第106話  昼間に月は浮かばない

 1



『やだぁ、あたし、いい子にするから、いかないで!』



 顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、あたしは勇にぃの手を引っ張る。未夜も朝華も、同じように顔を濡らして勇にぃにくっついている。


 声を張り上げ、必死で勇にぃを引き留めた。


『もういたずらしないからぁ、お願いだからいかないでよぉ!』


 子供の貧弱な力では勇にぃを引き留めることはできない。


『いやだ! いやだ!』


『必ず、帰ってくるから』



 勇にぃがそう言ったのとほぼ同時に、目が覚めた。



「うぅ、夢か」


 上半身を起こし、日が差し込む窓に目をやる。全身にどっと寝汗をかいている。いやな夢を見たからだろう。


 久々に見たな、あのお別れの日の夢は。


「ふわぁ」


 ベッドから降り、着替えとバスタオルを持って浴室へ。熱いシャワーを頭から浴び、今しがたの悪夢を振り払う。今さらあんな夢を見るなんて、どうかしてるぜ。

 もう勇にぃは帰ってきてくれたんだからいいじゃないか。


「……勇にぃ」


 胸の奥がじんと熱くなる。


 大事なものは、失って初めて気づくものだ。


 勇にぃが上京してから、あたしはあの人のことが好きだと気づいた。ぽっかりと心に穴が開いたような感じで何も手につかなくなった。

 悲しくて、寂しくて、勇にぃがいなくなってしばらくの間は、本当に毎日を生きていくのが苦痛だった。


 毎朝起きるたびに、全部悪い夢であってほしいと願った。〈ムーンナイトテラス〉に行けば勇にぃがいて、また騒がしい日常が戻ってくるんだって。


 でも現実は全く変わらず、勇にぃのいない日常を退屈に過ごすばかりだった。


 それでも希望はあった。


 社会人といえど休暇はある。

 

 ゴールデンウィークや夏休みの長期休暇になったら、帰ってきてくれるよ、と大人たちは慰めてくれた。だからあたしはもう勇にぃを困らせないようにいい子でいようと決心した。


 だけど、勇にぃは一度も帰ってこなかった。


 次は帰ってきてくれる、次は帰ってきてくれる、次は……


 期待をしては裏切られを繰り返し、だんだんとあたしは怒りを感じるようになった。


 なんで帰ってきてくれないの?

 

 約束したのに。


 あたしたちのことなんかどうでもいいの?


 怒りは蓄積していくばかりだったけれど、勇にぃのことは嫌いにはなれなかった。いっそのこと、嫌いになれたら楽だっただろうに。


 好きになってしまったから苦しかった。


 恋心は消えるどころか、どんどんと膨らんであたしを苦しめた。



 *



「ふぅ、さっぱり」


 髪を乾かし、朝ご飯を食べて部屋に戻る。


 練習着に着替え、日焼け止めを塗る。そしてその上からジャージを着て、腕まくりをする。最後に左手にリストバンドを付けた。


 身支度を済ませ、携帯をいじっていると勇にぃからラインが来た。最初は既読がどうのと難色を示していたが、あたしと未夜の説得で、最近ようやくラインをインストールしてくれた。


『今日から合宿だろ?』


『うん』


『頑張れよ』


『頑張るぞ』


 筋肉盛り盛りの豚が力こぶを作っているスタンプが送られてきた。


「ふふ、なにこのスタンプ」


 何気ないやり取りが楽しい。


 十年渇望した、勇にぃがいる日常。


 もうこの当たり前の幸せを失いたくない。



 2



 合宿といっても、市外に遠出をするわけではない。練習時間を普段よりも拡大し、高校の敷地内に建つ宿泊施設、北嶺ほくれい館で寝泊まりをする。

 キッチン、寝室、男女別の浴場、会議室など、設備が充実しているため、この学校の合宿はもっぱらここが使われる。


「じゃ、みんな、これから三日間、気張っていくよ」


 あたしがそう言うと、


「はい」とみんなの声が揃った。


 荷物を北嶺館に置き、体育館へ向かう。日射しが強い。グラウンドではサッカー部がキビキビと練習に励んでおり、夏期補講に参加する生徒や他の部活の生徒とすれ違った。


 リストバンドを撫で、頬をぺしっと叩いて気合いを入れる。


「っしゃ、やるか」


 練習、昼食、そしてまた練習。打って跳んで跳ねて弾いてまた跳んで。日が沈む頃には、もうみんなすっかりへとへとになっていた。


 スポーツドリンクを流し込み、タオルで汗を拭う。谷間にも汗が溜まって気持ち悪い。早くお風呂に入りたいな。


 体育館の掃除と片づけを終え、北嶺館に戻る。


「あっ、みっくんだ」


「サッカー部も今終わったみたいだね」


 その帰り道、一年たちがサッカー部の男子の方をちらちら見て足が止まっていた。どうやら彼氏がサッカー部にいるようだ。


「ほら、さっさと歩く」


「はーい……あ、龍石先輩、うちのクラスの高本たかもとって男子が龍石先輩のこと気になるって言ってたんすよ。サッカー部で、ほらあそこの黄色いゼッケンの十五番」


「んなことどうでもいいから、さっさと戻って風呂入るぞ」


「いやいや、高本って背も高くて――あう」


 一年どもの背中を押して進ませる。


「今度話だけでも聞いてあげてくださいよ。真面目で、今時珍しい熱血タイプで――」


「興味ねぇっつーの。ほら、歩けって」


「はーい」



 *



「あっふ~」


 夕食の前に学年ごとに風呂に入った。疲れた体にお湯が染み渡る。


「ちょ、まっひー、また成長した!?」


「ほんとだ」


「揉むな!」


「すご、浮いてるんですけど」


「手が、手が幸せだよ~」


「わわっ、くすぐったいだろうが」


「何食べたらこんなに大きくなるの?」


 香織が大真面目な顔で聞く。


「知るか!」


 思いきり湯船のお湯をかけてやった。



 3



 食事はみんなでカツカレーを作った。

 家の外で食べるカレーはなぜかしら美味しく感じる。


 二皿食べてきっちりエネルギーの補充を済ませた。本当はもう一回おかわりしたかったが、この後のミーティングで眠くなるといけない。キャプテンがうつらうつらしていたら、みんなの士気にかかわるもん。


 一階の会議室でミーティングを行い、ようやく一日も終わりだ。


 雑魚寝の布団に潜り、スマホを確認すると、勇にぃたちからラインが入っていた。


 四人だけのトークルーム『朝昼夜と月』。元々は未夜と朝華とあたしだけの『朝昼夜』だったのだが、勇にぃがラインを始めたので招待してあげることにしたのだ、


「ふふ」


 どうやら今日、未夜がカブトムシを脱走させてひと悶着あったらしい。全く未夜は本当にドジっ子だな。


「まっひー」


 横の布団の香織が潜り込んでくる。


「おわっ、なんだよ」


「んっふっふ、合宿の夜といえばコイバナっしょ」


 気づけば三年のメンバーも集まってきていた。全く、みんなどうして他人の色恋沙汰でそんなに夢中になれるんだか。


「――それでさ、二組の堀口ほりぐちが外神ちゃんに告ったんだって」


「あれ? 堀口って一年生の彼女いなかったっけ?」


「別れたみたいよ。で、まあ結果は当然惨敗」


「さすがは鉄壁聖女様」


 時刻はもうじき十一時を過ぎようとしている。もう一時間はこうやってだべっている。明日は六時起きだというのに。

 今日はかなりハードな練習をこなしたはずなのに、みんなよく体力が持つな。


「鉄壁聖女といえば、ここにもいるっしょ」


「そっかそっか」


「まっひーはどうなの?」


 水を向けられる。


「あん?」


「誰か気になる男とかいないの? ぶっちゃけ一人くらいはいいなって思う男の子いるっしょ?」


「腹を割って話すんだ」


「いないって。あたしはそういうのに興味はないの」


「そういう建前はいいから、実はいるんでしょ」


「いない」


「噓ばっか」


「いないの」


「じゃあ、たまにリストバンド眺めてぽけっとしてる時があるけど、誰のこと考えてるの?」


「ふぇ? はっ、はぁ!?」


 全身が熱くなる。


「今の慌てよう、やっぱり男か」


「うっ」


 や、やばい。


「さあ、吐け」


「うっそ、マジでまっひー好きな男いるの?」


「誰?」


「浜本くん?」


 みんなが詰め寄ってくる。


「まっひーが告って落とせない男なんかいないって」


「勇気出して」


 やばいやばい、誰か助けて。










「あんたたちぃ、いつまで起きてるの!」










 勢いよく扉が開き、顧問の先生の怒声が響いた。


「消灯は十時よ。上級生が情けない」


「げっ」


「やばっ」


「寝まーす」


 部員たちは散り散りになっていく。


「全く」


 先生が電気を消す。


 助かった。


 あたしも布団をかぶる。


 目を閉じると勇にぃの顔が浮かんできた。






 4






 付き合いたいだなんて、そんな高望みはしない。そりゃ、勇にぃの恋人になれたらどんなに幸せなことだろうか。


 でも、この気持ちを表に出してしまったら、きっと今の関係は終わってしまうだろう。

 勇にぃがあたしを受け入れてくれるとは限らないんだから。


 恋愛は一方通行じゃ成り立たない。


 もしあの人に拒絶されたら、あたしはきっと生きていけない。


 欲を出してはいけない。


 勇にぃとようやく一緒にいられるようになったんだ。


 それでいいじゃないか。


 あたしはあの人のそばにいれるだけでいい。それだけで満足だよ。


 ずっとそばにいたい。


 一緒に笑っていたい。


 ずっと、いつまでも。


 十年前、勇にぃがあたしたちの前から消えた時に感じた心の痛みは、今もトラウマになっている。


 もう、離れたくない。



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