主人公はなぜ盗賊を殺すべきなのか?

十重二十重

主人公はなぜ盗賊を殺すべきなのか?


タイトルを見て、こいつは奇をてらったタイトルで読者の関心を惹こうとしているぞ、と考える人があるかもしれませんが、実はその通りです。


このエッセイを書いたキッカケは、Twitter上で「異世界転生/転移した主人公が殺人を犯すのは不自然ではないか?」という議論を見かけたことです。


読者から物語に登場した盗賊の殺害を望まれた、殺人を望む気持ちが理解できない、というお話もあり、自分なりの見解をまとめたくなった次第。


いきなりタイトルを裏切りますが、筆者は盗賊を殺さなくても良いと考えています。

「るろうに剣心」や「ヴィンランドサガ」のファンなので。


ここで述べたいのは「不殺主人公はなぜ嫌われがちなのか?」です。

また「主人公を殺人者にしたくない」という作者様にも、提案のようなものができればと考えています。


ただし、読者が「なぜ殺さないのか?」と感想を述べたとき、それは殺人そのものを望んでいる訳ではないだろう、ということをはじめに申し上げておきます。



1)現実の私たち


私たちは子供のころから「人を殺してはならない」と認識して育ちます。

しかし、その理由を明確に教えられた人は少ないのではないでしょうか。


教えられたとしても「悲しむ人がいるから」「自分が殺されたら嫌でしょう」という感傷的な理由であったり、

「疑問に思うこと自体がおかしい」という風に道徳を盾として答えを濁す大人が多かったのではないかと思います。


あえて筆者なりの考えを披露するならば、人間は社会的な生物だから、がその理由です。

人はそれぞれ特技を持ち、徒党を組んで協力しあうことで、その力を最大限に発揮します。


殺人を容認すれば結束を弱める事になり、その集団の弱体化を招くことでしょう。

他の生物に比べ、人は一人では弱すぎます。

人が繁栄するため、幸福になるために「人を殺してはならない」ことは必須のルールではないでしょうか。


では、このルールの対象を広げ「生物を殺してはならない」とすればどうなるでしょう?

私たちは生きることを許されません。好むと好まざるとに関わらず、植物を含めた生命を口にすることで、先祖代々その命を繋いできたからです。


言い換えれば、人間が「奪う事を許容される命」と「奪う事を許容されない命」があるということです。

前者の代表が家畜で、後者の代表が人間ですね。


この両者の間に引かれたラインは曖昧で、犬や猫、鯨などが様々な理由で行き来しており、それはどこまでも人間の都合で決定されます。


遠い――あるいは意外と近い――未来、科学の発展が食料を不要としたとき「奪う事を許容されない命」の対象がすべての生物に広がるかもしれません。


が、それは現在の話ではありません。


私たちは今のところ、生きるために ”ある程度の野蛮さ” を必要としています。



2)時代劇の人々


ここで触れたいのは勧善懲悪としての時代劇(大岡越前や遠山の金さん、鬼平犯科帳など)です。

若い人が目にする機会は少ないでしょうが、長きに渡り多くの人々に愛されてきた娯楽作品と言って良いでしょう。


これらの物語を単純化すると、おおむね次の構成になります。


 1.武力・権力を持つ悪者が、弱者(=普通の人々)を虐げる

 2.より強い武力・権力を持つ主人公達が事情を把握

 3.主人公が悪者を成敗する


成敗された悪者には罰が下ります。

言い渡される刑罰は、現代の感覚からはかけ離れた過酷なものです。


多くは尊厳の剥奪を含む死であり、遠方への隔離です。

死罪を免れても、再び弱者(=普通の人々)に近づくことはまず不可能でしょう。


世代を超えて愛される娯楽作品で、過酷な処置がなされるのはなぜか?

物語の時代にあわせた、とは言えるかもしれませんが、それだけでしょうか?


筆者は、この処置に2つの効果があるからだ、と考えます。


1つ目は、尊厳の回復です。

悪者を明確に罰することで、弱者が受けた被害は理不尽であり、正義はそれを許さないと宣言します。

これにより、弱者の屈辱が解放されます。


2つ目は、将来の安心です。

刑罰は悪者を死後の世界、または遠方の地に隔離し、物語に存在しない人々を含めた弱者への新たな被害を防止します。


これら2つの効果があわさることで、観客はカタルシスを得るとともに「もう泣く人たちは生まれないのだ」とようやく安心できるのです。


悪者に自由を与えた場合、新たな被害者が生まれることがしばしば発生します。

これを防止するため、悪者の命が「奪う事を許容される命」として扱われるのでしょう。


人々が健やかに協力しあい生きるため、ここでも “ある程度の野蛮さ“ が機能していると言えるでしょう。



時代劇についてもう一つ触れさせてください。主人公と悪者の違いについて、です。

この両者は、弱者(=普通の人々) より強い武力・権力を持つという点で似た存在です。


では両者の違いは何か?

悪者は我欲を満たすために力を振るい、

主人公は他者のために力を振るう

という点です。



3)異世界転生/転移物語の主人公


さて、ここからが本題です。


異世界転生/転移物語の主人公は、ほとんどの場合において特別な力を持ちます。

この力を振るうことで、美しい異性と出会ったり、財産を築いたり、美食を追及したり、地位や権力さえ手にしたりするのです。


これら物語の中で、主人公は盗賊に代表される悪者としばしば対決します。


悪者を退治した後、どうするのが望ましいでしょうか?


軽くこらしめただけで解放すれば、悪者は強者(=主人公)のいないところで再び悪事を働くでしょう。

程度の差こそあれ、多くの読者はそれが現実に起きる事を知っています。

これでは弱者(=普通の人々)の不安は解消されないままです。


「悪者を成敗しない」という行為は、弱者(=普通の人々)の過去や未来を軽んじる行為に他なりません。



自分自身や、好みの異性のためには力を振るい、

弱者(=普通の人々)のことは考えもしない人間。

その属性は「悪者」に近づきます。


そして、私たち読者はほぼ全て、特別な力を持たない普通の人々です。


主人公が無邪気に不殺を叫ぶとき、読者はそこに優しさや繊細さではなく、

”弱者への思いやりや想像力の欠如” を発見してしまうのです。



人は合理的には生きられません。殺したくない、は自然な感情です。


それでも、仲間や人々の危険を考えない・立ち向かわないならば、それは優しさではありません。

弱さや愚かさ、あるいは他人はどうでも良いという傲慢さです。



これを理解した上で物語を描いているかどうか、が肝です。



誤解しないでいただきたいのですが、主人公は悪でもクズでも腰抜けでも間抜けでもOKです。


ただし、その存在が考えなしに「良い人」「強い人」「賢い人」として描写されたとき、その認識のズレが読者の不満を呼び起こすでしょう。

道徳を説かれたりしたら最悪です。


弱さとして書いているのに文句がでる? それは退屈させているからでしょう。筆力の問題ですね。



4)結論


重要なのは、主人公の行動が引き起こす事象を想像できているか、です。


悪者が主人公なら、一般人がどうなろうと関係ないでしょう。

しかし、英雄や善良な人物として描いているならば、2)で説明した尊厳の回復と将来の安全について検討してみてください。


罪に見合う罰を与えた上で、罪を繰り返せない状況を作るのです。


もちろん状況によって対応が難しい場面もあるでしょう。だから簡潔な対応として「なぜ殺さないの?」って言われるんでしょうね。


あなたの作品がエンタメ志向で、なろうテンプレをよしとするなら、時代劇のテンプレを採用しても良いのではないでしょうか。




蛇足:筆者からの疑問あるいは皮肉


現代人が殺人を忌避するのは自然なことで、それを描くのは凄く良いと思うのです。

でも、魔物を殺すのはいいんでしょうか? 人型もいますけど。人語を話すものも。そちらを問題にする方を見かけないのはなぜでしょうか?


調理用の肉を切る時でも、包丁を通してかなり詳細な情報が伝わってきます。

生きている生物の肉や骨を断つ感触ってどんなものでしょうね。気持ちの良いものとは思えません。

それに加えて血の匂い。断末魔の絶叫。


レベル上げ、素材集めのために大量虐殺する話は多いですが、それを許容できる時点で十分にぶっ壊れているのでは?

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