第9話  とりあえずはこのままで

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 結局来てしまった。


〈ムーンナイトテラス〉の看板を見上げながら、未夜は息を整える。

 今でも週に二、三回のペースで通う常連なのだが、今日ばかりは勝手が違った。


 日当たりのいいテラス席には老夫婦が座っており、仲睦まじくコーヒーを楽しんでいる。その、のほほんとした余裕を分けてほしい。


「ごめん、ください」


 からんころん、と呼び鈴が店内に響く。


「あら、未夜ちゃんいらっしゃい」


 手前のテーブル席の片づけをしていた有月さやかがにこやかに言う。

 長い黒髪を後ろで束ね、赤いバンダナを巻いている。アラフィフのはずなのに、見た目は三十代でも通用しそうだ。


「おばさん、こんにちは」


 カウンター席に座ると、勇の父で、この店のマスターである有月しゅんが渋い声で一言。


「いらっしゃいませ」


 白いものの交じったオールバックによく手入れされた口ひげ。寡黙でダンディなおじ様である。


「おじさんも、こんにちは。アイスコーヒー、ひとつお願いします」


「かしこまりました」


(勇にぃは……いないみたい)


 店内を見回してみるも、有月の姿はない。

 ほっとしたような、残念なような、複雑なきもち。


「勇は今出てるわ」


 未夜の隣の椅子に腰かけながら、さやかが言った。


「え?」


「ハローワークで求職中。昨日、勇に財布届けてくれたの、未夜ちゃんでしょ」


 バレてる。


「ええ、まあ。本当に偶然、駅で……」


「謎の美少女が財布を届けてくれたって昨日からうるさくってね」


 美少女……美少女!?


「わわ、わ、私なんか別に……」


 そうは言いつつも、顔のにやけが止まらない。


「えへへ」


「アイスコーヒーです」とマスター。


 コーヒーの苦みで顔を引き締める。


「どんな娘かって特徴を聞いてみたら、茶髪で、清楚っぽくて、声が柔らかくてって言ってたのよ。あー、これは未夜ちゃんしかいないって思ったけど、やっぱりそうだったみたいね」


「おばさん、そのこと、勇にぃにはもう……?」


 もしかすると、もうすでにさやかがネタばらしをしてるのかも。


 だとしたら、今の自分の悩みは杞憂に終わるけれど。




「いんや、まだ言ってないよ」


「そう、ですか」



「だって、そっちの方が面白いしね」


 もう、この人は。


 さやかはいたずらっ子のように笑う。


「おてんば娘だった未夜ちゃんがこんな美少女に成長してたなんて、あの子はまず思わないだろうから、気づいた時の反応が楽しみだよ」



 でも――



「私もできれば、自分から言うんじゃなくて、勇にぃの方から気づいてほしいです。私、こんなに変わったよって」



「うんうん、変わったよねぇ」



 さやかは遠い目をしながら、



「あの頃は、勇にぃ、勇にぃ、ってひっついて回ってたのに」



「お、おばさん、そういうことは、思い出さなくていいです」



「『貰い手がいなかったら私が貰ってやるぞ』とか言ってたのにねぇ」



「んぶっ!? けほ、けほ」


 吹き出したコーヒーをハンカチで拭う。


「懐かしいねぇ」


「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください。なんですか、それ。私、そんなこと言いました?」


「憶えてないの?」


「憶えてないですよ」


「情熱的なアプローチだったよぉ」



 そ、そんな、告白まがいのことまでしてたのかぁ。


 どれだけ黒歴史を作れば気が済むんだ。


子供の私クソガキの馬鹿)


 空調は快適なのに、変な汗が止まらない。


(もし勇にぃがこのことを憶えてたら……)


「あわわわわ」


 コーヒーを持つ手がカタカタ震え、氷とグラスのぶつかる音が不規則に鳴る。











「ほら、勇が仔猫を拾ってきた時に、うちじゃ飼えないからってあたしが突っぱねたら、未夜ちゃんがじゃあうちで貰うって言ったじゃない」



「あ」



 そういえば、そんなこともあったような。



「よく憶えてるよ。結局、別の人のところに貰われてったけ。ん~? なんでそんな顔を赤くしてるのよ」



「おばさん、からかってるでしょ」



「あっはっはっは」


「もう」


 ポップスが流れる店内に、さやかの笑い声が響いた。

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