2:光は深刻な闇を照らせるものか

 光のない部屋。


 遮光カーテンの四辺から漏れる、梅雨に濡れて曇る夕暮れの残り香ばかりが、彼女の居室を照らしていた。


 カーテンを開ければ、照明のスイッチを入れば。

 容易く明かりを得ることができるのだけれども、立ち上がることも、腕を伸ばすことも、何もかも億劫なのだ。

 ここ三日ばかり、ずっとこのありさまだ。

 自覚はある。


「あの、バカね」


 元々諦めていたものを、少しの希望を抱かされて、そして三度に諦めさせられたのだ。


 一度目は、もう駄目だ、という絶望に呑まれ。

 二度目は、取り戻せる、という提案に乗って。

 三度目は、もしかして、という希望を示され。


 どれも、現実を突き付けられて、立ち上がる意気地を砕かれてきた。

 だから、カーテンを開けることも、照明を灯すことも、難しい。諦めてしまう。


 なにより度し難いのが、国土奪還を目指す皆が、こんなにもどうしようもない人間を担ぎ上げている事実だ。

 腐り、落ちようとしている自分のことなど捨て置いて、実質的に代表を担っているジョード辺りを旗頭とすればいいのに。


 とはいえ、誰もそうはしない。そうは出来ない。

 己が、どうしようもない己が、王族であるからだ。

 長く続いた古い因習のために、慣れない新天地での生活のために、担ぐ神輿と、担ぐための文脈が必要だったのだ。

 だからこそ、なおのこと。


 こんな自分のために誰かが傷つくことが嫌だ。

 こんな自分のために誰かが荷を負うのは嫌だ。

 こんな自分のために誰かが失われるのが嫌だ。


 厳しかった父も、優しかった母も、遊び相手になってくれた先代の騎士団長も、我が儘を聞いてくれた兄と姉たちも、様々教えてくれた城の皆も、温かった城下の皆も。


 今は、もういない。


 そして、残された一握りが、今なお傷つくことを是として戦っている。

 なによりも、それが嫌だ。

 誰かが、自分を理由に傷つくのを望むことが。


「……あのバカが」


 足止めのため死を前提に戦場へ当たる少年の、あの時の顔を思いだす。

 なぜ笑顔なのか。

 なぜ、楽しそうなのか。

 私を置いて傷つきに赴くことが、そんなにも愉快なことなのか。


 即座にほぼリスクなく蘇ることができるのだから、命が軽いことは分かっている。そうだといっても、傷を負い、命を落とすことに変わりなんかなくて。

 つまり、彼が傷つくことでしか、自分の大切な物を取り戻すことはできなくて。

 誰も、自分の大切な物を取り戻すために、彼が傷つくことを望んでいるということで。


 すごく、嫌なのだ。


 カーテンの上辺に強い光が差し込み、は、と息を詰めていた己に気が付く。

 道路から、車のヘッドライトが飛び込みでもしたのだろう。


 どうにも、ぐるぐると回る迷路の中に迷い込んでいたようで、時間の感覚が壊れている。時計を確かめるより先に、空腹が夕飯の時間であることを教えてくれた。

 はて、普段のように外へ出るには億劫で、しかし、何か胃を埋めてくれるものはあっただろうか。

 以前のような堆積物は、関係者により完全排除されており、今はゴミ一つないフロアを、乱雑な足取りで、キッチンへ。


 自然、目は戸口に向かい、ウィンディは気が付く。

 黒々と固く閉ざされたドアの、物憂げに下を向く郵便受け。その入り口が、どういうわけか爛々と、廊下の明かりを暗い部屋へ注ぎ込んでいることに。

 そして、不快を催すほどに体をしならせながら滑り込んできた棒状の何かが、背徳的な水音をたてて、受けるかごに荒々しく身を食い込ませた。

 何事かと慄然とした面持ちで覗き込めば、


「……ちくわ?」


 魚の体を引き潰した食材の、中央に開いた陰鬱とした穴がケタケタと笑いでもするように覗き返していたのであった。


      ※


 自室を飛び出して、隣室の郵便受けにちくわを投函し始めた子心の姿に、


「獲物を狙う時のサシェイと同じ目をしているわねぇ……」

「……ジョード、どういうことだろうか?」

「俺に聞くなよ……伏希といい、どうして怪我確定のボールをパスしてくるんだ、お前ら」


 年長者たちは、ひどく困惑していた。

 そうして、また一本、ちくわが投函され、


「よし、一旦冷静になろう」

 代表代行がミーティングを仕切り出したので、他二人は胸をなで下ろし、


「言動を鑑みるに、姫を部屋から出すため、だよな?」

「そうねぇ。引きこもりを引きずり出す手段、って言っていたわぁ」

「ちくわを郵便受けから、一心不乱にちくわを入れ込むことが、か?」

 三人は深刻な混迷に言葉を失った。


「待ってぇ? 諦めるのはまだ早いわぁ」

 知恵に長けた魔女が、頼もしくも議論を立て直したので、他二人は胸をなで下ろし、


「前例があるじゃない? 通信のみでよくわからなかったけど、ちくわでお姫様のお部屋、掃除にこぎつけることができたでしょぉ?」

「あぁ、あったな……字面が壊滅的に理解を拒むけど」

「そうなると、姫はちくわのポスト投函で、ドアを開けるということか? 姫にとって、ちくわとはなんだ? 鍵なのか?」

 三人は深刻な疑惑に言葉を失った。


「待て。諦めるのはまだ早い」

 姫に最も近い近衛兵が、頼もしくも議論を立て直したので、他二人は胸をなで下ろし、


「良くわからないのなら、実証を重ねるべきだ。シシンの部屋から、在庫のちくわを運び出して、限界まで投函……おや、通信が……なんだって⁉ 巨人型が動き出しただと! 待っていろ、すぐに向かう!」

 完全な錯乱から逃走に移行したため、


「くそ! どうなっているんだ! ここで愚痴っても仕方がないな! 明楼、心苦しいがここは頼んだぞ!」

「は⁉ え⁉ ちょっと、置いていかないでぇ⁉ ヒッ……ほら、カタン……ペチャ……って! すごく邪悪な狂気の満ちた音色、一人で聞いていたら気が狂っちゃう!」

「俺たちは、いつだって心で繋がってるから! お前は一人じゃない! ほら、伏希も姫様だっている!」

「味方が一人もいない事だけは、この上なくハッキリしたわぁ!」


 仇敵の断末魔を背に、騎士と近衛は廊下を走り去ってしまった。

 呆然と見送る明楼は、


「ヒッ……!」


 ドアをガンされてヒッ……! した少年の声に、驚き身を固くしてしまった。

 見ると、投函口から離れ、怯えた顔で腰を抜かす子心がおり、


「ど……どうしたのかしらぁ……?」

 恐る恐る、なるべく刺激しないように、穏やかな声音で訊ねてみると、変わらない笑顔で、


「いやあ、埒があかないんで、指にちくわをサックして、ぷるぷるしながら突き入れてみたら、指ごともがれそうになりまして! 驚いたところにドアガンされて、トドメですね!」


 どうして、正気ではないことを、いつもの笑顔で口から吐き出せるのか。頭がおかしいのだろうか。それとも、こちらの頭がおかしいのだろうか。


「あ、そうだ! 魔女さん見ながらちくわプレイしたら、新境地が啓けると思いません⁉ 二択を理解した時の格ゲーみたいに! あ、けどちくわ全部ぶち込んじゃったよ! このままじゃトゥルーエンドに辿り着けない! ちくしょう、現れたラスボスに全力ぶち込んだらビターエンドとか正気なのかよ!」


 言動が迷走したところで、ドアがガン! されて、投函口からちくわがあふれ出してきた。


「ふあああああ! ボーナスステージだあああああ! 鉄アレイは勘弁な!」


 一つもこぼすことなく、返却分を回収している少年に、


「これは、なんだか長くなりそうねぇ……」


 もうすでに疲労困憊であるが、作戦の宵の口であることがわかるから、げんなりと大きな胸を上から下に落とすのであった。

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