第11話 正しくはいられない
幼稚園の時みんなが補助輪から卒業していくなかで、ぼくはいつまでもかっこわるい自転車だった。ぼくは運動神経がよくもないけど悪くもない。通知表はいつも3だ。それなのに、乗れなかったのは、お母さんのせいだ。自転車の練習につきあってくれるお母さんは、ぼくが転びそうになるとすぐに手を出して支えてきた。まだ漕いだつもりがないとこで止められて、ぼくはこけずにすんだかわりにうまくなる気配も全然なかった。
いつまでたっても乗れないから、ぼくはお父さんにお願いした。ぼくたちを見送るお母さんはなかなか家に入ろうとはしなかった。
お父さんはぼくがこけても、何回もやらせた。
「失敗がうまくなるこつなんだ。我慢してやれば絶対できる」
何度もこけた。ぼくは泣かなかった。お父さんがいてくれたから。
ぼくが自由に走れるようになった時、日は沈んでいた。
「よくやった」
お父さんはぼくをおんぶしてくれた。片手に補助輪の取れた練習で傷ついた自転車を持っていた。
「早く家に帰って自慢したいね」
「しっかり捕まれよ」
お父さんは駆け足になってくれた。ぼくは振り下ろされないよう必死に首に捕まった。自転車より早かった。ぐんぐんと家や木を置き去りにした。
家にお母さんはいなかった。ぼくはお母さんに電話しようとすると、お父さんはぼくを止めて、包帯と絆創膏をもってきた。たくさんのけががあった。かすり傷から深い擦り傷まで。全然痛くなかった。
「お母さんには内緒だな」
お父さんは一つづつ確認してばんそうこうをぼくの体にペタペタと貼っていった。慣れてないから、貼り直すこともあった。そのあとの包帯はさらに下手だった。強く巻きすぎて、血が止まった。
「きついよ」
「ごめん」
お母さんは帰ってくるなり気絶しそうだった。「こんなことになるなんて」傷ひとつなかったぼくが絆創膏と包帯だらけになってたんだから、内緒になんかできるわけなかった。お母さんはぼくの包帯を新しく巻きなおしながらお父さんに怒った。
「まさくんにこんな怪我させるなんて」
「でもぼくは自転車に乗れるようになったんだ」
お母さんははやがわりした。
「すごい。やったね。まさくんががんばってきたからできるようになったんだよ。えらいね」
「だけど」
お母さんはまた怒る。
「あなたはなにをみていたのよ」
ぼくが代わりに答える。
「お父さんがいてくれたから乗れるようになったんだ」
「そ、そう。よかったね。ずっと練習してたもんね」
またお父さんの方を向く。
「だけどそれにしてもこんなになるまでやらすなんて」
それからもお母さんはくるくるとよろこんでは怒った。ぼくは笑いそうになった。お父さんは黙ってお母さんの話しを聞いて、時々目で合図を送った。「男じゃなきゃわからないよな」。最後はお母さんも怒るのをやめてみんなで笑った。
あの頃のお母さんもお父さんもどこにもいない。
明日になったら元通りになる、そうやって自分に嘘をついて学校に行くけど、嘘は嘘にしかならなかった。最初の日から一週間がたったけど終わる気配なんか全然なかった。
ぼくのおかげでいじめから逃げることのできた吉田君は、ありがとうも言いにこない。あいかわらずなにを考えているかわからない。ぼくが止めてあげたんだ。吉田君は少しくらいぼくのためにがんばらないといけないんだ。ずるいよ。
吉田君を責めてもしょうがないのはぼくでもわかっていた。こんなことを思ってしまう自分が怖くなる。ほこりの積もったぼくの正しさ。払っても払ってもほこりは毎日降ってきて、ぼくは前よりももっと正しいってことから離れていった。そんなこと思っちゃいけないのに、勝手に頭の中で浮かんできちゃうんだ。
「みんなくずだ。吉田君は最悪だ」
消えろ、消えろって追い払っても、すくすく新しいのがうまえてきちゃう。
くずなのも最悪なのもぼくなんだ。
中島君が友達とあっちむいてほいで遊んでいる近くでぼくは岡本君に殴られたことがあった。中島君がじゃんけんに負けて左を向く。ぼくと目があう。「また負けたー。もっかいやろうぜ」中島君はじゃんけんに戻っていった。
なにがぼくを動かしているのか、朝がきてぼくは学校に行く。一歩歩くにもとても疲れた。いつまでたっても全然学校に近づかなくて、道が邪魔をしてぼくと反対に動いているんじゃないかって思った。
ようやく学校に着いても昨日と同じようにいじめは続き、でもなんだかぼくは鈍くなったような気はする。昨日までなら切られてすぐ血がふきだしていたんだけどそれが傷だけですむようになった感じ。切られているなと思って、そこで止まる。体の中に残る血はねばねばとねっとりして、のそのそと亀のように進んでいく。しゅうしゅうと毒を吐きながら、髪の毛の先まで、その毒は回る。体がだるくて、重かった。早く学校が終わってほしくて、家には帰りたくなかった。ぼくの居場所はどこにもなかった。
昼休みがきて、教室に残る給食のカレーのにおいが、ぼくたちの鼻をくすぐった。もうお腹はいっぱいで少し気持ち悪くなった。ぼくの体重は最近減っている。
川上さんたちは今日も給食の取り合いをやっていた。ぼく以外の三人で。ぼくは食べる機械で、一言も話さなかった。三人の机は握手するみたいに、ぴっしりひっつきあっていて、ぼくの机はくっつかずに数センチ距離が空く。それは決して埋まらない溝で、ロケットを飛ばしても、向こう側には辿りつけない。
外は気持ちのいいくらいに晴れていた。給食が終わり、ぼくのところに三人が近づいてきた。なにかをたくらんでいるのは、その顔が優しく教えてくれた。まだ教室にはいっぱいの人が残っている。
ぼくにむかって歩く途中で、森君が急に立ち止った。それから大げさに深呼吸をして、あわてて自分の鼻をつまんだ。
「うわ、なんかこのへん臭くね」
「ほんとだ、くさい」
井上君も真似して鼻をつまむ。最後に岡本君も鼻をつまむ。
「どっからにおうんだ?」
森君がぼくの周りにいる人のにおいを嗅いでいく。一人二人三人と。どんどんぼくとの距離が縮まり、まだ席に残る5班の人たちもターゲットになっていた。森君は、まずぼくの斜め後ろの席の今井さんを選んだ。
「今井さんからだ」
「私じゃないよ。毎日お風呂入ってるし。におわないよね?」
今井さんは泣きそうな顔で、まわりの子に助けを求めるけど、みんなうんともすんともいわない。森君がクンクンとかぐ。
「うん、違う」
森君の判定に今井さんはほっとした。次は川上さんで、椅子に座る川上さんは堂々としているように見えて、さっきから自分の服のにおいをかいでいるのをぼくは知っていた。
「大丈夫だ。大食い女王でもない」
ここで、どうやら坂本君は謎を解いたようだ。怯えた目から、力を持つ目に移りかわった。自分が怖がっていたことを、もう忘れてしまったらしかった。
その答えをぼくはとっくに知っていた。
やられる側とやる側と。やられる側の気持ちをわかっていても、自分がそうじゃなくなったら、喜んで人をそっちにけとばす。そして、あがってこれないように、その顔をふみつける。
「朝から俺の隣りが臭くて、やばかったんだよ。たぶんこいつだぜ」
坂本君が指をさす。ピンとまっすぐ迷いがない。その先にはぼくがいる。坂本君はもう一方の手で鼻をつまんで、岡本君たちに訴える。
「給食の時なんか最悪だった。ほんとこいつのせいで、嫌な思いばっかり」
「まじかよ。試してみる」
森君がぼくの服のにおいをかぐ。豚のように、鼻をひろげ、犬のように鼻をヒクヒクと動かして。
「オエッ」
ぼくからパッと飛びたち、森君はお腹を押さえ、腰を曲げ、吐く真似をする。
「オエッ、オエッ」
「おい、大丈夫か」
岡本君が森君の背中をさすってあげる。
「やばい、うんこだ。うんこのにおいがする」
「うえっ、嘘だろ。井上もいってみろよ」
井上君がぼくのにおいをかいで、同じように吐く真似をする。
臭くない、臭くない、ぼくはそんなにおいはしない。心の中で、何度も自分に言い聞かせる。ぼくは自分のにおいをかいでみる。大丈夫、においはしない。本当に? もう一回かいでみる。大丈夫? なんか臭いような。もう一回嗅いでみる。
「やばい臭い」
「臭すぎる、臭い」
森君と井上君のくさいの大合唱。
「うんこが自分のにおいかいでやがる」
岡本君が大笑い。
におわない、大丈夫、におわないんだ。ぼくはうんこなんかじゃない。違う。大丈夫。
「ね、わかるでしょ。隣りにいる俺の辛さが」
「臭すぎ」
くさいの一言がぼくの心に突き刺さる。はじけてしまいそうなぼくの心。すごく弱くなって、すりつぶされていくぼく。心が弱る。ぼくの心の守りは消えていく。心の番人さんは力尽きて死んでいく。むきだしのぼくの心。悲しすぎて、痛すぎて。ぼくは、ぼくは。触っただけで傷つくのに、そこにハンマーが降ってくる。やわらかくて、ぼくの心はクチャっと潰れる。果汁が飛び出す。
「俺もう限界だったんだ」
坂本君は岡本君たちの味方だ。
「ああ、大変だったな」
なぐさめの言葉を口にして、岡本君は坂本君を蹴った。いきなりだった。ぼくもびっくりしたけどそれ以上に坂本君はびっくりして、勢いのままにぼくにぶつかってきた。
「えっ、あれ」
坂本君はわけもわからないといった感じで、ぼくからはなれようともしない。坂本君は汗臭かった。すっぱいようなにおいがして、ぼくは思わず顔をそむけた。
教室のみんなはやる側だった坂本君が転落したことで、静かになった。そわそわと教室から逃げていく子が二、三人。ゴキブリよりも逃げ足が速くて、危険を見つけるのがうまく、たぶんこういう子はゴキブリ以上にしぶといはずだ。
坂本君はぼくを押して、飛び起きた。
「ごめん、ほんとごめん。調子のってた、ごめん」
「おい、こいつも臭くね? 森、たしかめろ」
森君は坂本君の体に鼻を近づけ、ぼくにふれていた場所を調べる。坂本君は白い顔で、岡本君に訴えかけていたけど、そんなのは無視された。やる側からやられる側におっこちた坂本君。
ぼくはすごく気持ちがよかった。久しぶりだ。前がいつかなんか忘れてしまった。
「やばいよ、こいつも臭い」
「まじかよ、ここ臭い奴ばっかりじゃん」
「おえっ 」
坂本君は泣きそうな顔で、ぼくはすごく嬉しかった。抑えていないとぼくは手をあげてよろこんでしまいそうだった。もっとぼくと同じ気持ちを味わえ。最低な坂本君。もっともっと坂本君をいじめてほしかった。これじゃあまだ足りない。二度とぼくをばかにできないくらい、やっつけてほしかった。正しい人はいなくて、正義のヒーローは一番の悪者だ。
「ごめん」
もっとだよ。殴られればいい。蹴られればいい。悪口をいわれればいい。まだまだ足りないんだ。ぼくは坂本君にいじめられてほしいんだ。
思いやりとやさしさ。いつからあるのかわからない、黒板の上に貼ってあるスローガン。紙はへなっとして、白い紙には日焼けしたように薄い色がつく。
始まるのもいきなりで、終わるのもいきなりだった。
「大丈夫だ。待ってろ」
岡本君は首を振った。
「あっ、え」
「森、とってやれよ」
森君がそうじをするように坂本君の体をきれいにふきとってあげる。ぼくとふれた場所を。森君は右手だけを使い慎重にした。汚れは落ちていく。それは森君の腕に集まる。坂本君はきれいになって、ぼくはうんこのまま。
「これでお前はくさくなくなった」
どうして、これだけなの? ずるかった。どうしてぼくだけが。ぼくが坂本君をひきずりおろしてやりたかった。
「ありがとう、ありがとう」
「どうしよう。河合菌が俺の手についたままだ」
「まかせろ」
岡本君が森君のうしろにまわって、右手を掴み、あやつった。ぼくの菌がつかないように注意して。その手はどこに行こうか迷っているみたいにさまよって、行き先は今井さんに決まった。今井さんにべっとりとぼくの菌がとりつく。
「きゃあっ」
今井さんは大慌てで、ぼくの菌を取り除いた。ゴシゴシとこすって、どんなに汚いものよりも、さらに気持ち悪いというように。今すぐにとってしまわないと、死んでしまうというように怯えて。だけど、そんなことでは消えなくて、それは今井さんの手にこびりつく。
「誰かにわたせよ」
今井さんはパニックになっていて、それを隣りに座る川口さんに渡した。
「いや」
川上さんは信じられないといった感じで、急いでぼくの菌をすくいとった。そして、それをまた近くの子に渡した。その子もまた次の子に渡す。それからみんな走って逃げるようになって、ぼくの菌をもつ子はみんなからきらわれた。岡本君たちは動かずにそんなみんなをみて楽しんでいた。ぼくの菌は教室中をかけめぐって、たくさんの子の体にとりついて、より汚くなって、みんなから避けられた。
ぼくの周りで、ぐるぐるとぼくの菌がまわっていき、それをぼくは見ていた。特等席で、ぼくは見ていた。ぼくが避けられる様子を、ぼくが嫌われる様子を。ぼくが消えていくのをぼくは見ていた。こんなにも傷ついて、まだぼくの心は傷ついた。全部がぼくを否定して、味方は誰もいなかった。
ぼくの心ははじけとんだ。胸に手をやってもおさえられない。
「かあっ、ああ」
洞窟のむこう側からっそれはやってきた。ぼくの声。ふりしぼった声。こぼれおちた声。声とは思えない声。
「あっああ」
痛くて、重かった。
早く終わって。
「あっああ」
涙があふれた。洪水だった。つばが口からたれた。ダラダラと流れた。涙につかっていた。そこには痛みしかなかった。我慢なんかできない。
みんなやめてよ。ぼくもみんなと同じなんだよ。
ぼやけて見える。まぶたが重い。
はっきりしているのはみんなの声。どうしても聞こえてきた。
「逃げろ」
「うわっはやく」
「やめて」
「やばい、おもしれえ。みんな逃げろ、逃げろ。河合菌がつくぜ」
「いいぞ、もっとやれ」
「あいつ足遅いし、つかまらない」
「おっそっ」
「待ってよ、俺は菌もってないから」
「嘘つくなよ」
「ほんとだって、ほらやまちゃんがもってるよ」
「邪魔だって」
「逃げないで。はあ、はあ、はあ」
「こっちにこないでよ。女子を狙うなんて、最低」
「ごめん」
「最悪」
「夏鈴ちゃん、やめて」
「ひどい」
「まってよ、私、走れないから」
「しょうがないでしょ」
「逃げないで。だめなの、足を怪我してるから」
「そんなの気にしてられない」
「待って、待って」
これが最後のように涙は止まることなかった。みんなの声がぼくの傷になった。
だめだ。助けて、お母さん、お父さん。
ふたりの顔を思い出そうとした。だけどうまくいかなかった。涙で頭の中もぼやけた。思い出にもぼくは見捨てられた。
「かわいそうだろ、やめろよ」
それは岡本君だった。
「ちょっとどけよ」
「う、うん」
クラスの子をかきわけていく。
「よしっ、もう大丈夫だ。ほら、俺がとってやるから。足怪我してるのにな。これでいいや。あとはこいつを洗えばいい。河合菌も石鹸には勝てないよな」
「ありがとう」
「よしっ。足早く治るといいな。それじゃあ、洗ってくる。弱いものいじめはだめだぜ」
泣いても泣いても、おさまらない。痛いんだ。胸の中が。ぼくはどうすればいいの?ぼくはもうだめだ。
「いつまでないてるんだよ」
ぼくもわからない。時間はなくなっていた。涙の泉はかれない。痛すぎて。
「こっちみろよ」
にじんだ岡本君たちがいた。教室に残るみんながいた。誰もぼくのところにはきてくれず、遠くから、観察するだけだ。
「なあ、お前のこともかわいそうになってきたよ。そんなに泣くなんてさ。俺もわからなかった」
声はやわらかくて、ぼくをそっと掴んでくれた。さっきまで臭いって連発した声と同じだとは思えなかった。ぼくは目をゴシゴシこすった。涙はすぐにこぼれてくる。それでもはっきり見える岡本君の顔からはトゲがなくなり、目は柔らかくなっていた。
「吉田のことは許してやってもいいぜ」
ぼくは聞き間違えたのかと思った。森君と井上君も信じられないといった顔をしていた。
「え、でも」
井上君が言った。
「いいんだよ、もう。俺が決めたことだ」
井上君はしゅんとした。
「嘘じゃないぜ、河合。嘘だったらお前のいうことなんでも聞くよ。約束だぜ。だからもう泣くなよ」
岡本君は本気だった。
「落ち着けよな、大丈夫だから」
これは奇跡かな。胸の痛みがやわらいでいく。内側があったかくなって、体中にしみわたる。からからのぼくに優しさが降ってくる。
「許してやる。だから、もう泣くな」
ぼくに必要だったこと。ずっと、ずっと夢見たこと。望んでしまっていたこと。それがぼくのそばに。疑うことなんかできないくらい、ぼくには必要だった。
「もう泣かない」
泣きながらぼくは言った。
外は晴れていた。光りの粒が教室にはじけて、ぶつかりあって、ひろがった。チョークの粉が踊っていた。きれいだった。
それから岡本君は自信満々に宣言した。腕を組み、判決を告げた。
「だけど条件がある。もとはといえばお前が悪いんだからな」
「それは、なに?」
ぼくは聞いた。ひらひらと飛ぶ蝶のような軽さで。
「謝れよ。間違ったことをしましたって。かっこいいところを見せたかったのかもしれないけど、お前は俺を傷つけたんだ」
神様はたんたんとおっしゃった。そこには怒りもなく優しさもなかった。
「謝れば、全部ゆるしてやるよ。こんなチャンスはもうないぜ。俺も自分に驚いているくらいだ。今しかないぜ」
そうだった。ぼくだ。ぼくなんだよ。なんにもなしで優しくされるわけないだろ。お前はみんなから見捨てられているんだ。これでもぼくは喜ぶべきなんだよ。
もしゆるしてもらえたら、ぼくは中島君ともう一度ゲームができる。友達と一緒にドッジボールができる。大食い女王と給食をかけた戦いができる。無視をされることもなく、ありふれた、でもきらきらとした毎日に戻ることができる。ぼくにはわかる。その大切な毎日がぼくにはすごく大切だったんだ。
あやまろうよ。最低でもいい。吉田君なんかほっとけよ。あいつなんかいじめられたらいいんだ。ぼくが助けてあげたんだ。ぼくが元通りにしてなにが悪い。恩人にたいしてありがとうも言ってこない。やられているぼくを助けようともしない。ぼくを無視して離れていった吉田君。
ひとりのぼくに岡本君が、吉田君のことを呼ぶ時に使う言葉が聞こえた。「ガイジ」
その言葉が頭の中で繰り返された。
ガイジ、ガイジ。ガイジ、ガイジ、ガイジ、ガイジ、ガイジ、ガイジ、ガイジ、ガイジ、ガイジ、ガイジ、ガイジ、ガイジ、ガイジ、ガイジ。
そんなことはだめだった。なくしてしまわないとだめだった。
いじめられろ、ガイジ。お前はおかしいんだ。お前なんかのせいでぼくは。お前がいじめられば全てうまくいくんだ。
頭のおかしなガイジ。誰のおかげでいじめがとまったと思っているんだ? あいつは恩人を裏切るような最低な奴だ。あんな奴どんな目にあっても自業自得なんだ。そうだ、全部あいつが悪いんだ。
その時、一番聞きたくない声がよみがえった。
正しい人になってほしいって意味が込められているのよ
お母さんの声。前のお母さんの声。こんな時にでてくるなんて卑怯だよ。ぼくがひとりの時にはほっとくくせに。ぼくはそれを呪いのように思った。
どうして、ぼくは正しいことをしなくちゃいけないの?
そんなことをしてもどこにもつながらないんだよ。たんねんに水をやっても花はつかないし、芽もでない。いくら願ったところで、その願いはかなわない。ぼくは二人にとっての自慢の子供にはなれない。それでもぼくは正しいことをしなくちゃいけないの?
なんにもならないのに、どうしてぼくだけが?
正しいこと、間違っていること。両方がつなひきみたいにぼくを引っ張って、ぼくはまっぷたつにちぎれてしまいそうになる。両方が精一杯力を込めて引っ張り合う。お互いに相手を憎み、相手を消し去ることを目的にした。ぼくはどっちが勝つのかわからなかった。
まどから吹く風が髪をなでた。
お母さん、お父さん、吉田君、岡本君。思い浮かんで、また消える。
そして、決着はついた。ぼくは思いを言葉にかえた。
「ごめん」
あの日のことはなかったことにして。
「ぼくが間違ってた。岡本君を傷つけるつもりなんかなかったんだ。岡本君が悪いことをしているなんて思ってないよ。ぼくが目立ちたかっただけなんだ。吉田君だって他に友達いないし、岡本君と一緒にいるほうがさびしくなくていいのにね。いらないことをしてごめん」
もうぼくは泣いていなかった。かわりに笑った。笑いたくてしょうがなかった。これでぼくの番は終わりだよ。次はガイジの番だ。お前が悪いんだよ。暗くてねばっこくてどろどろとした笑いだった。
「わかった」
岡本君は深くうなずいた。深く、深くうなずいた。
「ゆるしてやるよ」
やった。喜びが全身をかけ巡った。体のすみずみ、髪の毛の先にまでそれは伝わった。やった。やった。ぼくは助かった。これでいじめはなくなる。簡単なことだったんだ。こんなことならはじめからあやまっとけばよかった。
ぼくは最高に嬉しかった。神社でするように、膝をついて岡本君を崇めたかった。
ぼくは今できる唯一のことをした。
「ありがとう、本当にありがとう」
こんなに心のこもったありがとうは初めてな気がした。
岡本君は二度うなずいて、ぼくを見つめた。
そして、岡本君はかわった。顔がぐにゃぐにゃに、ぐちゃぐちゃに、渦を描くように、目、口、鼻といったパーツが、顔の中心に引き寄せられて、そして混ざり合った。それからまた反対に回りだして、顔は元に戻った。同じ場所に同じものがあるのに、さっきまでとは一変していた。それは冷たく燃え歪んでいた。岡本君は目を閉じた。今をすっかり味わい尽くそうとするように。岡本君の周りの空気が揺れて、暗く腐っていった。
「ああ、ゆるしてやる、ゆるしてやるよ」
大人のように低い声で、幼稚園児のようなきらきらとした表情で。なんだかわからないけど自分の足元がくずれるような不安があった。
「あ、ありがとう」
岡本君は真顔になった。それからなんでもないというふうに言った。
「死ね」
「えっ」
「聞こえなかったか。死ね、死ね、死ね」
頭が真っ白になった。
「謝ったらゆるしてくれるって」
信じていたものが嘘だったあのあせりがぼくを追いかけた。
「そうだ、ゆるしてやったぜ。俺は嘘はついていない」
「そ、それなら」
岡本君の声がぼくの言葉を切った。
「お前、なに勘違いしてるんだ? 俺は一言もいじめをやめるなんていってないぜ。吉田のことについてゆるしてやるって、それだけだぜ。それで俺はゆるしてやった。もう俺は怒ってないからな。ちゃんと約束は守った。なにも嘘はついていない」
岡本君がにんまりと笑った。岡本君が一回り大きくなったように感じた。
「もう、お前に怒ってないけど、お前をいじめるのは楽しいし、おもちゃを手放すわけないじゃん。これからもお前をいじめてやるよ」
「そんな」
力が抜けてぼくは倒れてしまいそうだった。
こんなことがあっていいの?
ぼくはわからなかった。ぼくの信じてきたものが、全部間違いだったように感じた。これまで信じていたことを岡本君が無理やりこじ開けて、そこに新しく嘘と悪意を投げ込んだ。それは中で爆発して、そこにあったものを吹き飛ばした。きゃははと笑いながら。
いじめは終わらない。終わってくれない。そこではぼくの気持ちは関係がない。やるかやらないかそれは向こうが握っているんだ。
あとの二人は納得した表情で、森君は岡本君を尊敬する目で見ていた。井上君は一歩後ろに下がった。岡本君は満足げで今この瞬間を味わうように目を閉じた。大仕事をやり遂げた神様みたいだった。少しして目を静かにあけた。
「お前最低だしな。前はかっこつけて、今日はごめんだ。お前みたいなのを偽善者って呼ぶんだぜ。お前のように簡単にプライドをすてる奴が俺は大嫌いだ。ちょっとやられたくらいで、かえるなんてお前は卑怯だ。これからもたっぷりいじめてやる」
岡本君の言うとおりだ。自分のためなら平気で人を裏切る最低な奴だ。大切な約束も自分のためならなかったことにする、そんなくずだ。ごめんなさい、ぼくはこんなので。ぼくはこんなのにしかなれないんだ。ぼくはみんなにあやまりたかった。お母さん、お父さん、吉田君、岡本君たちにも。すれ違う人全員にもおあやまりたかった。ごめんなさい、ごめんなさい。こんなんだから、二人がぼくを一番にしなかったのもわかる。ぼくは悪い子だ。全部ぼくが悪いんだ。
お昼休みが終わってからもぼくはいじめられた。でも、よかった。ぼくはいじめられて当然のやつなんだから。
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