6:マンタ
空は、あいにくの梅雨模様で、雨粒は落ちないにしてもどんよりと垂れ込めていた。
だから、電車に揺られ、水族館までの道行きの間、薄藍のワンピースで着飾ったウィンディの表情はご機嫌とはいかなかった。
堤防を兼ねた道路を歩く間、物惜し気に曇り濁る水面を見つめていたのだ。
隣を行く子心には、いたく気持ちがわかる。映像でみた、輝くほど青々とした海と空を期待していたのだろうから。それはまるで、美麗なジャケットが電源投入と同時に詐欺だとわかってしまった時の俺だから……!
けれども、目的地であった『大飛鳥海浜公園』に併設された水族館のゲートをくぐるや、一転笑顔を見せるようになり、
「子心、ほらちっこいのが膨らんでいるわ!」
ガラス越しにクサフグに威嚇されたり、
「エビ? これ、海老天のエビ? うどんに付いてくるやつ?」
日々の食材の正体を知って目を輝かせたり、
「ねぇ……なに、あの大きい標本……人なんか丸呑みじゃない……」
ダンクルオステウスの骨格標本レプリカに怯えて、こちらの背に隠れたり。
二時間をかけて経路の三分の一も進んでいないが、楽しんでいるようでなによりだ。
昼食は外にある食事処だろうかと考えていたが、この分では予定よりだいぶずれ込みそうだ、と苦笑と共に小さな覚悟を決める。
「ペンギンショーが一時からだから、まだ時間あるなあ」
現時刻が一一時三〇分。元々、一〇時三〇分から始まる午前の部を狙っていたのだが、思いのほか小水槽群の展示に食いつきが良かったため、乗り遅れた状況だ。
「ペンギンもいるの? 南極にいる、鳥のなりそこないみたいな可愛い生き物でしょ?」
「可愛いだけでいいだろ。あと、なりそこないじゃなくて立派な鳥だぞ。ついでに言うならハードボイルドで煙草を嗜む、後進の育成に余念のない英雄だ……! 師匠、俺は死ぬまで恰好をつけますよ……! あ、あと、弱者と見るや目を狙ってくるから気を付けろよ!」
「……ペンギン、ちょっと怖い生き物なのね……」
可愛らしさの中に狂気をはらむ、素敵な鳥類だと思う。
※
展示する生き物たちのために照明が絞られた通路を、子心とウィンディが進む。
今日は休日であるが、良いとは言えない天気のためか人足はまばらだ。だから、気軽な足取りで、ゆっくりと見て回ることができていた。
ここまでの反応を見るに十分楽しんでいるとは思うのだけれど、ではちゃんと鬱屈を払えているかと考えれば自信はない。
ゴミ溜めをどうにかするために、追い立てられるように海辺まで逃げてきたのだけれど、原因であろう心理的な諸問題の負担を軽くできているだろうか、と。
根本的には、祖国を失ったことから、己の行く末にすら消極的になっているためだ。
自暴自棄、と言っていい。
近頃は改善してきたらしいが、入寮から数か月、隣室で生活をしていると、外出回数が酷く少ないことはすぐにわかっていた。食事時に、ドアが開くかどうか、という生活。
周囲は新たな生活を築いているのだから、彼女の停滞は彼女自身の心の問題であり、
……なら、解決にお金とかの物理は必須ではないよな。
少しでも気晴らしが出来てくれれば、と願うところで、
「ありがとう、シシン」
その言葉は、一つの成果だろう。
「お城の生活は何一つ不自由がなくて、だけどどこにも行けなくて、窮屈だったの」
並ぶお姫様は、こちらを見るでなく、廊下の展示物に目を向けながら、
「こっちの生活は不自由ばかりで、この手には何も残っていなくて、何も掴むことができなくて」
故郷を失い、故郷を取り戻せないことを悟った、ということか。
「だけど、あなたを見ていて気が付いたことがあるの」
ちら、と目線をよこして、口元を微笑ませて、
「子心だって生きていていいんだ、って!」
「お、なんだなんだ! 俺いま、新しいタイプのツンデレをぶち込まれていますよ!」
「あと」
目線が前へ戻されて、
「もう、好きに外に出ていいんだ、って」
呟くように、ごく当たり前の結論を披露してくれる。
言葉の意味は分かるし、経緯も読み取れる。だけど、こちらの目的である心理面での負担軽減にかかる内容なのか、と逡巡してしまい、
「あ、遊覧水槽ですって!」
足の止まったこっちを置いて駆け出すから、置いていかれてしまった。
慌てて追えば、見上げるほどの強化ガラスが一面に広がっていた。説明を見ると、内部は円筒になっており、魚たちの遊泳姿を楽しむことができる。
吹き抜けの二階からも楽しめるらしく、頭上から子供のはしゃいだ声が降ってくる。ではお姫様はというと、
「すごい……海ってこうなっているの?」
手すりに体を預けて、砂被りで食いついていた。
「あれがサメ? 思ったより、平たいのね……あっちの魚群は?」
キラキラと光るイワシの群れを眺めていると、
「それじゃあ、あれは? あのひらひらしている大きい子」
白く細い指の先は、鋭い尻尾を振りながら平べったい体を自由に泳がせる大きな影を追いかけていて、
「マンタか」
「マンタ? 変わった名前なのね」
どうやら、不思議な泳ぎ方を気に入ったようだ。食い入るように目を輝かせて、動く気配すら見せない姿に、少年はここに誘ってよかった、と笑うのだった。
※
地獄の整地工事は、しかし、
「は? 邪蛇型と飛竜型に襲われている?」
アスバリアからのSOSで、作業中断を余儀なくされていた。
現場からの状況を確かめた譲恕は、携帯電話で後輩の番号を探す。慌てた様子の騎士団長に、二人も首を傾げて、
「遠距離特化と航空機動持ちか。滅多なことでは姿を見せない上位種だぞ?」
「面倒な組み合わせねぇ。どっちも、こちらの手が届かない地点を戦場にするわよぉ」
「昨日は子心が不在で、今日の予定を不安に思った一団が突出したらしい」
現場も、戦線を下げることで敵の密度を下げ、上位種の撤退を目論んだのだが、あろうことか、普段は拠点を築く地点を無視して追跡されているのだという。
飽和侵攻から、楔を打ち込み橋頭保を造り上げる戦略に移行したということ。
「とにかく、俺らも現場に……くそ、電波悪いのか?」
最大戦力であるピリオドと、次点の打撃力を持つプリンセスの招集が必要と判断し、連絡を取ろうとしているのだが、呼び出し音が途切れて、不通話のお知らせが届けられる。
時間が惜しいため、三人は揃って部屋を飛び出し、かけなおす。
幾度目かで、
『……しもし? 先輩ですか?』
「お、伏希! すぐに戻ってくれ! 現場がヤバいらしい!」
つながったことで、女子二人も安堵に肩を落とす。
ノイズが走り走り、途切れ途切れ返ってくる言葉に、
『いますぐ……すか? いま、ちょうどマン……見ているんで……ど!』
脳の危険を察知して、反射で通話を切ってしまった。
この世の邪悪を見てしまった目で、縋るように女性陣へ視線を向けると、どうやらばっちり聞こえていたようで、やはりこの世の邪悪を見てしまった絶望を浮かべている。
だれも救いの蜘蛛の糸は持ちえず、結果、リダイヤルの必要があり、
『電波悪……すね! あ、いま良いところで、ビラビラが目の前……で上下に……すよ!』
がやがやと賑やかな人の声に混じって、遠くから姫がうっとりとした声で、
『すご……大き……』
正気が爆発しそうになったので、緊急避難で通話を切断。
それから二人、特に特段年長のアドバイザーに視線を送ると、
「人がたくさんいたわよねぇ……子供の声も聞こえたし……状況から推察するにぃ、辛抱たまらなくなってすごく特殊な行為に至っている気が……止めてあげるのが、年長者と臣下の義務じゃないかしらぁ?」
苦汁を噛んだような顔で、的確な助言をくれるから、再度リダイアル。
『……ぱい? なんだろ、ここ凄く電波……いですねぇ』
「伏希? 悪いけどな、すぐに戻ってきてくれないか? お楽しみのところ申し訳ないんだけど、即刻中止して、出来る限り全速力で」
『今す……すか? 二人ともし……でべたべたですよ? 俺はいいですけど、お姫様は髪が長……かなって』
魔女が「え、なに、もう終わってるじゃん?」みたいな顔で笑顔を張り付かせた。自分も非常に同意なので、即座に通話を切断。
「なにしてるんだろうね、あの人たち」
どうにも、自分の主と後輩である、という事実を根こそぎ消してしまいたいなあ、なんて切実に願いながら。
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