第109話  わんっわん

 1



「ううん、ん?」


 目を覚ますと、部員たちがあたしを取り囲んでいた。みんなパジャマ姿のままで、一様に心配そうな面持ちだ。


 なんだ?

 なにかあったのか?


 あたしはみんなを見回して、


「びっくりした。なんだよ、みんなして」


「まっひー、泣いてたから」


 香織が言った。


「はぁ?」


「寝ながら泣いてたから、心配になっちゃって」


「泣いてたって、あたしが?」


「うん。それにうなされてたよ?」


「泣いてなんか……」


 そういえば、目の周りがなんだかちょっぴりヒリヒリするような。枕も少しだけ濡れていた。


 泣くような夢なんか見ただろうか。

 あたしは夢の内容を反芻しようと試みたが、すぐにやめた。


 勇にぃがどこかへ行ってしまう夢だったから。


「まっひー、大丈夫?」


「大丈夫だって。あくびして涙が出たとか、そんなとこだろ」


 あたしは起き上がる。努めて明るい声を作った。部長が皆を不安にさせるようなことがあってはならない。


「ほら、さっさと支度して、朝飯にしようぜ」


 布団を片づけ、一同はぞろぞろと部屋を出ていく。


 勇にぃと離れ離れになるなんて、もうそんなことあるはずがないのに。


 あたしの脳みその中の夢を司る場所は何を考えてんだ。


 勇にぃはもうどこにも行かないもん。


 ずっとあたしたちと一緒だ。



 2



「うわわ、お父さん、もうちょっと静かに走ってよ」


「あんだよ、未夜。車ん中でパソコンなんかいじって」


「小説書いてるの。見ないでって、前見てよ危ないじゃん」


「どっちだよ」


「運転に集中してってこと」


 全く、お父さんの車はすごく揺れるんだから。手が滑って変なところで改行しちゃった。


「それにしても今日は空いてるな。おっ、FCだ。懐かしいな」


 やがて父の車は東名高速に入った。


 今日の目的地は静岡市の大学のオープンキャンパスである。お父さんが付き添いなのはちょっと不安だけど。



 3



「未夜ちゃんはオープンキャンパス、眞昼ちゃんは合宿……」


 ということは、


「うふふふふふふ」


 思わずよだれが出そうだ。


 今日は勇にぃと二人っきりで過ごせる。しかも勇にぃはお休みだって言ってたし。


 心が浮き立つ。


 私は窓辺に寄ってカーテンを開けた。青々とした庭の風景。庭の向こうに広がる林から、蝉や鳥の鳴き声が聞こえてくる。


 今日も日射しが強い。

 とっても暑そうだ。


 私はスマホを手に取り、ラインを送る。


『勇にぃ、起きてますか?』


 サムズアップをした豚のスタンプが返ってきた。


『遊びに行きたいです』


『いいぞ』


『今から行きますね』


『暑いから迎えに行ってやるよ』


『ありがとうございます♡』


 私はさっそくパジャマを脱いだ。



 4



 長い坂を上り、源道寺家へ。


 駐車場に車はない。シビックを停めて玄関へ向かう。


「勇にぃ、おはようございます」


「おう……ってなんだその格好は」


 薄いキャミソールに太ももが露出したショートパンツ。桃色のブラ紐が肩にかかっている。


「暑くって。夏ですし」


「そりゃそうだけど、その格好で出かけるのは駄目だぞ」


「家の中だけですから大丈夫です。どうぞ、入って。まずはお茶でも飲んでいってください」


「お邪魔します……冷房ガンガンじゃねぇか」


 朝華の部屋に通される。


「麦茶でいいですか?」


「ああ、ありがとう……」


 朝華は前のめりになって給仕をする。キャミは胸元が大きく開いていて、ブラと肌の隙間が見えそうになった。俺はさっと目を逸らす。


 こ、こいつ、無警戒すぎるだろ。俺だって男なんだ。俺を信頼しているのは嬉しいが、男と同じ部屋でこんな無防備な格好をするなんて、将来が心配になる。


 意識していることを悟られないように、さっそく注がれた麦茶に手を伸ばして喉を潤した。


「ふぅ、美味い」


 朝華は自分の分の麦茶を注ぎ終えると、そそくさと俺の横に座った。こてんと頭を俺の肩に預ける。

 

 ぽぉっとするようないい香りが朝華の体から匂い立つ。


 朝華はすんすんと鼻を鳴らして、


「勇にぃ、シャワー浴びてきました?」


「朝方、未空ちゃんたちとバスケしてきたからな」


「そう……残念です」


「何が?」


「今日はずっと二人っきりですね」


「そうだな。未夜はたっちゃんとオープンキャンパスだし、眞昼は明日まで合宿だったな」


「ちなみに、今日はお手伝いさんたちもいません」


「そうなのか?」


「正真正銘の二人っきりです」


 その報告はいるのか?


 テレビをつけると、ワイドショーでキャンプの特集をしていた。


「キャンプかぁ、いいなぁ」


「みんなで行ったら楽しそうですね」


「そうだな、未夜と眞昼にも相談して、ふもとっぱら辺りでやってみるか」


 この街の北西部はキャンプ場が充実している。


「今はあそこはアニメの聖地になってますよ。キャンプをテーマにしたアニメの舞台になりましたから」


「へぇ」


 知らない間に地元が有名になっていたとは。


「朝華はアニメ好きなんだな」


「学校の友達の影響で――」


 雑談をしながらのんびりと過ごす。


 ワイドショーも終盤になり、視聴者のペット特集に移り変わった。


「そうだ」と言って、朝華は立ち上がる。何をするのかと見守っていると、朝華はそのまま部屋を出ていく。


「いいものがありますから、ちょっと待っていてください」


 待つこと数分。


 朝華はの姿勢で戻ってきた。


 犬耳のカチューシャを付け、細い首には革製の首輪が。


「わんっわん」


「おわ」


 そのまま俺の方へ飛びついてくる。


「なんだ、その格好は」


 本日二度目のセリフである。


「えへへ、この前、物置を片づけていたら見つけたんです。憶えていませんか? 昔、みんなでおままごとをした時、未夜ちゃんが持ってきたものです」


「そういえば……」


 記憶を手繰る。そんなこともあったっけ。


「犬役は私がやる予定だったんですよ?」


 たしか、誰が犬役をやるかじゃんけんをして……

 そうだそうだ、朝華に決まったけどさすがに小一女児に首輪はまずいと、俺が代わりに犬役になったんだ。そしてあらぬ誤解を受けたりして……


 今の朝華は高校三年生。首輪をつけてもやばい絵面にはならない……いやなる。


「どうですか?」


 どうですか、と言われても、なんと返せばよいのか全く分からない。


「わんっ」


 朝華はのしかかるようにして体を預ける。


「犬が甘えてきたら撫でてあげるものですよ?」


「……よーし、よしよし」


 俺は朝華の頭を撫でてみる。指の内側がさらさらの髪を滑っていくのが気持ちいい。


「わん」


 朝華に尻尾が生えていたら、きっとこれでもかというくらい振っていただろう。甘え癖は治るどころかどんどん悪化しているように思う。

 女子高生に犬耳と首輪をつけさせて、犬にするようなあやし方をするなんて、こいつが妹分じゃなかったらとてつもなく不健全で犯罪的なシチュエーションだ。


「お前は本当に犬みたいだな」


「わん」


 朝華は俺の手を取ると、それを口元に近づけ、桃色の唇に押し付ける。


「え?」


 ぷにっとした感触が指先に伝わったかと思うと、


「ちゅっ」


「はぁ!?」


 なんとぺろぺろと舐め始めた。人差し指の先を丹念に舐める。朝華の舌べろの感触は暖かくて柔らかくて心地いい……じゃなくて。


「こら、朝華」


 犬は飼い主の手や顔を舐めるものだが、それはさすがにやりすぎだ。


「やめなさい」


「ちゅ、ちゅぱ」


「朝華!」


「くぅん」


 朝華は止まらない。無理に引き剥がそうとすると、拒絶されたと勘違いするかもしれない。


 待てよ?


 今のこいつは犬なんだから……


「朝華、おすわり」


「わん」


 朝華はすっと身を引くと、その場にぺたんと座り込んでおすわりのポーズになった。とろんとした目でこちらを見つめる。


「お手」


「わん」


「ちんちん」


「わん」


 な、なんか変な雰囲気になってきた。


「朝華、いい時間だ。そろそろ出かけようか」


「はい、散歩ですね。リード持ってきます」


「違うわ!」


 女子高生をリードで繋いで散歩なんかさせたら、確実に通報される。古き思い出の中の、数々の誤解による事件が脳裏をよぎる。


「ほら、犬ごっこはもうおしまい」


「はーい」


 そう言って、朝華は犬耳を外し、テーブルの上に置いた。やっと終わった。部屋から一歩も出てないのに、どっと疲れが溜まった気がする。


「さて、どこに行きたい?」


「どこでもいいですよ。勇にぃと一緒ならどこに行っても楽しいです」


「んー、じゃあ、ちょっとドライブでも行くか」


「はい」


「その前に、ちゃんとした服に着替えろ」


「分かりました」と言って、朝華はクローゼットからサマーニットを取り出しキャミの上から着る。

 鎖骨が見えているが、まあ、これくらいの露出ならいいだろう。


「行きましょうか」


「おう、って……首輪も外せ!」




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