第9話 とりあえずはこのままで
1
結局来てしまった。
〈ムーンナイトテラス〉の看板を見上げながら、未夜は息を整える。
今でも週に二、三回のペースで通う常連なのだが、今日ばかりは勝手が違った。
日当たりのいいテラス席には老夫婦が座っており、仲睦まじくコーヒーを楽しんでいる。その、のほほんとした余裕を分けてほしい。
「ごめん、ください」
からんころん、と呼び鈴が店内に響く。
「あら、未夜ちゃんいらっしゃい」
手前のテーブル席の片づけをしていた有月さやかがにこやかに言う。
長い黒髪を後ろで束ね、赤いバンダナを巻いている。アラフィフのはずなのに、見た目は三十代でも通用しそうだ。
「おばさん、こんにちは」
カウンター席に座ると、勇の父で、この店のマスターである有月
「いらっしゃいませ」
白いものの交じったオールバックによく手入れされた口ひげ。寡黙でダンディなおじ様である。
「おじさんも、こんにちは。アイスコーヒー、ひとつお願いします」
「かしこまりました」
(勇にぃは……いないみたい)
店内を見回してみるも、有月の姿はない。
ほっとしたような、残念なような、複雑なきもち。
「勇は今出てるわ」
未夜の隣の椅子に腰かけながら、さやかが言った。
「え?」
「ハローワークで求職中。昨日、勇に財布届けてくれたの、未夜ちゃんでしょ」
バレてる。
「ええ、まあ。本当に偶然、駅で……」
「謎の美少女が財布を届けてくれたって昨日からうるさくってね」
美少女……美少女!?
「わわ、わ、私なんか別に……」
そうは言いつつも、顔のにやけが止まらない。
「えへへ」
「アイスコーヒーです」とマスター。
コーヒーの苦みで顔を引き締める。
「どんな娘かって特徴を聞いてみたら、茶髪で、清楚っぽくて、声が柔らかくてって言ってたのよ。あー、これは未夜ちゃんしかいないって思ったけど、やっぱりそうだったみたいね」
「おばさん、そのこと、勇にぃにはもう……?」
もしかすると、もうすでにさやかがネタばらしをしてるのかも。
だとしたら、今の自分の悩みは杞憂に終わるけれど。
「いんや、まだ言ってないよ」
「そう、ですか」
「だって、そっちの方が面白いしね」
もう、この人は。
さやかはいたずらっ子のように笑う。
「おてんば娘だった未夜ちゃんがこんな美少女に成長してたなんて、あの子はまず思わないだろうから、気づいた時の反応が楽しみだよ」
でも――
「私もできれば、自分から言うんじゃなくて、勇にぃの方から気づいてほしいです。私、こんなに変わったよって」
「うんうん、変わったよねぇ」
さやかは遠い目をしながら、
「あの頃は、勇にぃ、勇にぃ、ってひっついて回ってたのに」
「お、おばさん、そういうことは、思い出さなくていいです」
「『貰い手がいなかったら私が貰ってやるぞ』とか言ってたのにねぇ」
「んぶっ!? けほ、けほ」
吹き出したコーヒーをハンカチで拭う。
「懐かしいねぇ」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください。なんですか、それ。私、そんなこと言いました?」
「憶えてないの?」
「憶えてないですよ」
「情熱的なアプローチだったよぉ」
そ、そんな、告白まがいのことまでしてたのかぁ。
どれだけ黒歴史を作れば気が済むんだ。
(
空調は快適なのに、変な汗が止まらない。
(もし勇にぃがこのことを憶えてたら……)
「あわわわわ」
コーヒーを持つ手がカタカタ震え、氷とグラスのぶつかる音が不規則に鳴る。
「ほら、勇が仔猫を拾ってきた時に、うちじゃ飼えないからってあたしが突っぱねたら、未夜ちゃんがじゃあうちで貰うって言ったじゃない」
「あ」
そういえば、そんなこともあったような。
「よく憶えてるよ。結局、別の人のところに貰われてったけ。ん~? なんでそんな顔を赤くしてるのよ」
「おばさん、からかってるでしょ」
「あっはっはっは」
「もう」
ポップスが流れる店内に、さやかの笑い声が響いた。
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