第33話  クソガキは独占欲が強い

 1


「ね、ねみぃ」


 頭がぼうっとする。

 視界には薄い膜がかかっているような感じで、輪郭がぼやけている。


 家を出て、すぐお隣の春山さんの家に向かう。


 インターホンを押すと、ややあって未夜の母、春山未来がでてきた。その姿に思わず俺は目が覚める。


 長い茶髪をひとまとめにして右肩に垂らし、胸元が大きく開けた白地のTシャツに七分丈のデニムといった装い。

 メリハリのはっきりしたスタイルはとても子供を産んでるとは思えない。


「あ、勇君。おはよう」


「おはようございます」


「こんな朝早くから大変よね。今日は頼むね」


「ええ、仕方ないっすよ」


「さやかさん大丈夫?」


「ベッドから動けなくなってますけど、親父がついてるんで大丈夫っすよ」


「おーい、勇にぃ」


 未来の脇から未夜が突撃してきた。


「おう、朝から元気だな、お前は」


「勇にぃはゾンビみたいな顔してるぞ」


「こーら、未夜、そんなこと言っちゃダメでしょ。ごめんね、勇くん」


「いやぁ、いいんですよ」


 俺はさわやかな笑顔を返す。


「いつもいつも……未夜が迷惑かけて」


「……いいんですよ」


 俺は強張った笑顔を返す。


「勇にぃも行くのか?」


「ああ、母さんがぎっくり腰になっちまったからな」


「ふーん」


「それじゃあ行きましょうか、ラジオ体操」


 時刻は午前六時過ぎ。


 眼前にそびえる雄大な富士山に朝日が差し、青々とした山肌を照らしている。

 夏といえど、さすがに早朝は空気が冷えていて肌寒いな。


 やがて目的地である公園に着く。


 まだ誰も来ていないな。


 うちの地区は持ち回り制で夏休みのラジオ体操の当番が回ってくる。

 今日は有月家と春山家が当番の日。

 元々母が出る予定だったのだが、昨晩閉店後の掃除中にぎっくり腰になってしまい、俺がピンチヒッターを務めることになったという次第である。


 ベンチにラジカセを置く。


「ねぇねぇ、なんでボールも持ってきてるの?」


 未夜が聞く。俺はバスケットボールを持参していた。


「ラジオ体操が終わったらちょっと遊んでこうと思ってな」


 この公園はバスケットゴールが設置されている。引退してからまだ日は浅いが、ネットを揺らすあの感触が恋しくなっていたのだ。


「一回戦負けしたからいっぱい練習するの?」


「違うわ。もう引退したわ」


「私も一緒にやってく」


 未夜がそう言うと、未来が間に入り、


「未夜、遊びに行くのは宿題やってからでしょ。終わったら一度家に帰るの!」


「へーい」


 そうこうしているうちに子供たちが集まってきた。低学年が割合きゃっきゃしてるのに比べて、高学年の方は心底だるそうにしている。


「眞昼、朝華、勇にぃが来てるぞ」


「マジか」

「え?」


 未夜が二人を連れてくる。


「ほんとだ、勇にぃ」

「勇さーん」


「おう」


 首元からスタンプカードをぶらさげているのが微笑ましい。


「なんで勇にぃがいるんだ?」


 眞昼と朝華が俺の両手をそれぞれ握ってぶんぶん振り回す。


「母さんの代わりだよ」


「明日も来るんですか?」


「いや、今日だけの臨時」


 そう言うと、朝華は露骨に顔をしかめる。


「夏休みなのに毎日毎日こんな時間に起きてらんねーよ」


「じゃあ、勇くん。時間だしそろそろ……」


 公園の時計を見ると六時半だった。


「あっ、はい。ほれ、散れ散れ」


 子供たちが一定の間隔を空けて広がっていく。


 未来がラジカセのスイッチを押すと、懐かしい音楽が流れ始めた。



 2



「二列になって、はい、はい」


 スタンプを貰うために俺と未来の前に子供たちが行列を作る。


「勇にぃ、あたし今日は用事あるから遊べないんだ。また明日な」


「私もです」


 眞昼と朝華が名残惜しそうにスタンプを貰い、帰っていく。


「未夜、勇にぃ、ばいばい」

「未夜ちゃん、勇さん、ばいばーい」


「ばーいばーい」

「おう」


 未来と一緒に帰るため、未夜は最後まで残るようだ。




「私おにーさん知ってる。〈ムーンナイトテラス〉の人でしょ」


「あ、私も見たことある」


「どっかで見たことあると思ってたんだよねぇ」


 高学年と思しき女の子たちが絡んできた。


「おにーさん、こーこーせー?」


「そうだよ」


「えー、大人だー」


「手、おっきぃ」


 突然その中の一人が俺の手のひらを取って握ってくる。


「ちょ、ちょっと」


「ほら、なー子のお兄さんの中学生よりおっきぃ」


「ほんとだぁ。ごつごつしててかったぁい」


「ほ、ほら、後ろが詰まっちゃうから。スタンプ貰ったら横にずれろ」


「はーい」

「はいはい」




 未夜の番が回ってくる。


「ほれ、スタンプ押すぞ」


 未夜は無言のままカードを差し出す。


 なんだ?


 なんか機嫌わりぃな。


「おい、どうした未夜。腹でも痛いのか?」


「別に」


 カードを受け取ると、未夜は俺のボールを持って、


「早く遊ぼうよ」


「待った、未夜。夏休みの宿題やってからよ」


 未来がたしなめる。


「いいじゃん、ちょっとだけだから」


「だーめ。一回おうちに帰るの」


「ちょっとだけ」


「ダメ」


「むぅ、勇にぃ、待っててよ」


 ごねても無駄だと理解したのか、未夜は一人で駆けだす。


「じゃ、ラジカセとスタンプは次の当番の家に回してくるわ。勇くん、今日はお疲れ様」


「お疲れ様です」


「さやかさんによろしくね」


 そう言って、未来はぱたぱたと娘を追いかけ始める。さて、それじゃ、俺は予定通りバスケでもやるか。

 ラジオ体操のおかげで準備運動は不要だ。


 ボールをつき、跳ね返ってくるこの感覚。

 うーん、気持ちいい。


 ドリブルをしながらゴールに近づき、レイアップシュートを決める。


 ネットの揺れる音が朝の静寂に響く。


「ん?」


 七時を過ぎたところで、少し離れた場所で三人の女子小学生がこちらを見ているのに気づいた。未夜たちよりも少しばかり上――三、四年生くらいだろうか。そのうちの一人はバスケのボールを持っている。


 あちゃーっと思う。


 この公園にはバスケットのゴールは一つしかない。俺一人のせいでこの子たちが遊べなくなっているのだ。


 子供が大人相手にどいてくれなんて、怖くて言えないだろうし……仕方ない、譲るか。


 ボールを拾い、ゴールから離れる。

「使っていいよ」と声をかけると、意外な言葉が返ってきた。




「あの、一緒にやりませんか」



 *



「うおおおお、勇にぃ」


 未夜はひた走っていた。

 有月はちゃんと待ってるだろうか。


 時刻は午前八時前。

 全力で宿題を終わらせてやったぞ。ついでに言うなら明日の分だってちょっとやってやった。これなら文句はないだろう。


「うっええ」


 全力疾走をしたら気持ち悪くなってきた。朝ご飯を食べたばかりの未夜だった。


 歩きながら公園に向かう。


 ダム、ダムと、ボールの音が聞こえる。


 いるいる、よしよし。


「おーい、勇に……」


 そうして入り口から入った未夜の目に飛び込んできたのは、知らない女の子とバスケに興じる有月の姿だった。



 3



「あれ? もう帰ってきたの? 勇くんは?」


「知―らない」


「なに、喧嘩でもしたの?」


「別にー」


 母の質問攻めを何とかかわし、自室に飛び込む。


 ベッドに寝転がり、天井を見つめる。


「……」


 変なきもちだった。

 自分の部屋に知らないおっさんが土足で上がり込んできたような、そんな感覚。それでいて、自分の体の中に火山があって、それが噴火しかけているような……


「ばか」


 有月がほかの子供――特に女の子――と仲良くしてるところを見ると、胸の奥がするのだ。

 有月が眞昼や朝華と遊ぶ時は、こんな気持ちにはならないのに。




 なに、これ。




 そういえば、スタンプを貰う時、年上の女の子たちが有月を囲んでいた時も同じ感情を抱いていた。


 悲しい、とは微妙に違う。

 怒りにも似ているようでちょっと違う。


 幼い未夜には、嫉妬という感情を理解するには、まだまだ人生経験が足りなかった。


 独占欲、と言い換えてもいいのかもしれない。


『自分たちだけの勇にぃでいてほしい』という、独占欲。


 あまりに身勝手で、わがままで、そしていじらしい……



 そんな自分の一面に気づいた、七歳の夏。


 頬を流れる涙は、いつもよりしょっぱかった。






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