第15話 かわいそうなお母さん

 私はずっとかわいそうな子だった。これからも、これまでも、どうしてだかわからなくて、決まっていたことなんだね。私は日陰に咲いた。そこに花があるなんて誰も知らなかった。中学、高校、短大と私はそこにいて、そこにいなかった。私は私をかわいそうだと思う優しい子につきまとっていた。眩しい太陽。その子がいる大きいグループのすみっこの方で私は隠れるように息をしていた。私はすがりついていたの。そのせいかな、卒業するともう私に連絡がくることはなかった。むこうはやっと重荷から解放されるって嬉しかったかもね。私は誰からも思い出されない、地味で、暗い顔で、勉強もできずに、おしゃれじゃないしセンスもない。自分を守ってくれる人に、求められてもいないのにつきまとって、ごみをあさるホームレスとおなじくらいみじめだった。結局私にはドラマであるような華々しい青春物語は一切ないまま、学生から社会人へと階段をひきずられるようにして上っていった。

 私にはなにもない。就職したのは小さな会社の事務係で誰がやってもできるような仕事は私がやる意味なんてなかった。話はするけど決して仲良くなれずに距離を保ったままの同僚、上司と顔をあわせる変化のないどこを切り取っても同じ毎日。ただ時間をすりつぶしていく。予想できてしまう未来に私は初めてこわくなった。これじゃいけないって、こんな人生でいいのって私は思った。会社に就職して三年目だった。馬鹿みたいに悩んだの。自己啓発本を読んで、雑誌を読んで。いろんな趣味もはじめた。料理教室や写真教室に行ってたの。こんな私にもなにかがあると思っていたの。きらりと輝くなにかが。手を出してはやめて、手を出してはやめて。そうして二年がたった。

 無駄な時間だった。私にはなにもなかったの。これまで誰かにすがって自分の足で生きてきた私になにかがあるはずなんてなかった。新しく買った一眼レフカメラを壊した。私に光りはあたらない。

 

 ある日同僚が結婚したの。そのころ私は二十九歳になっていた。年をとるっていうのは平等で残酷で、私の目尻にはしわができて、肌にはハリがなくなっていた。新しい後輩が入り、私はすみに追いやられるのを感じた。旧世代っていうのかな、私にはあってもなかったような若さが、今頃顔をだして私に舌をだして逃げていくの。私はこのままここでうもれていくんだって思った。

 

 結婚した同僚は私と同じ地味な子で、笑うこともあんまりなくて、暗くおとなしかった。かわいくもなかった。心の中で私は彼女に勝ったと思っていた。彼女だけには。彼女はそれくらいひどかったの。彼女の結婚相手はみんなが一度は耳にしたことのあるような大企業の社員さんだった。彼女の結婚式は私が見たこともないような輝きであふれ、聞いたこともないような自信のある声がかわされ、口にしたことのないような難しい言葉でいっぱいだった。 

 

 宝石のようなシャンデリアに、ひとめでわかる品のあるスーツを着たたくさんの新郎の招待人は、自分の力で社会がかわっていくと信じて疑わない、力を持つ人たちだった。お茶くみばかりの私とはくらべものにならない。グラスを掴む、それだけの仕草も映画のワンシーンのようにかっこよかった。私なんかがいていい場所じゃなかったの。真っ白な結婚式で、私は黒いシミだったの。自分が恥ずかしかった。その日のために買ったドレスは似合わなくて、場違いな私を際立たせるのに役立つだけ。ここにいちゃいけない。ここは私がきてはいけない場所。酔った男の人が私に指差すんじゃないかと思った。「あいつを呼んだの誰だよ。つまみだせ」私はうつむいて視界から人を消した。耳も塞ぎたかったけどそれはできなかった。純白のテーブルクロスが目の前にあった。

 その時、会場が暗くなった。私は顔を上げた。スポットライトに照らされた二人が暗闇の中で浮かび上がった。タキシード姿の新郎とウエディングドレスを着た新婦。残酷な見世物だったわ。新婦はかわいそうなくらい似合ってなかった。かまきりが女装していたの。私は吹き出すのを我慢した。彼女こそ、つまみださなきゃ。この結婚式は最初から黒く塗りつぶされていて、それに比べると私のシミなんかないも同じだった。身の丈にあってないことを望んだからこんなことになったんだと私は叫んでやりたかった。かわいそうに。馬鹿みたいに調子にのった結果がこれなのよって。

 信じられなかったのは声に出して笑う人がひとりもいなかったこと。温かい拍手が鳴り止むことはなかった。私はみんなに教えてあげたかった。「みて、あの主役面している女を。彼女はあっち側じゃないでしょ。みんな本当のこといおうよ。笑ってあげようよ」

 彼女は幸せそうに笑っていた。それが当然だというように。

 彼女はつまみ出されることなく、結婚式は無事に終わった。ケーキ入刀、お色直し、両親への感謝の手紙、誓いのキス。どれをとっても彼女はこの華やかな結婚式の主役だった。手紙を読んでる時にはふだんあまり感情の出さない彼女がボロボロ泣いて、言葉が途切れ、新郎は優しく手紙に手を添え、肩をだき、彼女が読み終わるまで辛抱強く支えていた。それにつられて涙を流す招待客もいて、会場は感動に包まれた。キスの時なんか、ヒューヒューって歓声があげられる中で、彼女は照れながらも堂々と女の顔になってキスをした。みんながわいた。私は吐き気がした。全員、騙されていた。彼女は結婚という方法をつかって太陽をかすめとったのよ。

 結婚式が終わって二次会にも参加せずに私はひとり家へ帰って、明かりもつけずにベッドに倒れ込んだ。眠りはしなかった。ずっと結婚式のことが頭から離れずに、まだそこにあるかのようにはっきりして、においまでかおってきた。だけど、夢のようにも感じていた。私には信じられないことだらけだった。夢とほんとのこと。境目がわからなくなっていた。太陽をかすめとった彼女と私。主役の彼女とスポットライトの外側にいる私。幸せそうな彼女と不幸な私。そのうち、彼女と私の顔がいれかわった。ウェディングドレスをきた私。みんなから祝福される私。号泣する私。キスをする私。なにをやっても許されて、拍手がついてくる。気持ちよかった。ずっとその拍手を浴びていたいと思った。

 私は高笑いをした。そこで現実に引き戻されてしまったの。私は明かりのついていない部屋で寂しくひとりで笑う女に過ぎないんだって。絶望はしていなかった。

 サナギは蝶になる時を夢見てひきこもる。殻を破るのは柔らかくてふにゃふにゃの羽根で、その日私には羽根が生えた。私には無理だとあきらめていた夢を私は見つけ出したのよ。私は幸せな結婚をする。自慢できる夫と二人で誰もがうらやむ生活をする。暗がりから抜け出す。私もあちら側に。私でもあっちに。

 はじめて私の目に光りが届いた。朝がきていて、カーテンをひくと、太陽がさんさんと私を照らした。空が青かった。私は見上げた。美しかった。私にも光りがあたる。私はここにいてもいいんだ。私でも大丈夫。もう一度ここからはじめよう。

 あの日見た景色を今も覚えてる。私が生まれかわった日だから。

 

 私が取った行動はこれまでの人生と同じだった。私は幸せいっぱいの同僚の家に頼みこみに行って、すがりついたのよ。彼女に馬鹿にされてもいいと思った。私にはほかに方法がなかったの。

 彼女が出すお茶とお菓子は高級なもので、高級なお店のもてなしを受けているようだった。彼女はばっちり化粧をして、会社では見たことなかったブランドの服をみにまとっていた。顔はかわらずひどかったけど、雰囲気があり別人だった。私は彼女のご機嫌をとるために目に付くものをほめていった。あれだけお世辞をい言ったのはあとにもさきにもあの一回だけね。彼女は気分をよくして、家を見せびらかすだけ見せびらかした。トイレもよ。自慢したくてしょうがなかったの。それが終わると目に見えて彼女の熱は下がっていった。投げやりに会社のことを聞いて、興味もなさそうに返事した。彼女にとってはもう捨てたもので、関係のないものだと言いたそうだった。部屋にあったティッシュが高いんだと自慢している方が熱心だったね。自慢の終わった彼女に聞き役の私はもう必要なくて、早く帰らせようとしていた。まだ私は話したいことを話せていなかった。もし今を逃してしまうともう家に呼んでもらえることはないだろうとはっきりわかったわ。だから私は恥も見栄もなにもかもを捨てて必死に彼女に頼み込んだ。


「私はもうすぐ三十歳になるの。あとがないの。ねえ、みてこのしわ。おばさんになりかかっているの。私にはきらきらするような青春もなくて、若いってことに意味はなかったけど、それでもないよりはましみたい。私はこれからどんどん老けていってひとりになる。そんなの嫌。でも相手がいない。私を相手にしてくれるような人なんかいない。私も結婚したい。こんな暮らしをしたい。あなたは私の憧れなの。お願いします。こんな私でも結婚したいの。川田さんみたいになりたいの。私に誰か紹介してくれませんか?なんでもするよ。だからお願いします」

 私にはこれしかできなかった。自分の弱さをさらし者にして、同情を得るしかないのよ。見せびらかして相手が引いても、それでも見せつけるしかない。こんなことせずにすんだら、どれだけいいんだろう。みんなが寄ってくるような容姿とか雰囲気とか性格とか、どれかひとつでも恵まれていたらどんなにいいか。同情を集めてみんなにかわいそうだと思われる。そうやって私は初めて人と付き合うのよ。

 彼女、顔には出さなかったけど、心の中で見下していた。たぶんホームレスが嫌われるのは、みじめであわれみをさそうからよ。境遇とかつらさを想像する前に、みじめさを気持ち悪いと思うの。くさいし、自分と同じ人間がそんなのになっているのを認めたくなくて、すみに追いやるの。そしたら嫌なものを見なくていいから安心するでしょ。彼女もこんな私を見ていたくはなかったはず。迷ってるって感じで、でもわかりやすく断ろうとしていたわ。 

 私はあきらめなかった。もっともっと私のみじめなところをさらけだした。弱いところを切り出して、いろんな角度から見せてあげて、それがもっとみじめになるようお化粧もして、彼女の前にどうぞって渡したの。女のプライドが高いのにはわけがある。不安で、不安でしょうがなくて、自分がいいのかもわからなくて、高いプライドで自分を守っているの。私はそれを築く力もなくて、でも持っていたちっぽけなものを彼女の目の前でズタズタに切り裂いてあげたの。そしたらね、彼女約束してくれた。ものすごい優越感にひたって、そしてゴキブリでも見るように私を軽蔑して。


「安田さん、必死すぎよ。そんなんだから結婚できないの。私たちそんなに仲良くなかったのに。しょうがないから主人に聞いてあげる。この一回きりよ。どうなっても私は知らないから。あと、うちにはもうこないで。安田さんのオーラがこの家にしみついちゃ大変。安田さんはきれいだけど、人を不愉快にさせるものがあるのよ。ごめんね、こんなこといって。でも安田さんのためを思っていってあげてるんだよ。約束は守るから安心して。電話する。これでいいでしょ。それじゃあ、帰って」

 弱みを丸ごと差しだしたから、彼女は仮面を捨てさった。彼女、私には蟻を踏み潰すことさえできないってわかったの。私に対しては思っていることをなんでも言ってよくて、仕返しする力はもってない。私には遠慮をする必要がない。

「約束は守る」その言葉が私にとっての救いであとは耳にはいらなかった。私は捕まった犯罪者のように彼女に付き添われて玄関まで送られた。さよならの挨拶もなかった。玄関のドアが閉まる時、彼女は笑っていた。

 彼女がいつ電話をかけてきてくれてもいいように、留守番電話付きの受話器を買った。彼女から連絡はなく、一ヶ月、二ヶ月が過ぎた。私はどうしたらいいのかわからず、何度も彼女に電話しようかと思った。電話が鳴ると狂ったように飛びついた。天国への階段が途中で切れて、私は頭がおかしくなりそうだった。やっぱり私じゃだめなのかな。深いあきらめが私をさらおうとしていたの。

 彼女から電話があったのは半年が過ぎた頃で、私は5キロやせていた。そしてあいつに出会ったの。

 完璧だったのにね。あいつがこんなことになったせいで全部壊れちゃった。一回くれたのにそれを取り上げるなんて。こんなことなら、あのままでいたほうがよかったかもね。一度体験してしまうともう戻れないのよ。

 こんなことさえなければ、今でも私は太陽だった。なに一つ欠点のない自慢できる家族と一緒に、誰からもかわいそうだと思われない生活を過ごすことができたのよ。あいつのせいよ。あいつの頭がおかしくなって、ただのアル中になったせいで、私の夢は壊れてしまった。許せる? ようやく見つけた私の幸せをあいつは捨てたのよ。今、のんきにお酒を飲んでいる。あいつは生きてる価値なんかない。あいつはもう元通りにはならない。死んでくれたらいいのに。離婚するより世間体がいい。夫を亡くしても気丈に振舞う妻って思ってくれる。あいつはいても意味がないのよ。無駄なお金がかかるだけ。そうよ、死んじゃえばいい。死ね。

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