第27話 お客様の来店です
1
有月勇、虫触れない系男子。
いや正確に言えば「今は」虫触れない系男子である。子供の頃は、カブトムシやクワガタを捕獲しに山へ繰り出し、草むらでバッタ(以下略――
〈ムーンナイトテラス〉、トイレ手前の角。観葉植物の鉢の陰に、圧倒的存在感を放つものがいた。
「……」
暗くて見にくいが間違いない。
無駄にテカテカしたボディ、体長と同じくらいの長さの触覚、そして本能が拒絶する嫌悪感。
間違いない、やつだ。
こんなところでやつと出くわすとはな。
東京ではあまり見なかったが、やはり田舎は違うな。
人類の敵。
黒光りする悪魔。
G。
太郎さん。
黒い弾丸。
やつを表す二つ名は、それこそ人類がやつに抱いた恐怖の数だけある。
しかしながら、ここ〈ムーンナイトテラス〉は飲食店。
気軽にその真名を呼ぶわけにはいかない。
万が一客にやつの存在が知れれば、クレーム、客離れに繋がるリスクがあるのだ。
現在時刻は四時半。
アイドルタイムも終わり、客足が伸び始める時間帯だ。現在、店内には三組の客がいる。
老夫婦。
若いリーマン。
近所のおば様二人組。
今、やつの存在に気づいているのは俺だけだ。母は休憩に入っているし、父はキッチンで注文された料理を作っている。
父に援軍を要請したいのはやまやまだが、ここを離れているすきにやつを見失う恐れがある。
つまり俺が対応しなければならないのだ。
できるのか、この俺に。
自慢ではないが、過去にカブトムシ相手に気絶したことのある俺だ。
「すいませんー、ちょっとお手洗いに」
おば様客の一人がトイレの方へ来た。
「え? あ、すいません」
言いつつ、俺は鉢の前に避けてやつを死角に入れる。
い、今、俺の右足の後ろには、やつが……
考えるだけで冷や汗が出る。
頼むぞ。そのままおとなしくしていてくれ。
さて、これからどうするべきか。考えられる選択肢は二つ。
1.客がはけるまで現状維持。
2.客に気づかれないように仕留める。
1.は難しいだろう。やつとて生物。今はおとなしくしているみたいだが、いつ動き出すか分からないし、見失ってしまったらと考えると……居場所が分かっているうちに仕留めるべきだ。
しかし、仮に仕留めることに失敗した場合、やつは当然逃げるだろう。それはもうとんでもないスピードで。
店内を縦横無尽にうごめきまわるやつを客に見られたら、この店は終わりだ。
おば様客がトイレから出てきたので、ようやく俺は鉢から離れる。
よしよし、やつはまだ動いていない。
俺は周囲を見渡す。
周辺には武器になりそうなものなどない……か。
箒やモップがしまわれているロッカーは裏の方にあるし、殺虫剤はカウンターの裏にあったのを見た気がしたが、いずれにせよここを離れることは避けたい。
となると、素手で叩き潰すしか……
いやいやいやいや、それだけはない。
親父め、飲食店のくせにやつが出るとか、どういう衛生管理をしてんだ。
「そうだ」
俺はひらめく。
何か板のようなもので鉢を囲んでバリケードを作り、やつを隔離。そして客がいなくなったらゆっくり仕留めればいい。
なんて、そんな都合のいい板なんか存在しないけどな。
親父め、さっさと戻ってこい。そうすればアイコンタクトで伝えられるのに。
こうなったら、足で踏み潰すか?
素手で叩き潰すよりかは断然マシだが、今履いてるスニーカーはおろしたばっかりなんだよなぁ。
どうする?
俺はどうするべきなんだ?
カランコロンと呼び鈴が響く。
「はっ!」
名前を知らない例の美少女が、入り口に立っていた。
2
ま、まずいぞ。女の子がやつを目にした時の反応なんか一つしかない。
きゃー、と叫び声を上げるに決まっている。
特にこんな虫とは無縁な生活を送ってそうな美少女のことだ。絶対驚いて泣き叫ぶはず。
「い、いらっしゃいませ」
「勇さん、こんにちは。そんなところでどうしたんですか?」
ああ、こんな非常時でも彼女の可愛さはとどまることを知らない。可愛いという概念を擬人化したような存在だ。そんな彼女がやつを目にした日には……
「い、いや、いいから」
俺は背中を向け、美少女の視線を遮る。
「何か隠してます?」
「な、なんでもないから。おーい、親父、お客さんだぞ」
「怪しいです」
美少女はひょいと横に顔を出し、視線を下に向けた。
「あっ」
まずい、見つかった。お願いだから叫び声は出さないで……
「そういうことですか」
それから俺が目にしたのは、到底信じられないような光景だった。
美少女はさっとしゃがみ込むと、鉢の陰に手を差し込み、やつを拾い上げたではないか。
「ほい」
顔色一つ変えず、実に俊敏な動作であった。
「ええ!?」
「む?」
美少女は立ち上がり、その手を向ける。
やめて、
「勇さん。これ、フィギュアですよ。よくできてますね」
「へ? フィギュア?」
「ほら」
明るいところでよく見ると、たしかにそれは精巧にできたやつのフィギュアだった。
「え? どゆこと?」
「それは私のセリフなんですが……どういう状況なんですか、これ」
美少女は首を傾げた。
3
「ゴキブリが出たらどういう対応するか教えたろ? それが実践できるかどうかこっそりテストしたのさ」
呆れたふうにさやかは言った。
「あ、そういえば。ゴキブリに対する拒絶感で頭が正常に働いてなかったぜ」
「それにうちは駆除業者さんに入ってもらってるから、本物のゴキブリなんてここ十年は一度も見てないよ。ねぇ? あなた」
俊が無言で頷く。
「勇さん、虫が苦手なんですね」
そういえば、勇にぃって昔カブトムシが顔にくっついて気絶したことあったっけ。
「いや、ゴキブリなんて誰だって苦手だから。というか、君さ、あれフィギュアだって気づいたから拾ったんだよね?」
「へ? いいえ?」
「え?」
ゴキブリなんて、カブトムシのメスがちょっと平べったくなったようなものなのに。
あれ? 勇にぃ、なんでそんな引いた顔するの?
何か変なこと言った?
私がおかしいの?
??
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