第168話 やってしまった
1
「好き」
どうしてその言葉が出てしまったのか。自分でもよく分からない。朝華のことや、スカウトのことを話そうと思っていたはずなのに、あたしの口から出たのは自分でも全く予想していなかった言葉だった。
朝華が、明日になれば帰って来てしまうという焦り?
朝華がいない間に、明日朝華がこっちへ来る前に、自分の気持ちをさらけ出してしまおうとしたのだろうか。あわよくば、それで勇にぃが気持ちを受け入れてくれたらって、そんな甘い考えがあたしを動かしたの?
それとも、スカウトに応じるつもりがないという話をするにあたって、どうして富士宮を離れたくないのか、その理由をまず言わなければいけないと思っていたの?
いずれにしても、もうあたしは言ってしまった。
自分の本心を。
ずっと隠していた、知られないようにしてきたこの想いを。
好き。
あたしは勇にぃが好き。
たった一言を口にしただけで、全身が燃えるように熱くなり、痛いぐらいに心臓が鼓動を強める。呼吸が荒くなったかと思うと、上手く息が吸えなかったりして、体が言うことを聞かない。
ああ、朝華もきっとこんな気持ちだったんだ。
自分の想いを声に出して相手に伝える。あたしは無意識のうちに、零れるように言ってしまったけれど、朝華は決心の末にようやく伝えたのだから、もっと苦しかったはずだ。
告白というのは簡単なことではないし、何より一人では成立しない。相手が受け入れてくれて初めて、その行為に意味が生まれるのだから。
あたしは運転席の方へ顔を向ける。そこには、困惑した勇にぃの顔があった。
「は?」
ぽかんと口を半開きにし、焦点の合わない視線をあたしに向ける勇にぃ。信じられないものを見るように、まるで理解ができないとでも言うように……
その表情を目にして、あたしの体を支配していた熱は、すぅっと失われていく。代わりに真冬の海に飛び込んだように、心が凍り付いていくのを感じる。
激しい後悔が沸々と湧き上がり、心を揺さぶる。その振動はやがてあたしの体に伝わり、唇が寒さを紛らわせる時のように震え始める。
どうしてこんなことを言ってしまったのか。
唇の震えのせいか、声が上手く出せない。
「あっ、えと……」
好きというのは別のことに対してだ、とそういうことで誤魔化してしまおうととっさに考えるが、何も思い浮かばない。
「そ、その」
車の屋根を打つ雨の音がどんどん大きくなり、あたしを飲み込もうとする。それからあたしたちは無言のままだったが、勇にぃは明らかに動揺していたし、それはあたしも同じだ。
やがてあたしの家の前に車が停まる。
「……」
「……」
「……」
勇にぃは斜め下を一瞬見てあたしに視線を合わせた。そして、言いにくそうに口を開く。
怖い。
後悔の渦が落ち着いた後、最後に残った感情は、それだった。
「あ、あのさ、眞昼」
返事を聞くのが、怖い。
勇にぃの反応から、あたしは恋愛対象として見られていなかったことがよく分かった。だからきっと、勇にぃはあたしなんかに告白されても、嬉しくないんだ。
だから、勇にぃはあたしのことを振るに決まっている。
その言葉を聞くのが怖い。
勇にぃから拒絶されるのが、怖い。
気づけば、あたしはドアを開け、車から飛び出していた。
雨に打たれながら我が家の玄関扉に飛びつき、後ろを振り向きもせずに中に入った。
「はぁ、はぁ」
「ちょっと眞昼、帰ったのー?」
ママの声がリビングから聞こえてくる。
「勇くんに送ってもらったの? ご飯は食べた?」
「……まだ」
ママが玄関まで出迎えにやってくる。
「もうそんなに濡れちゃって、先にお風呂入ってきちゃいなさい」
「……うん」
脱衣所に入り、濡れた服を脱ぎ捨てる。勇にぃに貰ったペンダントは、驚くほど冷たく感じた。
雨で濡れていたせいか、泣いているのはママにはバレなかった。湯船に体を沈める。このまま、どこまでも沈んでいきたい気分。
2
眞昼の言葉が頭から離れない。〈ムーンナイトテラス〉前の駐車場に車を停めたまま、俺はつい先ほどのやり取りを思い返していた。いや、あれはやり取りというほど込み入ったものではなかった。
たった一言。
彼女はたしかにこう言った。
好き、と。
最初はなんのことなのか全く分からなかった。
飲んでいたコーラが好きとか、雨の夜のドライブが好きとか、今流れている曲が好きだとか、必死にその言葉に当てはまるものを探そうとしたが、それらでは絶対にないことだけは分かっていた。
あの赤らんだ顔。二人きりという状況。そして好きという言葉。どれだけ鈍感な男でも、それらが意味するところを理解できないはずがないだろう。
眞昼が、俺のことを好き?
そのことに気づいた時、頭が文字通り真っ白になり、危うく事故を起こすところだった。
俺だって、人として、眞昼のことが好きだ。未夜や朝華のことも同じように可愛い妹分として好きだ。俺のこの想いは恋愛感情ではないはずだ。なぜならあいつらはまだ高校生なのだから。
湘南で、朝華に異性として好きだと言われた時、俺はひどく困惑した。が、今の俺はその時以上に困惑している。
あの眞昼が、いや眞昼だからこそ……
朝華との湘南の夜の一件以降、クソガキたちとの距離感に対して変な意識をしていたこともあったのはたしかだが、それはただ朝華の恋愛感情に気づかなかったがゆえの、俺の自意識過剰だとばかり思っていた。
いつでも元気いっぱいでみんなに笑顔を振りまき、部活では仲間を引っ張るキャプテンとして頑張る眞昼。クソガキの頃から全く中身が変わらず、東京から富士宮市に帰ってからも、ずっと身近な存在だった眞昼。
信じられない、というのが正直な気持ちだった。まさか、眞昼が俺のことをそういう対象として想いを寄せていたなんて。
そりゃあ、距離感が近かったりボディタッチが多かったりと、男女の知り合いにしてはちょっと近すぎるところはあった。けれど、それは十年前の関係があってこその兄妹のようなものだ、と少なくとも俺はそう認識していた。
「……眞昼」
龍石家へ到着して、眞昼はすぐに降りてしまった。最初の「好き」以降、なにも言わなかった。俺がなんの反応もできなかったことに腹を立ててしまったのか、逃げるようにドアを開けて出ていった。
彼女の告白にすぐに返事ができなかった自分が情けないが、はっきりとした答えを今この瞬間に出せるかと問われたら、頷くことは難しい。
頭に浮かんでいるのは、朝華のことだった。
俺は朝華にも恋慕の情を向けられており、それに対しても未だにきちんとした答えを出せていないのだ。
ただ、一貫している気持ちはある。
朝華も眞昼も、小さい頃から知っている妹のような存在で、俺とは年も大きく離れている上、二人は現役高校生。
それらが俺の心に抑止をかけている。
結局のところ、二人はまだ子供なのだ。もちろん彼女たちの気持ちをないがしろにするつもりなどないのだが……
俺はどうするべきなんだ。
彼女たちの想いを受け止めるには……いやそれよりも重大な問題があるではないか。
朝華と眞昼。
どっちを……?
日本は一夫一妻制だ。
仮に俺が彼女たちの想いを受け止める覚悟を決めたとしても、選べるのはどちらか一方だけ……
ああ、こんなことはまだ考えるには早いだろう。
車から降りると、バケツをひっくり返したかのような大雨が俺の全身を濡らす。雨と外気の冷たさに体が震えるのに、心は煮えたぎる油のように熱かった。
なにはともかく、まずは眞昼と話をしなければ。テラス席の屋根の下で俺はスマホを取り出し、眞昼に電話をかける。
しかし、耳に届くのは雨の音と呼び出し音だけ。
横殴りの風が雨をテラスまで運んでくる。雨に濡れながらしばらく電話をかけ続けたが、眞昼が出ることはなかった。
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