第16話 お父さんを捨てる
お母さんの過去を受け止めたぼくはお母さんをぎゅっと抱きしめた。きつく、痛くなるくらいに。そうでもしないと伝わらない。これでも足りない。全然足りない。
お母さんの人生だった。はじめて聞く話は重くて、ぼくにまきついてきた。お母さんがぼくのなかに入ってくる。ぼくにお母さんがそそぎこまれる。ぼくの血になって肉になる。ぼくはぼくでお母さんだった。
「お母さん、ぼくがいるから」
心のなかに裸のお母さんがいる。裸のぼくがいる。ぼくたちは手をつないだ。
「ありがとう、まさ君。あいつなのよ。あいつが全てをうばったのよ。頭のいかれたあのクズが。あいつはなにも考えずに酒を飲んでる。私が怒られて、文句をいわれて、どうしようもなくなっている時にあいつは暢気に、自分のしたことの後悔もしないで、満足そうに生きている。こんなことがあっていいの? ねえ、まさ君こんなことが許されていいの? 私の夢をこれまでの努力をなかったことにしたあいつに罰はあたらないの?」
このままお父さんを許していいわけがない。お父さんの顔が頭に浮かんで、ぼくはそれをもみくちゃにした。お母さんのためにお父さんは罰を受けなきゃいけない。お父さんはくずだ。ぼくがその間違いをなおしてやる。
お母さんは「死ね」と叫んだ。
「待ってて」
ぼくは言った。ぼくにお母さんが乗り移ったみたいだ。お母さんの気持ちがぼくにはわかる。ぼくはお父さんをゆるせなかった。
「ぼくがやる。お母さんのためにぼくがやる」
「ああ、まさ君」
ぼくは立ち上がった。床に落ちてた缶ビールをぼくは蹴った。転がる缶を踏み潰した。これがお父さんだったらよかったのに。ろうかを激しく踏んで進んだ。お父さんに聞かせてやる。ぼくがきたってわからせてやる。
「おとう……。」
ぼくはそこで間違いにはっとした。
「おい、くず」
これが正しかった。
「聞こえてるだろ? 返事しろよ」
ドアをけり上げた。この一枚むこうに返事もしない酒ばかり飲んでる臆病者がいる。
「まさ君、ああ、まさ君」
ぼくにとっての魔法だった。それだけで、ドアをける力が強くなった。
「くず、お前なんか死んじまえ。お母さんを傷つける最低なくずだ。ぼくはお前が嫌いだ。早くいなくなれ。こっから出てけ。早く消えろ。死ね。お前のせいで全部だめになってしまったんだ」
ドアは開かない。ぼくは心のなかのありったけをくずに向かって叫んだ。
「死ね、死ね。お前が悪いんだ。ぼくでもお母さんでもない。お前のせいだ。ぼくたちは家族でいられたのに。みんなで仲良くできたのに。ぼくたちを捨てやがって」
そうだ、くずはぼくたちを捨てたんだ。ぼくは捨てられたんだ。
「あんたのせいよ。あんたがなにもかもつぶして、自分はお酒に逃げているの? 恥ずかしくないの? 夫としての、父親としての責任はどこへいったの? 私だったら、恥ずかしくて死んじゃう。あんたはその勇気もない。下水にもぐるねずみみたいに、みっともないあなたは卑怯にも生きることにしがみついている。死んだほうがましなのよ」
ぼくに追いついたお母さんがぼくの援護をしてくれる。すごく頼もしくて、ぼくたちは最強だった。
「いつまでにげるつもりなんだ?」
「もうあんたの居場所なんかどこにもないのよ。あんたはなにもない。どうして生きてるの? 私だったら絶望して死んじゃうけど。あんたにはその勇気さえないの?ねえ、お願いだから早く死んで。もういらないの。消えてほしいのよ」
「死ね」
「まさ君のいうとおり。死ね。あんたはそれをするしかないの。死ね」
お母さんがぼくの肩をつかんで、一緒に死ねといってくれた。
「死ね、死ね、死ね」
ぼくもそれにあわせて、死ねの大合唱だ。言葉がドアをすり抜け、ナイフとなり、クズに襲い掛かる。ぼくはすごく気持ちよかった。ぼくは1ミリだって、悪いことをしていない。
お母さんは死ねと叫ぶ。口から唾が飛ぶ。口の動きが間に合わないくらい、死ねとなんども言っていた。ぼくも言いたらない。もっと言わなきゃいけない。正しいことをしなきゃいけない。お母さんはいつだって正しいんだから。
「死ね、死ね、死ね」
ぼくはだめな子だけど、今だけは正しい子でいられる。お母さんのそばで、ぼくは正しくいられる。正しいことをするのが、こんなに気持ちいいことだってぼくは知らなかった。
ドアは開かなかった。むこうがわからは物音ひとつしない。ドアをはさんで、あちらとこちら。そこにある空気も違うみたいだ。これだけやっても、クズはまだ逃げるつもりなんだ。クズはぼくたちが、どうわめこうが、どうさけぼうが、どうでもいいと思ってるんだ。クズにのなかにぼくたちなんかいないんだ。
許せなかった。どろどろしたものに埋め尽くされ頭がどうかしそうだった。。こわしてやりたかった。無視できないほどクズの心を揺さぶってやる。地震みたいに、破壊するんだ。
そうだ、クズの心を壊さないと。
ぼくは迷路を抜け出て、青空の下にいた。そこではすべてが許され、すべてがいきいきと、らんらんと、さんさんと、とにかく正しいものやことでいっぱいだった。ああ、ここが天国なのかとぼくは思った。いるだけで心地よく、元気がでる。昔の絵画のような裸のお母さんがいる。ただ、美しく、圧倒的に違っていた。ああ、ぼくはここにいる。海の波の音が聞こえ、大きな山があり、太陽が昇る。でも不思議なことにぼくたちはみんな影をもたないで、ただひとりきりだった。でも、いいんだ。ここではぼくたちはひとりじゃないから。ぼくはここで答えを見つけた。今までもそれはどこかにあったのかもしれないけど、ぼくには見えなかった。お母さんのおかげだ。お母さんがぼくをここまで連れてきてくれたから、全部、お母さんのおかげだ。その答えは、絶対に正しくて、間違いのない真実だった。ぼくはそれに手をのばした。ぼくの手のなかにそれは居心地よくおさまった。ぼくは手のひらで転がす。ますます、ぼくになじんでくる。そして、ぼくのものになる。
ぼくはドアの向こうにいるクズに言った。
「お父さんじゃない。違う。お前はぼくの父親なんかじゃない。ぼくの家族はお母さんだけだ」
ぼくはクズとのつながりをちょんぎった。糸の切れたたこがどこか遠くに飛んでいく。
「お前なんか要らない。悲しくなんかない。ぼくにはお母さんがいるんだ。お前がいなくてもぼくたち二人で生きていくんだ」
お母さんは微笑んでいた。女神様のように微笑んでいた。
ぼくの物語 @sahara_dance
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