第10話 お母さんとグリーンピース
コンビニの袋が靴箱の上に置いてある。一本の花も入れられていない花瓶がその空いた口を天井にむけている。大きく口をひらけた鯨のように、花を待ち望んでほえていた。
最後に飾ってあったのはあの日、一部始終を見ていたバラだ。バラはあの日で、百歳も年を取ったみたいに元気をなくししぼんで枯れた。かさかさになった花びらをぼくは握りつぶした。なにもかもぼくを置いていくんだ。
お母さんは「ただいま」も言わずだるそうに靴を脱いだ。底がぺったんこの運動靴。色が落ちて安っぽかった。これまで高価なものを身にまとっていたお母さんはきっとこんな靴を履いて外に出るのは恥ずかしいけど、節約のため我慢してる。
お母さんの顔は皮膚がだらんと垂れ下がり老けて見える。この一年で目尻に数本のしわができた。髪の毛にきらりと光る白髪がある。優しい顔つきだったのが、全体がたるんでどんよりした印象へとかわった。
「それ、どうしたの?」
お母さんは包帯でぐるぐる巻きになったぼくの膝を指差して言った。
「転んでけがしちゃった」
ぼくはごまかした。いじめられたなんて言えない。
「5年生にもなってなにしてるの。もっとちゃんとしなさい。そうじゃなくても、あいつがあんなんだから、まさくんはしっかりしないとだめなのよ。もうイライラする」
「ごめんね」
「これ持って行って」
コンビニの袋を渡された。中にグリーンピースのサラダがあった。
そうだね、お母さん。お母さんもぼくを沈めようとするんだね。
「わかった」
歩くと膝の痛みが強くなる。
「早くしなさい」
ぼくが膝をかばって歩いているのに、お母さんはそう命令した。ぼくは精一杯走った。足のもげた虫のように。
ぼくは電子レンジに焼き鮭の弁当を入れて温めをする。その間にテーブルのお酒の缶とおつまみをどけて、真ん中にグリーンピースのサラダを置いた。
「コップもはやく」
お母さんはもうテーブルに座っていて、テレビを見ていた。ぼくはコップに水をいれて、あたため終わったお弁当と一緒にお母さんに渡した。お母さんは黙って食べはじめた。温め終わったから揚げ弁当と一緒にぼくもテーブルについた。グリーンピースがピカピカ光っている。
「サラダも食べなさいよ。まさくんのために買ってあげたんだから。まさくんの年ではバランスのいい食事がとても大切なのよ」
コンビニ弁当のからあげはあぶらでぎとぎとで、どけるとその下のプラスチックの容器がてかてかしていて、みるからに健康に悪そうだった。
「残すのはだめよ。サラダは高いんだから。お母さんが必死に働いたお金で買ったのよ。まさくんは友達と遊んで時々勉強しての楽な毎日だから想像できないと思うけど、仕事は厳しいのよ。毎日どんな思いで働いてるか。しんどくて、やめたいとしか思わない。少しでいいからまさくんにもわかってほしいな。まさくんが楽しい学校生活の裏で私はこんな過酷な目にあっているのよ」
お母さん、楽しい学校生活なんかないんだよ。
「いつもありがとう、お母さん」
お母さんは大きくため息をついた。
「なにその適当な返事は? やっぱりわからないのね。期待した私が馬鹿だった。もし仕事をやめたらどうなるかわかってる? この家はおわりなのよ。私のおかげでぎりぎりもっているのよ。それだけ大変な状況なの」
「うん」
「働けなんかいわない。だけど、まさくんも協力しなくちゃだめなのよ。脳天気に友達とばかり遊んでちゃだめなのよ」
「うん」
「今日だってお客にクレームをいわれて、しかられて。散々な一日だった」
「うん」
「自分が客だからって偉そうに。ああいう人は実生活じゃ知り合いもいない寂しい人なのよ」
「うん」
「だから弱い人間にあたるしかないの。最低ね。ああいうのにはなりたくない」
「うん」
「フロアマネージャーもなにあれ? あんなんだから結婚できないのよ。私が結婚してるから嫉妬しているのよ」
「うん」
「嫌味しかいえないかわいそうな人」
「うん」
「毎日、毎日神経をすり切らして働いているの。あいつがなにもしないせいで」
「うん」
「悪いことは私ばっかりに起きる。私の運命はそう決まっているの。昔からそうだった。みんなが上手にやっていくのに、私だけができなかった。私は生まれた時から負け犬だったの。綺麗な子、美人な子、かわいい子。私はいつも負けていた。勉強だってできなかった。運動だってできなかった。みんなが私の前を歩いていて、いつまでたっても私は追いつけない」
お母さんのスイッチが押された。それをぼくは過去スイッチって呼んでいる。これがあるからお母さんはグラグラになるんだ。お母さんはずっと傷ついてきた。その傷はすごく深くて、大人になった今でも治らずに残っている。あの日までは、薄くてやわらかい家族というかさぶたがその傷をおおって、時々傷が顔を出すことはあっても、その時はお父さんがいた。お父さんが傷に手をあてて、収まるまで新しいかさぶたになった。お母さんはお母さんでいられたんだ。
そのかさぶたはビリビリとひきはがされた。今はじゅくじゅくと傷があって、ガードもなしにいろんなものがそこめがけて飛んできた。お母さんの弱い部分はふみつけられて、こわされた。
「それがやっと、やっと。なのにどうして。どうして私なのよ」
お母さんはどうにもならないことに、怒りをぶつけていた。どうにもならないから、どうにもならないことなんだ。怒っても怒っても心が晴れることはなくて、だけど怒らないと気がすまなくて。あの日から迷ってばかりのお母さんはいなくなり、怒りがお母さん自身になった。
お母さんがコップを握る。そして、そのコップを壁に叩きつけた。
「どうしていつもいつも私なのよ」
壁に水の花が咲いた。
「お母さん」
全速力で走ったみたいにお母さんの息が荒い。目は赤く充血している。
しょうがない。お母さんはひとりでがんばっているんだから。お母さんのせいじゃないよ。ぼくはわかってるから。ぼくはお母さんの味方だから。だけど、終わりはくるのかな。ハッピーエンドはどこにあるんだろう? 期待しても無駄なのかな。
お母さんはぐるっとあたりを見渡して、怒りをぶつけるものを探した。それでグリーンピースのサラダに気づいた。息がゆっくりになる。赤い目でうっとりとグリーンピースを見ている。お母さんにとったら緑色の真珠なんだろう。
そうだね、今度はぼくの番だね。だけど、今日はやめてよ。明日だったら何個でも食べられるから。グリーンピースの山盛りだってお母さんの好きなだけ食べられるから。今日だけは。
「まさくん、なにしてるの? はやくサラダ食べなさい」
他のたくさんのお願い事と同じようにぼくの願いはかなわなかった。
ぼくはグリーンピースが嫌いで、絶対に食べられなくて、お母さんもわかってくれた。
許してもらえなくなったのは、お母さんが働きだしてからだ。お母さんはグリーンピースのサラダを買ってくるようになった。お母さんが言った。「好き嫌いしたらだめでしょ。食べたくても食べられない人もいるのよ。わかったらさっさと食べなさい」
お母さんの言うことは正しいことだからぼくは言い返せなかった。でも心の中でお母さんに聞いた。これまでは食べなくてもよったのになんで? 答えはすぐにわかった。
「ほら、はやく」
「うん」
グリーンピースをひとつつまんで、思い切って口のなかにいれた。噛むとプチっとはじけて、生臭いにおいが口いっぱいにひろがった。いつまでも消えることなく、ぼくは気持ち悪くなった。続けてぼくはグリーンピースがなくなるまでひたすら口の中に放り込んだ。すぐに終わらす方がいい。噛んで潰されたグリーンピース達はくっつきあって、グリーンピースのパン生地がこねられる。口の中はどこまでもグリーンピースの味がした。目に見えるグリーンピースがなくなるとぼくは一枚一枚レタスをめくり、ダンゴムシみたいに隠れていたグリーンピースを見つけては食べた。パン生地はふくらんだ。それを噛むたび臭いがでて、ぼくはぞわっとした。出口がなくてどこにも逃げられない。今すぐ吐き出したいって気持ちを我慢してぼくはパン生地を噛んだ。いつまでたってもなくならない。
お母さんは満面の笑みでぼくを見ていた。ぼくが嫌な目にあっているのを見て、疲れが洗い流されて、明るくなっていった。ああ、お母さんが喜んでくれている。お母さんは元気になれる。ぼくのおかげだ。ぼくはお母さんの役に立った。お母さん、これでぼくのことを大切にしてくれるかな? ぼくを見ていてくれるかな? ぼくのことを考えてくれるかな?前みたいにぼくに優しくしてくれるかな? ぼくを好きになってくれるかな? お母さんを幸せにできるのはぼくだけなんだ。
だけど、今日だけはだめだったのに。
最後のグリーンピースのかたまりをのみこんだ。ぼくは緑色の息をはいた。
お母さんは満足だ。
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