第19話

 里穂のためなら、死んでもいいとすら思っていた。

 あの頃、俺は本気で、そう思っていた。


 俺はずっと、あいつのようになりたくなかったのだ。

 俺は里穂から与えてもらうだけでなく彼女にたくさんのものを与えてやりたかったし、彼女を笑わせてやりたかった。あいつや水原みたいに、彼女の優しさに際限なく甘えるのは嫌だった。

 だから俺も里穂に同じだけの優しさを返して、そうやってお互いに支え合っていければいいと思った。そして俺には、それができると信じていた。宮下にはできないことが、俺にはできるのだと。

 なにも疑うことなく、ずっと、そう信じてきたのだ。



 どのくらい時間が経ったのかは、よくわからなかった。何時間も待っていたような気も、一瞬だったような気もした。

 水原はなにも言わず、ただ俺を見ていた。わずかに目を細めたその表情は、ひどく穏やかにすら見えた。

 やがて、彼女はふっと視線を外す。そしておもむろにフェンスを掴むと、その手に強く力を込め、上体を持ち上げた。

 浮いた右足からスリッパが抜け、コンクリートに落ちる。水原はそれをちらと見たあとで、結局スリッパは放ったまま右足をフェンスにかけた。


 紺色のスカートの裾が風になびく。フェンスを乗り越えるときに、左足のスリッパも落ちて床に転がった。

 二つの小さなスリッパが足下に無造作に並ぶのを見た瞬間、ふいに心臓が波打った。

 視線を上げる。水原の靴下を履いた足がフェンスの向こうのコンクリートに降り立つのが、やけにゆっくりと見えた。

 途端、背中から冷たい汗が噴き出す。短く息を吸う。考えるより先に、声があふれていた。

「水原!」

 夢中で手を伸ばし、彼女の肩を掴んだ。

「なにやってんだよ!」

 もう片方の手は強く彼女の腕を掴む。包帯の下で鮮やかな痛みが走った。かまわず握りしめ、思い切りこちらへ引き寄せれば、水原は振り向いた。苦しそうに歪んだ顔で、しかし目には静かな色を湛えて、俺の顔を見る。それはおそろしく真剣な表情だった。「だって」俺が言葉を続けるより先に、彼女は口を開く。

「私、わかるから」

 それは迷いがなく、芯の強い声だった。まっすぐに俺の目を見つめる視線は少しも揺らさずに、彼女は重ねる。

「志木くんが苦しいの、わかるから」

 その言葉は不思議なほどするりと胸の奥に入ってくる。そうして気づいた。水原の紡ぐ言葉に対して感じる、かすかな心地よさ。

 水原は、俺と同じだった。

 昔、自分を救ってくれた人。誰よりも大切なその人。彼女の苦しみをなにも知ることなく、なにもできずに、すべて取り返しがつかなくなってしまった。彼女からは、何一つ、伝えてすらもらえないまま。


 ああ、俺はあの日の宮下になりたかったのだ。

 目眩がするほど痛烈に思った。彼女と一緒に命を捨てて、それで彼女が救われるのなら、俺がそうしてやりたかった。

 だけど、と心の底から声が響く。

 本当に、俺にそんなことができたのだろうか。すべてを知っていて、里穂から一緒に死んでくれるよう乞われたとして。里穂のために、学校の定期テストすら切り捨てられなかった俺が。彼女を救うことなどできたのだろうか。


「違うよ、志木くん」

 強く、しかしどこか柔らかな眼差しをこちらへ向けて、水原は言葉をつなぐ。

「里穂ちゃんは、志木くんのことを見限って宮下くんを選んだとか、そういうわけじゃないんだよ」

 水原の髪が風に揺れるのを見て、俺はまた少し、腕を掴む手に力を込めた。

「里穂ちゃんは」静かな表情のまま、水原は続ける。

「志木くんに悲しまないでほしかったから、幸せになってほしかったから、だから何にも言わなかった。それは間違ってたかもしれないし、志木くんにとって余計にきついことだったかもしれないけど、でも里穂ちゃんは、里穂ちゃんなりに、精一杯志木くんのことを想ってたんだよ」

 それだけは、と続けた水原の顔が、くしゃりと歪む。

「それだけは、わかってあげてほしいんだ」


 ――かずくんと結婚する人は、絶対幸せになれるだろうな。

 そう言った里穂の声が、ふいに頭の中で響いた。

 視線を落とす。水原の腕を握りしめる自分の左手を見つめながら、「わかったから」と声を絞り出す。それは掠れていて、聞き慣れない自分の声だった。

「いいから、早くこっち来いって。あんなの冗談だよ。もう、いいから」

 息苦しい喉から押し出されたのは、取り乱したようなひどく情けない声だったけれど、かまっていられなかった。

 水原は泣き出しそうに歪んだ顔のまま、ぎこちなく笑う。それでもその笑顔は、ひどく穏やかに見えた。

 小さく頷いて、ふたたびフェンスに手を掛ける。そうして彼女がフェンスを乗り越えるまでの間、俺は彼女の腕を放すことができずにいた。

 左足をこちら側へ降ろしたあと、フェンスに乗せていた右足もゆっくりと降ろす。それがコンクリートに着くか着かないかのうちに、俺は思いきり水原を抱き寄せていた。

 わ、と腕の中で驚いたような声が上がる。気にせず両腕に強く力を込めた。


「頼むから」

 喉から掠れた声がこぼれ落ちる。

 それは、思っていたよりずっと細く、小さな身体だった。これ以上力を込めれば、その華奢な身体はあっけなく折れてしまいそうな気がしたけれど、俺はなにかに縋るように、強く抱きしめずにはいられなかった。

「頼むから、ここにいて」

 それは誰へ向けた言葉なのか、よくわからなかった。ただ心の奥からこみ上げ、押し出された言葉だった。

 うん、と小さく頷く声が耳元で聞こえた。目を瞑る。また少し、両腕に力を込める。俺はただ、それだけでよかったのだ。他にはなにもいらなかった。ただここに、俺の傍にいてくれれば。俺にとって、それ以上の幸せなんてなかったんだよ。なあ里穂。


 水原の手がゆっくりと上がり、俺の背中に触れた。そしてそのまま上下に何度かさする。

 その動作の暖かさに、息が詰まりそうになった。閉じられたまぶたの裏に熱い痛みが広がる。しかし涙がこぼれるより先に、吹きつけた冷たい風が、そこにあった熱を連れ去ってしまった。

 きっと、時間が経ちすぎていた。里穂の死に対する最大のショックは、もういくぶん離れた場所にあった。もう少し早かったなら、泣くことができたのだろうか。そう考え、ふいに気づく。俺はまだ一度も、里穂のために泣いたことがなかった。


 心臓を突き刺すような痛みが襲い、しかしそれも、涙を突き上げはしなかった。なんだか途方に暮れたような気持ちになって、顔を伏せる。水原の柔らかな髪が頬を撫でた。

「……ごめん」

 ぽつりと呟いたその言葉も、誰へ向けたものなのかはっきりしなかった。ただ水原が、うん、と静かに相槌を打ってくれたから、今度は彼女へ向けて繰り返した。

「ごめん、水原」

 水原はもう一度、うん、と言った。その優しさに押されるように、勝手に声が零れていく。

「ごめん」



 かずくん、と、俺を呼ぶ里穂の声が頭の中に響く。

 里穂は俺のことを、誰かを幸せにできる人だと言ってくれた。


 ――かずくんなら、絶対安心だもん。

 弾む声でそう言って、楽しそうに笑う。俺はそんな彼女へ手を伸ばす。しかしその手は、もう届かない。目の前で彼女の笑顔が淡く揺れる。なあ里穂。代わりに、必死で声を投げた。俺は。

 俺は、里穂を、幸せにしたかったんだよ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る