第18話

「繭だったらいいのになあ」

 黄金色の空を眩しそうに見つめながら、里穂がぽつんと言った。

「なにが」

「かずくんの結婚する相手が」

 なんだそれ、と俺が軽い調子で笑うと、里穂も小さく声を立てて笑い

「だって繭の相手は、絶対に繭を幸せにしてくれる人じゃないと、私が認めないから」

「なんか里穂って、水原の親みたいだよな」

 里穂がゆっくりと歩いているので、俺の歩幅も自然と小さくなる。

 里穂は、そうだね、と楽しそうに頷いてから

「でもかずくんなら、絶対安心だもん」

 そう言って、穏やかに笑った。

 俺は言いたい言葉があったけれど、それは喉の奥で絡まり、声として形作ることはできなかった。ただ、風になびく里穂のまっすぐな黒髪を、ぼんやりと眺めていた。



 水原と宮下さえいなければ、すべてがうまくいくのだと思った。

 里穂は誰からも傷つけられることなく、苦しむこともなく、ずっと明るく笑っていられて、俺と里穂の間に変な距離が開くこともなかったのだ。

 そうしたらそのうち、俺はあの日里穂に言えなかった言葉を伝えることができて、里穂は今も俺の隣で笑っていたはずだと。他にはなにも見えない振りをして、ただ無頓着にそう信じていた。

 そう、信じていたかった。


「子どもを産めなくなるって」

 息が詰まりそうに青い空を見上げ、ぼそりと呟く。

「そんなにも悲観することなのか」

 俺と同じように隣に立ってフェンスに指をかけた水原は、静かに首を横に振り

「里穂ちゃんは、そのことを悲観して死んだわけじゃないよ」

 迷いのない口調で、そう言った。それから短く息を吸い、続ける。

「里穂ちゃんは、病気で死んだんだよ」

 里穂の母親も、同じようなことを言っていたのを思い出す。子どものことはきっかけでしかなかった、里穂を苦しめたのはその後に襲ってきた病気で、それが里穂を殺したのだ。

 まるで自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ彼女に、俺は奇妙な息苦しさを感じたのを覚えている。

 目を伏せ、フェンスを掴む指先に少し力を込めた。

「でも、その病気は、必ず死ぬような病気じゃなかった」

 なんだか息がうまく通らない喉から、声を絞り出す。

 水原はなにも言わなかった。ただ、空を見つめていた視線をこちらへ向けた。

「助ける方法なんて、いくらでもあったんじゃないかって」

 俺は大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。目を瞑る。

 それ以上言葉は続かなかった。代わりに、「ああ、そうか」という低い呟きがこぼれ落ちた。


 宮下くんと友達になってあげてほしい。俺にそう言った里穂の声が、ふいに頭の中で響く。

 だけど俺は、その里穂の頼みを聞いてやることはなかった。

 入学当初から宮下はずっと周りとは壁を作るようにして過ごしていたし、学校も休みがちで、きっと近いうちに中退してしまうだろうとクラスで囁かれるようなやつだったのだ。一度言葉を交わしたあのときだって、彼が徹底して俺を拒絶していることは十分すぎるほどわかった。

 それでも彼の苦しみをわかってあげて、拒絶されようと懸命に手をさしのべることができるほど、俺は優しい人間ではなかった。そんな面倒なことをする気は、起こらなかった。


「中学で、水原がいじめられてたこと」

 呟くように口を開けば、水原はふたたびこちらを向いた。

「知ってたんだよ、俺」

 顔を上げ、空を眺める。「でも」眩しさに軽く目を細めて、続けた。

「だからって別に、なにかしてやろうとは思わなかった。里穂一人が水原を助けようとして、それでクラスからはなんとなく浮いて。俺はさ、ちゃんと知ってたけどなにもしなかったんだよ。違うクラスだったし、どうにかしようとしても多分無理だろうとか考えて、でも結局のところは、自分とは遠いところにある厄介ごとにわざわざ首突っ込むのが面倒だっただけで」

 それに、といつも言い訳のように思っていた。

 里穂は昔から強い女の子だった。上級生にだって食ってかかるし、喧嘩をしても、泣くどころかけろっとした顔をしていた。だから大丈夫なのだと自分に言い聞かせ、そのくせ水原を疎ましく思っていた。水原さえいなければ、と、恨み言ばかり並べていた。

「何にもわかってなかったんだ、きっと」

 力無い声がこぼれる。考えれば考えるほど、容赦なく突きつけられるものがあった。


 水原のときも、宮下のときも。俺にはもっとやるべきことがあったのではないか。

 あのとき、里穂の力になれた人間は、きっとそう多くなかった。俺はその数少ない一人だったのだ。里穂の近くにいて、すべてを知っていて、しかも里穂からは頼み事までされていた。

 だけど俺は、その頼み事すら切り捨てた。聞いてやろうとも思わなかった。

 ああ、と小さく呟く。

「だから里穂は、俺にはなにも言わなかったんだろうな」

 声と共に、自嘲の笑みが唇の端から漏れる。

「病気のことも、今、すげえ苦しいんだってことも。俺は何にもしてやれないから。面倒ごとが嫌いで、すぐ目逸らすようなやつだから」

 自分の口にした言葉は、重たく腹の底に落ちていく。

 宮下はどうしていたのだろうと、ふいに考えた。すべてを知った上で苦しむ里穂の傍にいて、彼は里穂になにをしてあげていたのだろう。

 疑問は、すぐに答えにたどり着いた。里穂の母親の言葉を思い出す。死の直前、里穂は笑っていた。宮下と一緒に。幸せそうに。


 俺は思わず目を閉じた。フェンスを強く握りしめる。

 宮下には里穂しかいなかった。それは俺もよく知っている。ずっと一人だった宮下に、里穂だけが手をさしのべ、彼の傍にいた。

 それがどれほど彼の救いとなったのかはわからない。だけど宮下は、そうして自分を救ってくれた彼女のため、命を投げ出すことさえ惜しまなかった。里穂が最期の瞬間に、穏やかに笑っていられる。ただそれだけのために。


 無造作に身体の横に添えていた左手を持ち上げ、額に触れる。頑丈に包帯の巻かれた手のひらを無理に握りしめれば、ぴりと引きつるような痛みが走った。

 その痛みを追うように、俺はさらに力を込める。水原がぎょっとしたように、「志木くん」と声を上げた。俺は無視して、なあ、と口を開く。

「俺は里穂にしてやれることがたくさんあったのに、何にもしてやれなかったんだよ。俺がなにか行動を起こしていたら、里穂は死ななかったかもしれないのに。それってさ」

 笑いがますますこみ上げる。どうしようもないほど、苦い笑いだった。

「俺が里穂を殺したようなもんだよな」

 水原がなにか言わんと口を開きかけるのがわかったが、俺はそれより先に、「だからさあ」と続けた。

「俺も、死のうかと思って」

 ゆっくりと水原のほうを見る。彼女はフェンスから手を離し、身体ごとこちらを向いていた。

 まっすぐに俺を見つめる水原の目を、俺も見据える。そしてぎこちなく口角を持ち上げ、続けた。

「なんかさ、頭がどうにかなりそうなんだよ。もう無理だ。自分のせいで里穂が死んだんだって考えたら。でも」

 里穂はあの日、宮下へ何と言ったのだろうか。頭の隅でそんなことを考えながら、言葉を紡ぐ。

「一人じゃ寂しいから」

 なあ水原。

 にこり、歪んだ笑みを向ける。水原は少しも視線を動かすことなく、じっと俺の目を見つめている。

「一緒に、死んで」

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