携帯電話の音で、孤独な朝を知らされた。

 枕元から取り上げ、耳に当てる。

「株分けが終わったようです」

 田村の声がした。

「そちらに迎えに向かいます。一緒に会いに行きましょう」

 電話を切ったあと、身支度を済ませ、旅館を出た。玄関先で緩んだ靴紐を直していると、程なくしてワゴン車に乗った田村が到着した。

「おはようございます。どうぞ、乗ってください」

 助手席の窓から田村が声を張った。

 私はワゴン車に近づき、ドアノブを掴もうとして、しばらく躊躇った。慶子に会うのが怖い。あれは妻なのだろうか。それによく似た得体の知れないものかもしれない。取り戻したいという想いと、未知に対する警戒心がせめぎ合う。

「このまま確かめずにいると、きっと後悔する……」

 田村は窓越しに語りかけた。田村も株人であり、同じように慶子も……。何ら私と違いはない。

 慶子は私を必要として呼んだのだ。会わないなんて答えは最初からないはずだった。

 私は意を決めて、ワゴン車に乗り込んだ。

 昨日と同じ道のりを辿り、旧診療所へ向かう。

「安心してください。お隅さんの話では、二人は元気だそうです」

 田村と同じようには喜べなかった。

「今日はちゃんと話せると思いますよ……」


 昨日と同じ道を辿り、ワゴン車は診療所に到着した。

 正面玄関の扉は既に開いていて、人の気配を感じた。中に入ると、待ち合いの椅子に、お隅さんが気怠そうに寝そべっている。田村の挨拶に、おおと答えながら、身体を起こした。

「無事に株分けが終わったよ。二人は普通の病室に移動した。慶子さんは動けたが、あの人は祐太と二人でなんとか運んだよ。どっかの男は酒飲んでぐうぐう寝ていたそうだからな」

 お隅さんがぎろりと田村を睨んだ。

「いや、申し訳ない」

「二人とも二階だよ。慶子さんは手前の部屋だ」 

 お隅さんは目を閉じて、唇をすぼめた。

 会釈をしてから、私は田村に続いて階段を上がった。廊下を進み、病室へ向かう。地下に比べ、さすがにここは明るく清潔そうだった。

「慶子さんはここですね。僕は親父おやじの様子を見て来ます」

「あの……」

 私の問いかけに田村は答えなかった。一人、病室の前に佇んだ。息を整え、ドアの取っ手を掴む。震えそうな指先で、それを横にスライドさせた。

 午前の淡い光が病室に差し込んでいた。病室には骨組みだけのベッドがいくつか並んでいる。ただ窓際のベッドだけは白い蒲団が備えてあった。

 そこに慶子がいた。身体を起こし、自分の指先に視線を落としている。少しやつれたように感じた。もともと細面だったが、内側から何かが削り取られたかのように見えた。

 私は唇を噛みしめながら、慶子に近づいていった。

「……来てくれて、ありがとう」

 伸ばされてくる懐かしい手をおずおずと握った。かける言葉が見つからない。違和感があれば、すぐに楽になる。しかし、慶子はどこまでも慶子そのものだった。

「慶子、なのか?」

 そう言うべきでないことは百も承知だった。しかし、口をついて出た言葉が、それだった。

「知りたい、わたしも」

 慶子は私の手をぐっと握りしめた。

「わたし、死んだのね?」

 その問いに、私は微かに頷いた。

「もう、お葬式もしたの?」

「うん、すまない」

「謝らなくもいい」

 俯きながら、慶子は笑った。

「みんな泣いた?」

「ああ、泣いてたよ」

「あなたも、泣いた?」

「泣いた」

 慶子は薄い掛け布団を頭からかぶって、泣き始めた。

 昨夜の夢がよみがえってくる。地面の底で慶子が泣いている。だが、そこに手が届かない。

 突っ立ったまま、慶子の嗚咽を聞いていた。言葉をかけようとしたが、何も思いつかない。慶子が泣き止むのをじっと待つしかなかった。

 日が少し陰り、また光を注いだ。

 慶子はひとしきり泣くと、顔をのぞかせ、涙を指先で拭った。

「トラックに巻き込まれたのはよく覚えている」

 髪をかき上げ、耳にかける。

「けど、そこから曖昧になってしまって、気づいたら、松尾さんから押し出されようとしていた。この世界は何? わたしがいた世界なの? 雅史。あなたは本当にあなたなの?」

「そうだ。心配はいらない」

 私の声は震えていた。

「憶えているか? 最後に行った旅行のこと……。慶子がいなくなってから、よく思い出すんだ」

 去年の秋、二人きりで古都を巡った。

「綺麗だったね、紅葉」

 慶子の言葉が重ねられる。

 慶子の肩から蒲団を剥ぎ、お互いに見つめ合った。切ない思いがこみ上げる。この気持ちを素直に受け入れるべきだった。迷いがどんどん晴れていく。

 私の本心を慶子に伝えようとしたそのとき、廊下から田村のただならぬ声が聞こえてきた。

「お隅さん! お隅さん!」

 バタバタと廊下を右往左往する様子がうかがえる。

 私は病室から顔を出した。

「どうしたんですか?」

「親父が急に苦しみだして。あ、お隅さん。親父が」

 田村とお隅さんが松尾の病室に消えた。

 私はそこへ入れず、慶子のいる病室に戻った。

 しばらくして廊下を挟んで、すすり泣く声が響いてきた。

「ああ、亡くなったのね……」

 慶子はそう言って、両手で顔を覆った。

 生と死の境界が曖昧になっていく、私の心は乱れていた。

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