第105話  何年経っても……

 1



「んっふっふ~、可愛いな~」


 テーブルの上をちょこちょこ歩くカブトムシ。


 雄々しく反り返った角、こげ茶色の重厚なボディ、太い脚がたくましい。


「ずっと見てられるかも」


 子供の頃からカブトムシが好きな私は、毎年夏になると、街はずれの林でカブトムシ採集をするのだ。この子は今日の朝早く、父にその林まで連れて行ってもらって捕まえた。


「おねぇ、起きろ……あれ? もう起きてる?」


 八時過ぎ、ラジオ体操から帰った未空が私を起こしにやってきたが残念、今日はすでに起きているのだ。


「あ、未空おはよう」


「おはよ、なに今日早いじゃん……うわっ」


 未空はテーブルの上に視線を落とすと、ばっと一歩後ずさる。


「な、な、なにそれ」


「なにそれって、カブトムシだよ。さっき捕まえてきたの」


「またか……てかなんでケージから出してんのさ。ちゃんとケージに入れといてよ」


「大丈夫だって。窓も閉め切ってるんだから、あっ、ドア閉めてね。未空も見る? 可愛いよ」


「いやいい、キモい」と冷ややかな声。


「キモくないよ、可愛いよ?」


 全く、これだから現代っ子は貧弱で困る。


「自由研究の題材にしていいよ? お姉ちゃんなんか毎年カブトムシの観察日記作ってたんだから」


 私はカブトムシを摘み上げ、未空の顔に近づける。


 カブトムシの何が可愛いって、森の中だと最強の昆虫の王様のくせして、こうやって摘み上げるとあわあわと足を動かして暴れるのが最高に可愛い。


「ほらぁ、可愛いでしょ」


「ひ、ひぃ」


 未空は弾かれるように後退する。


「大げさな」


「いいからそんなの、ゴキブリと何が違うのさ」


「だよねぇ、ゴキブリもカブトムシのメスもたいして変わんないよねぇ」


「そういう意味じゃないんだけど……あっ、そうだ。勇さん、着替えたらすぐ来るって言ってたから」


「勇にぃ? ああ、はいはい」


「ちゃんとしまっておかないと、逃げ出されちゃうからね」


 そう言って未空は出ていった。


 そうだった。


 今日は勇にぃがうちに遊びにくるんだった。


 二人で共作している推理小説のだいたいのプロットが出来上がったので、勇にぃに見てもらうために私が呼んだのだ。二人でアイデアを出し合い、ようやくここまでこぎつけた。

 勇にぃは創作初心者だからプロットと文章は私が担当することになっている。


「えっと」


 私はテーブルの上にカブトムシを置き、創作ノートとノートパソコンを取るために机に向かった。


 そうそう、このカブトムシもケージに入れておかなきゃ。勇にぃはカブトムシ、というか虫全般が苦手だからなぁ。この前もゴキブリのフィギュアでびくびくしてたし。

 そういえば昔、顔にカブトムシが張り付いたくらいで気絶したこともあったっけ。あの時は本当に面白かった。昔懐かしい夏の思い出に私は顔をほころばせる。


「ほら、おうちに帰るよー……ん?」


 そうして振り向いた私の目には、何もないテーブルだけが映った。


「え?」



 2



「……あ、あれ?」


 首筋に冷や汗が浮かぶ。


「……」


 たしかに私はカブトムシを机に離したはず。それから机の前に行って、ノートやパソコンをテーブルに運ぼうとした。その間、だいたい十秒弱……


「うそでしょ?」


 たった十秒目を離したすきに、カブトムシがいなくなっちゃった。


「あわわわわ」


 私はテーブルの下を覗く。


「どこ? どこ行っちゃったの?」


 しかしそこには何もない。


 クッションを持ち上げる。が、いない。ベッドに目を向け、シーツや枕、掛け布団など、片っ端からどけてみる。

 

「ええ……」


 ま、まずい。


 勇にぃが来るまでになんとか見つけ出さないと。


 勇にぃがカブトムシと鉢合わせでもしたら、また気を失っちゃうかも……


 幸い、ドアも窓も閉め切ってあるので、脱走の心配はない。あの子は確実にこの部屋のどこかにいる。


 ベッドの下を覗き込む。


「うーむ、いない」


 私はベッドの上に立ち、背伸びをした。できるだけ高い視点から部屋を見回す。手のひらサイズの生き物が動けば必ず目に留まるはずなのだ。


 しかし、視界の中で何かが動く気配はない。耳を澄まし、足音を感じ取ろうと試みたが、それらしい物音は聞こえなかった。


 やつめ、今はどこかの陰にじっと隠れているようだ。狙われていることを察知したのか?


 やがて、聞きなれたエンジン音が外から聞こえてきた。


「あっ、来ちゃった」


 勇にぃの車の音だ。


 これはまずいぞ。私は急いでケージをベランダに出した。


「あらぁ、勇くん」という母の声が階下から聞こえる。


 その数秒後、勇にぃがドアを開けた。


「来たぞ、未夜」


「あ、うん、勇にぃ、おはよ」


「なんだ? なんか汗かいてるぞ?」


「へ? ああ、いや、夏だし、暑くって」


「冷房ガンガンじゃねーか。大丈夫か?」


「大丈夫、大丈夫」


 勇にぃはテーブルとベッドの間のクッションに腰を下ろす。


「いやぁ、それにしても一昨日は驚いたなぁ。まさか下村と龍姫ちゃんが親子だったなんてなー」


「はは、そうだねぇ……っ!」


 や、やばい。


 よりによって勇にぃがやってきた直後に姿を現すとは……


 戸口の横の本棚の三段目――海外ミステリコレクションのエリア――にあの子がいた。


 勇にぃがちょっと左を向けば、すぐに見つかってしまう。距離にして約一メートル。


 お、落ち着け、私。居場所は把握できたんだ。あとは捕まえるだけじゃないか。そう、勇にぃに見つからないように、静かに、ゆっくり。


「てかお前、寝相悪すぎだろ。ベッドめちゃめちゃじゃねーか」


「え?あ、いやこれはちょっと訳ありで……そんなことよりはい、勇にぃ、さっそくだけどこれ」


 私はノートパソコンを勇にぃに預け、Wordに書き起こしたプロットを見せる。


「サンキュー」


「とりあえず、事件発生から解決までの流れを作ってみたよ」


「ほうほう」


 勇にぃは真剣な面持ちで画面を見つめている。


 今のうちだ。


 勇にぃの視線がパソコンに集中している隙に、さっさと捕獲してしまおう。


 私はさりげなく本棚の方へ移動する。


 よしよし、あの子は今『ローマ帽子の謎』の前にいる。そのままじっとしておきなさいよ。

 カブトムシを刺激しないようにゆっくり近づく。


 さっと摘み上げて、勇にぃの目に触れないようにベランダに出て、ケージにしまう。たったこれだけのこと。


 その時、私の右側頭部にドアがぶつかった。


 ゴンッ。


「ぐほっ」


「勇くん、お茶飲む? ちょっと未夜、ドアの前で何してるの」


 母が飲み物を運んできたようだ。


「っつ~」


「あ、いただきます」


「痛たた……」


「未夜は相変わらずドジだな」


 もう、誰のためにこんな努力をしてると思ってんの。相変わらず鈍感なんだから。


 勇にぃは今の騒動の方に気を取られ、本棚のカブトムシには気づかなかったようだ。


 いい子、いい子。そのまま、そのまま……


 私は痛みを我慢しながら這うようにして本棚に向かう。


 あと一メートル。



 あと五十センチ。



 あと三十センチ。



 その時、カブトムシと目があった――ような気がした。


 嫌な予感が私の胸を打つ。


 お願いだから、そのままじっとしてて。










 ブオン。












 そして、彼は飛び立った。



 3



「なんだ今の音……おわぁ!!」


「あわわわわ」


 空中を飛び回るカブトムシ。


 勇にぃは突然のことにパニックになったようで、驚き顔のままわたわたしている。


「な、なんでこんなとこにカブトムシが」


 当然のツッコミだ。


「こら、下りてきなさい」


 私はベッドの上に乗り、カブトムシを追う。


 円を描くように旋回していたカブトムシは、突如降下し、勇にぃの方へ向かった。


「うわ」


「きゃっ」


 勇にぃが反射的にベッドの方へ飛び移り、そこにいた私に後ろから抱き着く。


 力強く私は抱きしめられる。そして、勇にぃの顔がすぐそばに。


 あ、なんかいい匂いする。


 腕もごつごつしてるし、なんか懐かしい感じ……


「って、勇にぃ、どこ触ってるの」


 私の胸に手が当たっているが、勇にぃはそれどころじゃないようでいっそう強く抱き着いてくる。


「ああ、もう……ひゃっ」


「未夜、早く捕まえてくれ」


「だからまずは私を離してって」


 勇にぃの手が私の体を這う。


「ひゃあんっ」


「うおおお」


 勇にぃを落ち着かせ、カブトムシを捕まえるまでそれから十五分かかった。



 *



 それ以降、未夜は部屋でカブトムシを放すのをやめたとさ。




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