第160話  子供の名前

 1



『まもなく、目的地周辺です』


 ナビの無機質な声が流れる。


「そろそろだな」


 富士宮を出発して一時間弱、ようやく俺たちは日本平動物園に到着した。朝華が急に動物園に行きたいと言い出したのでやってきたわけだ。


 静岡県民にとって動物園といえばやはり日本平動物園以外ないだろう。俺も子供の頃よく家族で訪れたものだ。最後に訪れたのは小学校六年生の頃だったかな。もう十六、七年以上も前だ。


「あっ、勇にぃ、そこからは入れません」


「え? あれ、本当だ」


 駐車場へ右折入場ができなくなっていた。


「ぐるっと回ってこないと入れませんよ」


「みたいだな」


 昔となんだか勝手が違う。まあ、年月が経てばシステムも変わるだろう。大回りをして駐車場へ。まだ九時半なのに、日曜日だけあってけっこう混んでいる。家族連れや若いカップル、年老いた老夫婦に中年男性の一人客など、客層は様々だ。


「いいお天気ですねぇ」


 朝華は車から降りるとぐぐっと伸びをした。


「寒くないか?」


 今日の朝華は露出が多い。肩も出ているブラウスにスカートも短めだ。朝華の白肌がさらけ出され、シンプルに目に毒だ。


「全然……あっ、ちょっと寒いかも」


 そう言って朝華は俺の腕に身を寄せてきた。


「お、おい」


「えへへ」


 肘に柔らかいものが押し付けられ、俺はあの夜の昂ぶりが蘇りかけたので前を歩いていたおっさんを凝視した。


「朝華、歩きにくいから」


「はぁい」


 朝華は体を離す代わりに手を繋いできた。まあ、これくらいならいいか。


 券売機で駐車券を買い、いよいよ動物園へ。


「……なんだ、ここは」


 目の前に広がる光景に、俺は呆然とするばかりだった。


 俺の記憶のアルバムに保存されている光景と、眼前の光景が一致しない。


 レッサーパンダが描かれたエントランスゲートはお洒落な現代風の角ばったものに変わっている。正面には「日本平動物園」と記された黒い艶やかな看板もある。動物園というよりも、美術館のような外観じゃないか。


「勇にぃ、どうしました?」


「いや、なんか前に来た時と違って……」


「あー、前って?」


「二〇〇六年くらい」


「……それは前じゃなくてだいぶ前ですね。たしか勇にぃが東京に行ってすぐぐらいにリニューアルしたみたいです」


「そうなのか!?」


 全然知らなかった。


 とりあえずエントランスゲートをくぐり、俺はさらに驚くことになる。


「ふ、フラミンゴがいないぞ」


 たしか、入ってすぐのところにフラミンゴが飼育されているエリアがあったはずだ。それが今では別の建物に変わってしまっている。


「あそこはレッサーパンダ館ですね」


「れっさー、ぱんだ?」


「この動物園の目玉ですからね。一番のお楽しみに取っておきましょうか。行きましょう、勇にぃ」


 そして俺たちは左のルートに足を向ける。


 やがて、類人猿が飼育されている檻が左手に現れた。


「チンパンジー可愛いですね」


「可愛い……か?」


 聞いた話では大人のチンパンジーは狂暴になることがあるそうだ。


「おっ、人間の檻」


 これは昔もあったな。思い出の光景と出会えた俺はほっと息をつく。


 類人猿エリアに交じって設置された無人の檻。ようになっていて、他の動物たちと同じように「ヒト」というプレートが檻の前に取り付けられている。


 客たちが「ヒト」として動物園の動物の気分を味わえる皮肉と洒落っ気の効いた展示である。


「勇にぃ、ちょっと入ってみてください」


「いいぞ」


 檻越しに見る朝華はなんだかとても高揚した顔になっていた。


「写真撮りますから、なにかポーズをしてください」


「そうだな……よし」


 俺は檻に掴まり、手を伸ばす。


「出してくれー、なんて」


「うふふ」


 パシャリ、とシャッター音が響く。


 写真を確認してみると、まるで俺が牢獄の中に監禁されているような構図になっていた。



 2



「ライオン……がいない?」


 類人猿のエリアを抜けた先の曲がり角にはたしかライオンのエリアがあったはずだ。それが今では白塗りの建物に変わってしまっている。


「猛獣……館、299?」


「猛獣はみんなこの建物の中に展示されているそうですよ」


「へぇ、入ってみるか」


 中にはホッキョクグマやゴマアザラシ、ライオンにアムールトラなどが展示されていた。


 驚くべきはその構造で、吹き抜けやガラス張りの壁などを使い、一つの動物を別の階から眺めることができるという点だ。これにより、様々な角度から動物たちを観察することができる。


 それにしてもライオンの真横にミーアキャットを展示するとは……


「あっ、ジャガーです」


「おわぁっ、ジャンプしてきたぞ」


 ジャガーの展示場はフェンスで囲われた通路が展示場の内側に張り出すようになっており、より間近に見ることができる。さらにはフェンスの上にジャガーが乗ってくることもあり、まさかの下から見上げることも可能である。


「すげぇ迫力だな」


「こ、怖いです」


 ジャガーはそのまま金網の上にうずくまり、グルグルと唸り声をあげる。


 朝華は恐ろしくなったのか、俺の腕に抱き着いてきた。


「そろそろ行くか」


「はい」


「……」


「……」


「……」


「……」


「そろそろ離してくんない?」


「やぁです」



 3



 猛獣館を抜け、ルートに戻る。新しい施設や展示などがある一方で、全体のルートは昔とほとんど変わりなかった。それでも、目に映る光景は新鮮そのもので、懐かしさを味わおうと思っていた俺は、どこか寂しさも感じていた。


「馬鹿でかい鳥かごがあそこにあったはずなんだが」


 様々な鳥が放し飼いにされていて、その中を歩ける巨大な鳥かごのような施設も撤去されていた。


「フライングメガドームですか? それはもっと行った先にありますよ」


「フライング、メガドーム?」


 聞きなれない単語に俺の脳は困惑する。


「おっきなドームです。フラミンゴもそこにいますよ。ほらあれ」


 朝華は遠くの巨大な金網を指さす。先ほどからちらちら目に入っていたが、あれがそうだったのか。


 それからも見るものほとんどが新しいもので、俺の思い出の面影はほとんど残っていなかった。しいて言えば、ゾウのエリアくらいか。


 そして何より俺を驚かせたのはレストハウスで食事を終えた後のことだった。


「あ、あれ?」


 レストハウスの横はこじんまりとした遊園地になっていたはずだった。


 ゴーカートやコインで動くミニアトラクション、メリーゴーランドにカブトムシのコースターに汽車の乗り物、ロケットをモチーフにした回転ブランコ……


 動物園に来て遊園地というのもなんだかおかしな気もするが、子供の頃はむしろこの遊園地を一番の楽しみにしていた。それが「ふれあい広場」なる牧場のようなエリアに変わってしまっていたのだ。


「ここは動物と触れ合えるみたいですね……勇にぃ?」


 胸の内にぽっかり穴が開いたような喪失感が俺を支配していた。


 ああ、か。


 朝華が恐れていた思い出を失うことの恐怖。思い出が塗り替えられていく喪失感。


 それを、俺はようやくはっきりできたように思う。


 もう、俺はあの遊園地を訪れることはできないのだ。


 思い出として振り返ることしかできないのだ。


 それがどれだけ辛いことなのか、やっと分かった。


「勇にぃ? 気分でも悪いんですか?」


 我に返ると、朝華が心配そうな顔をして寄り添っていた。


「いや、大丈夫。なんでもないって」


「そうですか」


 俺たちの横を子供たちがはしゃぎながら駆け抜けていく。あの子たちにとっては今のこの場所が思い出の景色になっていくのだろう。


 ずっと同じものなんてない。


 変化があるから成長があるのだから。


「よし、行くか。おっ、ウサギを抱っこできるみたいだぜ」


「はい」


 そうして俺たちは半日かけて動物園を楽しみつくした。最後に入ったのはレッサーパンダ館。

 なんでもここ日本平動物園はレッサーパンダの聖地として有名なのだそうだ。かつて日本を騒がせた後ろ足で立つレッサーパンダ「風太」も、実はこの日本平動物園で生まれたという。


 配置的にも本来は一番最初に入るべき建物なのだろう。たぶん、一番最後にここを訪れる客は俺たちだけかもしれない。


「はぁ、可愛いですねぇ」


「だな」


 こんなことを言ったら失礼かもしれないが、この可愛さは野生で生きている姿が想像できないレベルだ。もふもふの茶色い毛並みにクリっとした目。ポンコツ具合といい、なんだか未夜に似てる気がする。


「あっ、転んじゃいました」


 ポテポテ歩く姿も愛らしい。


「そうだ、勇にぃ」


「あん?」


「子供の名前、どうしますか?」


「……は、はぁ?」


 俺の聞き間違いか?


 子供の名前?


 こいつ、いきなりなにを言い出すんだ。


「せっかくですから二人の名前をとって、勇華ゆうかとかどうですか?」


「おま、な、なに言ってんの?」


 まだ結婚、いや、付き合ってすらいないのに、子供の名前なんて飛躍が過ぎるぞ……


 あっ、ま、まさか、あの湘南の夜でデキてしまったとでもいうのか?


 いやいや、それはありえない。だってあれは未遂に終わったからそもそも入ってないはずだ。


 いや、待て。


 俺がそう思い込んでいるだけで、本当はヤってしまった??


 俺はもう、童貞じゃない……?


「あわわわわわ」


 いやそんなことより、現役女子高生を孕ませたなんてことが世に知られたら……


「あ、朝華、責任は取るから」


 俺は朝華の肩を掴む。


「はぁ、なんの話でしょうか?」


 朝華はきょとんとした顔で俺を見上げ、首を傾げた。


「へ?」


「勇にぃ。赤ちゃんの名前の話ですよ?」


「いやだから」


「あれです」


 言って朝華は屋内の一角を指さす。


 そこは『レッサーパンダの赤ちゃんの名前募集』という表記がされたコーナーだった。先月生まれた、雌の赤ちゃんの名前を一般公募しているようだ。


「あっ……」


「ふふ、なんの想像をしてたんですか?」


 朝華はにやにやしながら俺を見つめる。


「な、なんでもないぞ。ははは、レッサーパンダの名前か。『レッツ』なんていいかもな。あは、あはははは」


 そして俺たちは日本平動物園を隅から隅まで楽しみつくしたのだった。



 *



 ふうん、もしデキたらちゃんと責任は取ってくれるんですね。


 これは収穫だ。


 うふふふふ。



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