少し先で、今通っているのは俺たち就職組がほとんどである。


「ほえー」


 広大な敷地に、入り組んだ道路がまるで迷路のように造られている。踏切のようなエリアがあったり、坂道があったり、くねくねと蛇の体のようにうねるカーブがあったり……

 敷地は広いように見えて――実際広いのだが――、交差点が短い間隔で点在していたり、直角カーブとS字カーブが並んでいたりと、よくよく観察してみると全てのスペースを無駄なく有効に使うために無理やり詰め込んだように見える。


 こういうごちゃごちゃ感は好きだ。


「ほら、こっちよ」


 母の後について校舎に入る。中は予想していたよりも小綺麗で、なんだか進学塾にやってきたみたいだ。


「有月です」


 受付に来意を告げると、ややあって小太りのおじさんに呼ばれて別室へ案内された。そこで説明を受け、入校手続きをした。それが終わると二階の大部屋に案内される。どうやら入校式があるらしい。

 

 平行に並んだ会議机には、俺と同じような学生とその保護者たちが座しており、入校式の開始を静かに待っていた。


 俺はその中に知った顔を見つける。


「お、影山かげやま


「あっ、有月」


 茶色い髪に中性的な顔立ち、全体的になよっとしたおとなしい少年、影山春樹はるきだ。俺と同じ元男子バスケットボール部のメンバーで、青春の苦楽を共にした仲だ。

 たしか影山の進路は進学だったはずだが、もう自動車学校に通うのか。


「あらどうも」

「こんにちは」


 その横には影山の母、影山雪美ゆきみが座っており、母と挨拶を交わす。


「有月くんも久しぶりね」


 雪美はおっとりとした声で言う。


「いやぁ、ごぶさたしてます」


 長い茶髪の髪を後ろでまとめ、ゆったりとしたセーターとデニムのパンツ。まるで風船を二つ隠しているのかと見紛うほどの巨大な胸部。俺と同じ高校三年の息子がいるとは思えない、若々しい美女である。


 影山め、こんな美人の母親がいるなんて羨ましいやつだ。こいつがマザコンになるのも頷ける。


 俺たちは影山親子の隣の席に座る。


「影山、もう通うのか」


「うん、あんまり遅くなると、混むらしいから。有月、どっちにした?」


「どっちって?」


「オートマとマニュアルだよ」


「ああ、俺は楽な方がいいからオートマにしようとしたんだけどさ、父さんがマニュアルにしろってうるさくて、マニュアルにしたよ」


「僕も一応マニュアルにしたんけどさ、どうせマニュアルで取っても乗るのはオートマだよね」


「だな」


 詳しいことはよく分からないが、なんでも車にはオートマとマニュアルという二つの種類があるそうで、運転の仕方が少し変わるそうだ。マニュアルの方がちょっとだけ難しいという話をよく聞く。


 父が車好きなので、過去に何回か説明を受けたことがあるが、あまりよく覚えていない。自分で操作する箇所が一つ増えるくらいという認識だ。

 まあ、楽勝だろう。


 その後、入校式を終え、一回目の学科教習を受けてその日は帰宅した。



 3



 翌日、学校から帰った俺はいつものようにクソガキたちの相手をする。


「スマ〇ラ飽きたなー、次何やる?」


 眞昼が一同に尋ねる。


「じゃあ、これやろうぜ」


 俺はマ〇オカートのパッケージを手に取る。夜に控えた技能教習に向けて、これでイメージトレーニングをするのだ。


「勇にぃ、なんかそわそわしてます」


 隣に座った朝華が俺を見上げる。落ち着かないのが伝わってしまったようだ。


「ああ、今日の夜から自動車学校に通うんだよ」


「転校するのか?」と未夜。


「ちげぇよ。自動車の免許を取るための学校だ」


「自動車……勇にぃ、すごいです」


「ふっふっふ、まぁな」


「勇にぃ、マ〇カめっちゃ弱いのに大丈夫か?」

 

 眞昼がほくそ笑む。


「馬鹿野郎。ゲームと現実を一緒にするんじゃない。ま、俺にかかれば楽勝だ」



 *



 ガコンッ!


「うおっ」


 車体全体を揺さぶるような大きな衝撃がやってきたかと思うと、すんとエンジン音が止み、メーター類のランプが一斉について非常事態を知らせる。


 エンストだ。


「ああ、ちょっとエンジンの回転数が足りなかったねぇ」


 隣に座る中年男性の指導員が言う。


「す、すいません」


「もうちょっと強くアクセルを踏んで、なんというのかな、右足で力を溜めて、左足でそれを少しずつ解放するイメージで――」


 ガコンッ!


「はぁ」


「す、すいません」


 入校翌日の午後七時過ぎ。 さっそく一回目の技能講習が始まったのだが、まさか車の運転がここまで難しいとは思っていなかった。


 父や太一なんかはいつも軽々とマニュアル車を運転していたのに……

 

 アクセルを踏めば前に進み、ブレーキを踏めば止まる。それでいいじゃないか。クラッチなどという謎のペダルが、一気に操縦難易度を上げているのだ。マ〇オカートにもクラッチなんかなかったぞ。


 おかげで発進することすら一苦労である。それから幾度もエンストを繰り返し、ようやくエンストしないギリギリの感覚を掴むことができたように思う。


「おお」


 教習車がゆっくり動き出す。


「じゃあ、ちょっと外周を走ってみようか」


「は、はい」


 ハンドルから伝わる振動、エンジンの雄叫び。俺は今、車を運転しているのだと実感する。車とは、いつも大人が運転するものだった。助手席あるいは後部座席から、その様子を見ては憧れていた少年時代。


 ああ、俺は今、車を運転している。俺の意のままに、車が動いている。


「有月くん、そろそろギアをセカンドに入れようか」


「あ、はい」


「クラッチを切って、アクセルを離して、ギアをセカンドに入れて、クラッチを離す」


 言われた通りにやってみると、車体が前方に飛び跳ねるような衝撃に見舞われた。幸いエンストはしなかったようだが、今のはいったい?


「ク、クラッチはもう少しゆっくり離した方がいいかな」


「はい」


 それからしばらくの間外周を延々と走った。


「じゃあ、次の直線で40キロまで加速してみようか」


「え!?」


 今現在、時速30キロという超スピードで走ってきた。それですらちょっと怖かったのに、一気に40キロまで上げろだなんて、話には聞いていたが、自動車学校というのはスパルタだぜ。

 ま、まあ、直線はけっこう距離があるし、大丈夫、か?


 カーブを抜けたので、俺はアクセルを踏み込む。タコメーターの針がぐんぐん上に向かい、それに伴ってエンジン音が激しくなる。


「いいよいいよー」


 今まで体験したことのないような速度に到達しているのが分かる。ほんの数秒も経たずに直線の半分を越え、気がつくともう次のカーブが目の前までやってきていた。


「うおおお」


 俺はたまらずブレーキを踏む。


「ブレーキはもうちょっと優しくねー」


 教官は呑気な声を出すが、俺はすでにいっぱいいっぱいだった。



 4



 翌日、眞昼が遊びに来た。未夜と朝華は用事があるようで、今日は彼女一人だけである。一緒にゲームをしながら、雑談をする。


「勇にぃ、自動車学校どうだった?」


 コーラを一気に飲み干し、眞昼は尋ねる。


「いやぁ、それがよ」


 と、俺は昨日体験した40キロの恐怖を語って聞かせる。眞昼は小馬鹿にするように笑みを作り、


「くくく、勇にぃ、ビビったのか」


「なんだと」


「40キロなんて、めっちゃ遅いじゃん」


 そう言ってけらけら笑う。


「ぐぬぬ」


 俺だって前まではそう思っていたさ。しかし、自分で運転してみるようになると、その認識はあっという間に消し飛んでしまった。


 自分の操作で1トン近くある鉄の塊が高速で動くということの凄さと恐ろしさを知ったのだ。


「まあ勇にぃはビビりだからなぁ。この前もウォータースライダーでめっちゃビビってたし」


「は? ビビッてねぇし。っていうか、眞昼も俺が猫を拾って来た時、ビビって尻尾の方ばっか触ってただろ」


「違うもん。あれは尻尾の方が気持ちいいと思ったからだし。あたしに怖いものなんかないからな」


 眞昼は腕を組み、少し胸を張って言い切った。


「言いやがったな」


 よかろう。ならば目に物見せてくれるぜ。


 俺は父の書斎に向かい、映画のDVDが収められた棚からホラー映画を抜き出す。そして部屋に戻った。


「な、なんだそれ」


 眞昼は体を硬直させる。


「ふっふっふ。怖いものなんかないんだろう? どっちが先にギブアップするか勝負と行こうじゃないか」



 *



「……」

「……」


 俺と眞昼はベッドの縁に並んで座っている。カーテンを閉め、明かりも消しているため、部屋は薄暗い。


 ホラー映画を見始めて一時間近くが経とうとしていた。物語はまだまだ中盤だが、すでにこちらの精神状態は佳境だ。怖い。


 呪いの館に閉じ込められた主人公たちが、封印された化け物から逃げながら館の秘密を解き明かし、脱出を試みるというミステリー要素を含んだホラー物である。


 おどろおどろしいBGMや作り込まれた不気味な館のセット、そしてなにより、前振りなくいきなり化け物が襲い掛かってくる緊張感が、観る者に一時の落ち着きすら与えない。


 眞昼め、早くギブアップしろ。


 横目で彼女の様子を窺うと、ハラハラした目で画面を見守っていた。


 その時、彼女の肩が小さく震えていることに気づく。映画に夢中で気づかなかったが、よく見ると体全体が小刻みに震えているのだ。


『ぐおおおおおおお』


 画面の中で、化け物が壁を突き破って主人公一向に襲い掛かった。


「ひっ」


 いつもの眞昼からは想像もつかないようなか細い悲鳴が漏れたかと思うと、そっと俺の手を握ってくる。


「……」


 なにをやっているんだ俺は。


 子供相手にムキになって、こんな小さな子にホラー映画を無理やり見せるなんて、大人として情けないと思わないのか。


 俺は自分自身の行動と幼稚さを恥じる。


「ああ、もうダメだ。俺の負けだ」


 俺はリモコンを手に取って停止ボタンを押し、カーテンを開けて部屋の電気を点けた。


「あっ」


「あー、怖かった」


「ふふ。勇にぃの負けだぞ」


 眞昼は勝ち誇った顔を見せる。


「畜生、もう怖すぎて見れねぇ。眞昼はすごいな」


「ふふん、あたしになんてないからな」


 そう言って、眞昼はそそくさと部屋を飛び出していった。

































「ふぅ」


 眞昼はトイレに駆け込む。


 先ほどからおしっこをしたくてたまらなかったのだが、トイレに行くと言って部屋を出たら、有月に怖いからだろうと誤解されると思ったので、我慢していたのだった。


「あの映画の続き、気になるな」


 帰りにDVDを借りようと思った眞昼であった。 



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