親父おやじと呼ばれていた松尾の通夜は、その日のうちに行われた。

 まるで死ぬのがわかっていたかのように、準備が整っていた。慶子は松尾宅に泊まり込みで葬儀の手伝いをした。まだ安静にしていた方がいいという私の意見を受け入れず、じっとしているより何かしていたいと、お隅さんに訴えた。

 今朝になって、やっと私は松尾宅を訪れた。

 鍋や皿を手にした近所の人々が、ひっきりなしに出入りしている。木造平屋の襖が取り外され、広間に葬儀屋の姿がある。告別式の支度が進みつつあるのがよくわかった。

 庭の外れから、私はその様子をうかがっていた。私は慶子のように振る舞うことはとても出来なかった。まるで私一人だけが部外者のようだった。仕事を得た慶子は、この土地の神々に承認されたように、生き生きと感じられた。

 慶子、いや株人のことを、島人はどう認識しているのか。まさか私が目にしたものをすべて知っているとは信じがたい。しかし、それを確かめてみる心の余裕はなかった。

 私に気づいたのか、エプロン姿の慶子が近づいて来た。

「身体はどう?」

 私は掠れた声を出した。

「平気、もう大丈夫」

「そうか、ところで……田村さんは?」

「今、ちょっと話し込んでいるみたいだけど。呼んでこようか?」

「いや、それならいいよ」

 私の曖昧は態度に、慶子は怪訝な表情をした。借りもののワンピースが似合っている。それが私をなぜか不安にさせた。

「来てくれ、慶子」

「でも……」

 慶子をここから引き離したかった。

「人手はありそうだから、少し歩こう」

 私は慶子と往ヶ島を散策することにした。思いつくまま慣れないこの島を巡る。放牧された黒牛の姿を多く見た。数少ないこの島の特産品の一つ。松尾も黒牛を育て生計を立てていたという。

 海沿いの絶壁、その上沿いを歩いた。漁船が白波を立てながら弧を描いている。見上げると、飛来するシャトルヘリの影。すべてが白く眩しかった。

「あれに乗れば、家に帰れる」

「でも、怖くて……」

 ふらついた慶子を、私は支えた。


 昼過ぎ、松尾宅に戻り、二人で再び焼香を上げた。

 軒先で喪服姿の田村と言葉を交わした。眼鏡のレンズが汚れ、顎の髭が目立ち始めている。私は自分の意思を田村に伝えた。

「出ていくのですか……」

 田村は疲れた表情を見せながら、頭をかいた。

「シャトルヘリ、明日の便を予約しました。このままここにいても、そう考えて……」

「引き留める資格は僕にはありません」

「家に戻って暮らし始めれば、受け入れ難い出来事も、やがて……」

「いや、それは」

 私の言葉を田村は遮った。

「一度死んだ者が幸福に暮らせるほど、世の中は寛容じゃないです」

 黒いネクタイを緩め、田村は私を見据えた。

「考え直す気はないですか?」

 田村の問いに異を唱えようとしたとき、祐太が小走りでやってきた。ぶつかるようにして田村の腰にしがみついた。

「どうしたの?」

 祐太の背丈に合わせるように田村は屈み込んだ。手話で短い話をしたのち、私を仰ぎ見た。

「見せたいものがあるのです。ついて来てもらえますか?」

「どこへ?」

「石蓋というこの島の遺跡です。大事なことを決めるときに、そこへ行くという信仰が残っています」

 田村は立ち上がって、祐太の頭をなでながら言った。

 石蓋、それが何なのか、私は既に知っているかもしれない。そんな予感だけがあった。

 松尾宅の裏手にある石階段を私たちは上り始めた。田村と祐太のあとを、私と慶子が続いた。苔むした石階段はやがて山道と合流し、林の間をうねっていた。道を進むうちに、私は不可思議な既視感に襲われていった。

 鳥が遠くで鳴いている。木漏れ日が慶子の肩に模様をつける。この道はもうすぐ終わる。この先の繁みで行き止まりになるのだ。

 ここに来たことがある。

 あの夢と一緒だった。このまま行くと、あの石がある。

「ここです」

 田村は歩みを止めた。そこはちょうど、夢の中で私が立ち尽くした場所だった。

「石蓋と呼ばれているものです。島に古くからあるものです」

 田村が指差す先には、直径三メートルほどの平たい楕円形の石が横たわっている。白い布が結ばれた縄。それで囲まれているところまで夢と同じだった。

「この石の下には黄泉へ続く路があると言われています」

 田村の説明が不安を駆り立て、無意識のうちに、慶子の肩を引き寄せていた。

「株人である僕たちは一度死んで、そしてよみがえった黄泉の住人……」

 田村と手を繋いだ祐太が不意に石蓋の側にしゃがみ込み、耳を寄せた。

「黄泉とこの世は互いに干渉していけない、親父はそう言っていました。しかし、故人は株人となり、親株の身体からこの世に出て来てしまう。僕ら株人はここに存在しているように見えても、単に黄泉からほんの少し染み出している存在にすぎないのかもしれません。……お隅さんから親父が残した書類を受け取りました。それは本来、親株が受け継ぐものですが、とりあえず僕が代わりに中を検めました」

「慶子は帰れないのか?」

 田村の説明が不安を煽る。

「僕は本土で生活していたこともあります。でも、だんだんと自分の存在が希薄になっていくような気がして、ここへ戻って来ました。この島と繋がりが、僕たちには必要なのかと感じました。ただ、親株はこの島を離れては生きていけないのです。実際に親父が試し、結局死にかけたそうです……」

 熱心に語る田村をよそに、祐太は近くの繁みに身を寄せた。何かを見つけたのか、長い草に間にすっと姿を消した。

「戻ることに反対はしません。ただ親株だった親父が亡くなったことが問題です。代わりの親株が必要になる……。過去からそうやって継承されてきたようです。親株……。それは僕かもしれないし、祐太かもしれないし、慶子さんかもしれない。親株は株人の誰かが引き継ぐことになります」

「いや、待ってくれ……」

 私は言葉を続けられなかった。

 繁みから出て来た祐太が慶子に近づき、何かを差し出した。手には薄紅の野花が握られている。慶子と花を交互に指差した。

「これを?」

 慶子が屈んで受け取ると、祐太は笑顔になった。

「親株は株分けが始まるまでわかりません。それは今すぐに始まるかもしれませんし、一年後、十年後かもしれません」

 田村は花を見つめ、押し黙った。

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