予約していた旅館の前で、田村と別れた。

 深酒するつもりはなかったが、足元がおぼつかなかった。なんとかチェックインを済ませ、案内された部屋で座り込む。ため息しか出ない。料理のせいか、酒のせいか、喉がひどく渇いていた。重い腰を起こし、水差しの水を飲む。濡れた顎をそのままに、敷いてあった蒲団に潜り込んだ。

 田村の誘いは結果的に正しかった。酒でも飲まなければ、今夜は眠れない。信じてきた常識が足元から揺らいだのだ。

 大げさに寝返りを打ってみた。古いタイプのエアコンがカタカタと鳴っている。今から思えば慶子が死んでから、私が生きてきた現実など、どれほどの意味があるのだろうか。慶子がそこにいるなら、私は現実をありのままに受け入れたい。その想いに嘘はなかった。

 うつらうつらとしてくる。

 やがて訪れた眠りは、私を地の底に連れて行った。

 夢の中だとは知りつつも、あらがえない自分がそこにいる。

 一人きり、私は当てもなく歩いていた。山深い道がうねりながら続いている。それをただひたすら辿っていた。

 どれくらいそうやって歩いていただろうか、道は絶壁の手前で忽然と消えた。

 必然的に、私は立ち止まり、目の前にある平たい石を見下ろした。巨木の切り株のような形をしている。高さはないが、かなりの重量感がある。神聖なものなのか。周りには縄が張られ、白い布がぶら下げてあった。

 まるで大きな蓋のようだ。

 誘われるように石に近づき、私は跪いた。何かが聞こえてくる。がやがやと耳の奥に音の破片が擦れ合う。聞き取ろうとするが、消えてしまう。気のせいかと思うと、まただ……。

 どうも女の泣き声のようだった。

 耳を澄ます。この石の裏側から聞こえてくるようだった。声は聞き慣れたものだ。……慶子の、それに似ていた。聞けば聞くほど、石の下で孤独に震えている慶子がイメージ出来た。そう思い出すと、いても立ってもいられなくなった。私は石にしがみつき、ありったけの力を込め、石を横に押しやろうともがいた。

 しかし、びくともしない。

 爪が割れ、血がにじむ。無力さに拳をつくり、打ちつけたが、虚しい痛みに顔をしかめるだけ。こんなに近くいるのに、会うことも叶わない。唸りながら、瞳を濡らした。

 慶子。

 自分のすすり泣きで目が覚めた。涙を拭わず、見慣れない天井を眺めた。

 何があろうとも慶子を連れて帰る。

 私は何度も自分自身に言い聞かせていた。

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