第13話 大好きなお母さん

 みんながぼくをいじめるのは悪いことじゃない。蚊が血を吸っていたら、叩いてぺしゃんこにする。やっちゃいけないことをしたって心は傷まないし、それどころか潰してやったと嬉しくなる。ぼくは蚊と同じだ。ぺしゃんこにされるのがぼくなんだ。

 朝起きて、学校に行く準備をしていると、むちゃくちゃお腹が痛くなることがある。なにかの生き物がぼくのお腹の肉を食べているんじゃないかと思うくらいすごいやつだ。汗がだらだら垂れる。遅刻はできないし、休めない。通学路がぐにゃぐにゃ曲がってぼくには見えた。

 岡本君たちはぼくのことを河合菌と呼ぶようになった。ぼくがそう呼ばれて近づくと、三人はわあって逃げていく。終わらない鬼ごっこだった。ぼくはへらへら笑った。

 三人はぼくを殴ったりするのもやめなかったし、荷物運びもやらせ続けた。その時はぼくに触ってもよくなった。岡本君は神様で、自分のいいようにいくらでもルールを書き換えられた。クラスのみんなはぼくが触ったものには近づかないようになった。休み時間になるとぼくの周りから人が消えた。ここ、臭いなって言われた。岡本君たちだけじゃなく、みんながぼくをナイフで刺した。どこにいても、誰かの目があって、それはぼくのことを嫌って避けようとして、そしてぼくを傷つけようとしていた。ぼくはトゲがびっしりつまったかごに閉じ込められ、体を動かせば、トゲがぼくに刺さった。ぼくは逃げようとはしないで、歌を歌った。「ぼくは最悪、みんな逃げて。ぼくは嫌われる。最低だからね。ぼくはだめな子。はははだめな子。くさいにおいをまきちらかして。みんなが嫌がる、ぼくのにおい。くさい、くさい、くさすぎる。ハハハだめな子。消えちゃえばいいのに」

 お母さんが帰ってくる時が一日で一番嬉しい時間だった。お皿を割った日から、毎日のように家を散らかしたり、点数の悪いテストをみせたりして、ぼくはこんだけダメな子なんだって教えてあげた。お母さんはとても楽しみにしていたから帰ってくるなり始めた。お母さんはぼくの悪いところを直してくれる。お母さんは嫌なことを忘れられる。こんなことになる前よりもぼくとお母さんはずっと強く結びあった。ぼくが望んだことだ。それでよかった。嬉しかった。最高だった。ぼくはお母さんとおんなじだった。

 

 お母さんとの絆ができてから、どうしてかぼくは村上さんに吸い込まれるようになっていた。授業中でもぼくは村上さんをちらちら見るようになった。村上さんはまじめに授業を聞いて、ぼくに見られていることなんか気がつかない。チャックがついているかわいらしい筆箱から緑色の鉛筆を取り出して、黒板をうつす。赤のボールペンとか蛍光ペンも使って、ノートに虹がかかる。ぼくは村上さんを見ていた。殴られながら、ぼくは村上さんを見ていた。

 今日、岡本君たちが放課後サッカーをするから荷物運びはしなくてもよくなって、ひとりで家に帰っていると、偶然家に帰る村上さんをみかけた。村上さんはくるぶしまで届きそうな白いロングスカートをはいていた。ぼくの体はカチコチになった。すごくドキドキした。ぼくは気づかれないよう音をたてずに、静かに歩いた。

 道のそばに生える木の葉っぱたちが風にのって体をゆらし、ふれあうことで音をだす。それにあわせて地面に映る太陽の光と葉っぱの黒い影が形をかえて模様を作った。生き物みたいにかわりつづける。その中に入ると、ぼくは画用紙になった。ぼくの体に模様が描かれる。すずしい風が心地よかった。

 ぼくは近づきすぎないように離れすぎないように歩いた。村上さんが信号に引っかかると、ぼくは止まって青になるまで待った。村上さんはちょこちょこと足を前に出す。クラスの女子みたいに大股じゃない。元気がなさそうに歩いていく。

 道と道とが交差する角で村上さんは右に曲がり、ぼくの前からいなくなった。ぼくの家はこのまままっすぐいったところにある。ぼくは村上さんが曲がった角まで早足になった。最後にもう一回見たかった。角について、壁のかげから村上さんをのぞいた。さっきよりも近い。胸の鼓動は大きくなり、ぼくはいつの間にか角を曲がっていた。

 村上さんが進むにつれて、はじめて見る家がふえていった。ここのあたりはあまり知らない。村上さんの靴が地面を踏む。もし見つかったらどうするんだ?  そうやって自分に聞いてみても、答えはでてこない。こんなことしちゃいけなかった。ぼくがこんなことしちゃいけない。わかってはいても強くなる気持ちを止められなかった。

 村上さんの近くにいるだけで、いろいろな気持ちを思い出せるから。お母さんの子守唄のこと。お父さんの肩車のこと。ぼくはひとつひとつもう忘れていたようなことをきちんと宝箱に入れた。 

 新しい、大きな一軒家が見えてきて、村上さんはそっちの方に歩いて行った。いよいよ、本当の終わりだった。ランドセルから鍵を取り出して、ドアを開けた。ぼくは電柱に隠れた。ドアが閉じて、村上さんはいなくなる。それから、少しして2階の窓の明かりが点いた。

 ぼくは電柱から離れなかった。村上さんの家の駐車場にはピカピカの車が停まって、そのよこには自転車が三台並んでいた。ひとつだけ赤い自転車があり、たぶん村上さんのだ。駐車場はきちんと整理してあってそれくらいしかものがなかった。表札には村上って漢字でかかれ、植木鉢に咲いた花がドアまでの道を作っていた。ランドセルを背負いここを毎日通るんだ。この家で村上さんは育ってきたんだ。小さい頃はどんなだったんだろう? 大人しいのは昔からなのかな。村上さんは家ではどんなことをしているんだろう? ぼくが知っているのは、村上さんはスポーツもやらず、勉強が得意で塾に通っているってことだけ。ぼくは村上さんのことが知りたかった。

「村上優子さん」

 ぼくはそれを三回唱えた。村上さんがそばにいるような気がした。ぼくと笑ってくれる。歌をうたう。いろんなおしゃべりをする。村上さんと。公園に遊びにいってブランコに乗る。どっちか遠くまでこげるか競争して、ぼくはわざと負けてあげる。すごいねって言って、疲れたぼくたちはベンチに座ってひとやすみする。冷たいお茶をのんで、汗をふく。それから恋愛の話をする。あいつとあの子仲がいいねって。ぼくは口が固いからたとえ村上さん相手でも、友達の好きな人はバラしたりしない。村上さんもバラさない。だから、みんなが知っているようなうわさばかりを話して、ぼくたちは誰も傷つけない。うわさがでつくすと、ぼくは言うんだ。「村上さんに好きな人はいるの?」勇気を出して聞いてみる。もしかすると、岡本君を止めた時よりも緊張するかもしれない。村上さんは恥ずかしがり屋だから答えなくて、かわりにぼくが答えるんだ。「ぼくはいるよ。村上さんが好き」村上さんはびっくりして、でも小さくうなずく。ふわっと笑顔になる。「私も、河合君が好き」そのあとは、そのあとは、真っ白になってわからない。


 こんなことは絶対に起こらない。想像の中でもほんとはだめだ。ぼくが村上さんにどろを投げつけているのとかわらない。

 部屋の明かりが消え、しばらくして、村上さんが家から出てきた。いきなりのことで、ぼくは固まってしまった。村上さんは自転車にのり、かごには塾のカバンをいれて、地面を蹴った。電柱はぼくの体を隠しきれない。そして自転車に乗った村上さんはぼくの方へ近づいてきて、もう10メートルもなかった。ぼくは体を丸めて、顔をかくした。村上さんはかわいらしい顔を暗くさせて自転車をこいでいた。

 ぼくは息を止め、祈った。

 ぼくの真横で自転車をこぐ音がする。

 村上さんはぼくのそばを通り過ぎていった。音が離れていく。ぼくが後ろをふりむくと、自転車をこぐ村上さんの姿が見えた。

 中島君の時とおんなじだと思った。ぼくから遠ざかっていく。

 ぼくの心にぽっかり穴があいた。それがなんなのかわからない。

 ぼくは立ち上がった。夕日が出ていた。まんまるだ。時間がぼくにかまうことなくすりぬけて、夜を呼び寄せていた。お母さんはもう家に帰ってるかもしれない。最後に村上さんの家を目に焼き付けた。家の線。黒い屋根。きれいな壁、ピンクのカーテン、そして村上さん。いつだってとりだせるように。ぼくは走った。

 お母さんが待っている。

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