2:今がどうであろうと
ウィンディ・アスバリアが、敗走からの亡命を経て、おおよそ一年となる。
ワンルームロフト付きという、かつての私室と比べれば質素に過ぎる新たな城を与えられて、一年。
当初は、現実と向き合うことへの忌避感から日本名を得ることすら拒否したほどで、嫌で嫌でたまらない部屋だった。けれど、今では馴染み、風格すらにじませるようになってきている。
厚手のカーテンで外界から遮断し、明かりはテレビの賑やかな色合いだけ。
部屋の中央に据えた寝床兼ソファに腰を沈めて、色のない瞳で眺めている。見ている、というほど能動的でなく、ただ網膜に写しているだけ。
ソファの片隅には支給されたワンダーマテリアルが転がっており、まるでだらしなく寝そべる姿が定位置であるかのような振る舞いだ。
波風のない、何もない、一年の間に繰り返してきた日常だ。
そうして、誕生日を迎えることになり、
「去年はそれどころじゃなかったからね」
それ以前は、家族に囲まれ、家臣たちに祝われた。テラスから臣民たちに祝福の言葉を貰い、笑い、歌い、満ち足りていたのに。
何もかも失われた。
家族は全て。
家臣は数名だけが侍り。
臣民は数えるほどだけが残された。
温かな日々も。
穏やかな毎日も。
健やかな明日も。
何もかも失われてしまった。
そして、戦い勝ったところで、何一つとして戻らないのだ。
「どうしろっていうのよ、ねえ」
最近は、隣室の狂人にピリオドという世界そのものが預けられてしまっており、顛末を見届けるために、同行したりもしている。
けれど、決して心変わりしたわけでなく、この胸は今なお溺れたままなのだ、と自覚している。
精神面からくる息苦しさから逃げるよう時計に目を向ければ、九時を回ったところ。
いつもなら、バカが足音高く奇声を発しながら帰宅してくる時間であるが、
「……?」
今夜、聞こえるのは足音ばかりで、不明瞭な発言はなく、
「イカれ具合が一周回ったのかしらね」
どうしたのかと、逆剥けのような心配を立ち上げると、
「呼び鈴?」
彼と思われる足音が部屋前で止まり、室内子機がベルの音を鳴らした。
立ち上がりインターホンカメラの映像を確かめると、
「子心、ね」
間違いなく隣人であるが、その顔は常にない神妙な面持ちであるから、なんだか胸騒ぎを覚えるのだった。
※
ドアを開けて出てきた少女に、子心は胸を大きく打たれてしまった。
背後の室内はテレビの明かりだけで真っ暗、その上、美しい緑の瞳がひどく濡れているから、
……そんなに苦しんでいたとは。
顔を合わせた時間は短いけれど、ずっと隣の部屋で不器用ながらコミュニケーションもとってきていたのだ。
無理な話だとわかってはいるけれど、壁一枚を隔てただけの人が苦しんでいるのを気がつけずにいたのが悔しい。
のうのうと、ゲームをし、オパイへの夢を謳い、ちくわで遊んでいただけの自分がふがいない。
「……どうしたの? もう、アスバリアに行く時間じゃないの?」
「ああ、うん、そうなんだけど……誕生日だって聞いたからさ」
そう言って、用意していた書店の紙袋を持ち上げて見せる。
意外そうな顔をして、目で追いかけているから、中身を取り出して見せて、
「悩んでいるって、先輩が言ってたから……ほら『バストアップ体操百科事典』……」
差し出すと、カウンターで三日月蹴りが閃き、呼吸不全で硬直した顔面に右ストレートが差し込まれた。
※
「まあ、伏希に任せるのも不甲斐ないからな、俺らは俺らで何か考えようってな」
バイト上がりにアスバリアで合流した面々は、ピリオドの到着を待ちながらのジョードの話に、
「もちろんだ。準備はしてあるぞ」
「昔のことは水に流したいしねぇ、良いと思うわぁ」
「ジョードさん、俺らでもなにか手伝えますか?」
「姫様の誕生日ですからね。盛大に、は無理でもできる限りお祝いしたいですよ」
周りの声に、良かった、と騎士団長は微笑みが零れる。
責任を放棄していた彼女に向けられた民の視線は冷たいものだったが、ここしばらくは現場に顔を見せるに、役割を担うことも多い。なにより、
……伏希の隣室とかいう不憫すぎる罰ゲームがデカいなあ。
皆、姫も苦労していたんだ……という論調になりつつある。
個人の頭がおかしいことに感謝するのはどうかと思うが、彼の頭がおかしくなければ到達できないハッピーエンドだから感謝はしておこう。
じゃあ、具体的なお祝いだけど、と切り出したところで、
「通話? 姫から……電話回線だぞ? なんだ?」
ワンダーマテリアルの機能で、主要キャリアの携帯電話やネット通話アプリとの相互通信も組み込まれてある。
表示された携帯電話番号に首をかしげながら、念のために撫依と明楼との通信をオープンにして通話を押すと、
『ちょっとジョード! あのバカに何を言ったの! 悩んでるんだろ、ってバストアップ事典を押し付けてきたわよ⁉ 部屋から叩き出したら、郵便受けからちくわを投入してくるし! ひっ……! ほら、聞こえたでしょ、カタン……ペチャ……って! もう三本……ああ! ああ! 四本目が!』
ちょうど一パックだなあ、なんて益体もない感想を胸に抱くと、通信を開いていた二人に視線を送る。どちらも、瞳孔を開いたまま首を横に振るから、悲鳴をわめき続ける通話を、気づかれぬようそっと切断することにした。
主に、今日の夜を、健やかに眠れるように。怖い話はノーセンキューだ。
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