第9話 終わらない痛み

 帰り道にぼくは岡本君たちの荷物持ちをさせられた。ぼくは両脇に森君と井上君のリュックを挟んだ。重装備したロボットみたいだ。岡本君のリュックは軽く、よく見ると色が落ちて、糸がほつれているとこもあった。

 前を歩く三人に追いつけず、距離があく。離れすぎると「早くしろ」って命令がとんだ。ぼくは殴られる怖さから、走って追いかけた。たった一日なのに、もうぼくは恐怖に支配されていた。いつやられるのかと、それだけが頭をめぐって、落ち着くことができない。もうへとへとに疲れていた。知らないおばちゃんとすれ違う時は、岡本君がぼくに向かって「次の角でじゃんけんな」と言い、怪しまれないようにした。岡本君は絶対怒られないように頭を使ういじめの天才だった。

「まじ、なんで宿題なんかあるんだ? 意味わかんない。俺らをいじめて楽しいのか、遠藤め。俺たち子供だぞ。遊ぶことが仕事っていうじゃん。仕事する暇なくなるよ」

「お前、頭悪いしなあ」

「岡本君はかしこいからいいよ。塾も行ってないのに、そんだけできるんだから羨ましいよ。俺なんか塾の宿題もあるしなあ」

「うっせえ」

 なにかが岡本君のスイッチを押し、岡本君は苛立った。

「お前はチビなだけあって脳味噌もちっちゃいからな」

 岡本君が森君の頭を掴んで左右に揺らした。

 そういえば、本人のまえじゃ、口が裂けても言えないけど、岡本君の家は貧乏だって聞いたことがある。岡本君は塾に通ってないんじゃなくて、通えないのかもしれない。

「痛い、痛い」

 嘘っぽく叫んでいるけど、緊張感が伝わってきた。

「痛い、痛い、あ、いつものバスケやろうよ。河合にかわったし」

 矛先をぼくに向けようとする。ぼくは岡本君がその気にならないように祈った。

「やろうぜ」

 井上君がのっかる。岡本君が手を離した。次はぼくの番だ。

 三人が振り返った。それからぼくを取り囲んだ。二人がニヤニヤしていて、森君はぼくを睨んでいた。胃の辺りがきゅっとつままれたように痛くなった。あたりには人がいなくて、やりたい放題だ。

 岡本君が力を込めてぼくを押した。重い荷物のせいでバランスが取れずよっぱらいみたいにふらふらと動いた。その先には井上君がいてぼくを押し返した。そのパスを受けた森君はちっちゃい体を使い、全体重をかけてぼくを押した。

「クソ野郎」

「死ね」

 岡本君が今度はぼくを蹴って森君にパスをした。

「こける、やめて」

 今日、はじめてお願いした。逆らったらひどい目に遭うってわかってたから、なにも言えなかった。だけど下は硬いアスファルトで、ぼくは重い荷物を背負っている。こけたらどうなるか、1年生でも想像できる。

「黙れ、お前はボールだ。しゃべるな」

 井上君がぼくを押し返す。心の底からのお願いは通じなかった。

「俺のリュック傷つけたら殺すぞ」

 岡本君がぼくを両手ではね返す。ぼくが傷ついてもいいんだ。

ぼくはメリーゴーランドのように三人の間をたらい回しにされ続けた。顔がパッと現れては消えた。足が棒みたいになって、いつ転んでもおかしくなかった。逃げ場もなく、ぼくは閉じ込められていた。そのうち自分はボールなんだと思うようになった。人ではなくなって、これが自然なんだ。押す力が弱いと、棒になった足でわざと勢いをつけた。三人が望むとおりにぼくは動いた。延々と繰り返されるパスによって、ぼくは人じゃなくなっていった。

「終わりだ」

 岡本君はそう言って、ぼくをかわした。突然のことで、ぼくはそのまま転びそうになったけど、リュックを汚したらだめだと思い、ぎりぎり踏みとどまった。

「俺のリュック返せ」

 岡本君がぼくからリュックをもぎ取った。

「やっぱバスケはおもしろいな」

 井上君がはあはあと息を吐いた。背が低くて一番大変だった森君は汗をかいていた。ぼくの足はぷるぷると震えた。立っているのがやっとだった。

「今だ」

 岡本君が背中からぼくを押して、黒いアスファルトの地面が、スローモーションのようにゆっくりと近づいた。死の間際にこれまでの一生が頭に浮かぶって言うけど、ぼくはこの時、お父さんとお母さんと三人で撮った一枚の写真が思い浮かんだ。お父さんの顔が切り抜かれる前に、部屋に隠した家族写真。はじめて写真屋さんで撮った写真。

「家族写真撮りにいこうよ」

 写真に映るぼくはニコッと笑顔で、お母さんは照れて少し目を伏せているけど、幸せそうだ。お父さんはなにも特別じゃないって感じで、いつもと変わらない。無理に笑わず、威張っている感じもなく、普通だ。辛い時にはこの写真を見る。確かにあった家族の形を思い出す。

 ぼくは地面に激突した。手の感覚がなかった。こすれたひざは燃えるように熱かった。とんでもなく痛かった。

「ううっ」

「やっば」

 岡本君が大爆笑だ。終わりなんかないみたいに笑い続けた。ぼくは痛くて、痛くてたまらないのに、岡本君は笑っていられた。ぼくは信じられなかった。ぼくはこんな狂っている人に喧嘩を売ってしまったんだ。

森君と井上君は無言だった。岡本君の止まることのない笑い声だけが、ぼくたちの間で響いた。

 動かずにぼくは耐えた。歯を食いしばって、目をぎゅっとつぶった。痛みから離れるために楽しいことを考えた。お母さんが作ったハンバーグを思い出した。家族で行ったプールを思い出した。流れるプールに押し流されるぼくをお父さんのがっちりした手が支えてくれた。雨のあとの虹を思い浮かべた。ぼくに降る冷たい雨は止む時がくるのかな。そのあとにはくっきりと輝く七色の虹がかかるのかな。ぼくはそれを望んでもいいのかな。どれだけ楽しいことを想像しても、そこにズキズキとした痛みが紛れ込んだ。

「あー、やばい」

 ぼくは目を開け、起き上がった。一つの動きで痛みが広がる。ぼくは慎重に、針の穴に糸を通すように、手で地面を押した。背負った荷物の重さに手首が悲鳴をあげた。ぼくは耐えて、耐えて、耐え抜いて体を起こし、それから尻餅をついた。岡本君はうれしそうにぼくの膝を指さした。

「うわ、ひでえ」

 膝小僧が真っ赤なりんごと入れ替わったようだった。細かく震えて、血が流れた。

 岡本君はじっくりと顕微鏡をのぞくみたいにぼくのひざを観察した。あとの二人は、目をそらした。

 やわらかな空気の波でさえぼくの膝小僧は感じ取り、その都度痛んでがくがくと膝が震えた。岡本君はそれも楽しんでいた。

「こんなの久しぶりに見るな。なあ、いじめられるのってどんな気持ちなんだ? 俺はいじめられたことないからわかんないし教えてくれよ」

急に岡本君が聞いた。ぼくを人だと思い出したのかな。

なんて答えれば岡本君は満足して攻撃をやめてくれる?

「もう嫌だ」

 考えて考えて、わけがわからなくなったぼくは本音を言ってしまった。一度言葉にしてしまうと、次から次へと止めることもできずにぼくから漏れ出た。

「一生のお願いだからもうやめて。昨日までに戻りたいんだ。友達とまた遊びたい。なんでもするから、もうやめて」

ぼくはぼくを空け渡した。ひざの痛みが弱まった。

「そうか、やめてほしいか。でも俺は楽しいんだよ。こんな楽しい遊びは他にないし、これからもずっと続けていきたい。サッカーだっていじめに比べたらただの球蹴りにしか思えなくなる」

「お願い。ぼくは無理だよ」

 命令されたなら土下座だって平気でした。

「いやだ。さっさとかばんを持てよ」

 ぼくのお願いはあっさりと断られた。ギロチンが首を切るように。ぼくの必死の思いは岡本君に届くことはなかった。ぼくの言葉はほこりよりも軽い。ぼくってなんだろう。

「早くしろよ」

 ぼくは素直に言うことを聞いた。怖さが勝ち動いても痛みはなかった。

 ぼくは言われた通り三人のかばんを持った。三人が歩き出した。ぼくもあとについていった。一歩ごとに膝小僧が伸び縮みして、痛みがでるはずなのに、なにも感じなかった。ただ、筋になって垂れる血が何本も足を流れるのには気づいた。やがて、人通りが増え岡本君がもういいと命令した。三人はかばんを受け取りそれからぼくに声をかけることもなく、自分たちだけで帰っていった。

 ぼくは黒いランドセルを背負ったままその場に立った。腰を曲げたお年寄りがぼくのそばを通り過ぎた。犬の散歩をするおばちゃんがぼくのそばを通り過ぎた。雲が太陽にかぶさって、するすると影がひろがった。雨がポツポツと染みを作った。その染みが重なり黒く塗りつぶされていった。ぼくは見ていた。雨は冷たかった。

 どれくらい時間がたっただろう。ぼくは雨の幕を歩き出した。

家には誰もいなかった。全身がびしょびしょだった。痛みもない。夢の中のように、あやふやであいまいな世界にぼくは遠ざかっていた。ろうかがあって、壁があって、ドアがある。だけど、目に入るものはぶれて、ぼくは遠ざかっていく。

 洗面台で体をふいた。服を着替えた。消毒液を浸したガーゼで傷口をポンポン叩いて、包帯でぐるぐる巻きにした。変に冷静で、必要なことをやっているのがおかしかった。痛みは感じなかった。よくわからない。お父さんは家にいなかった。歩いているのに、浮いているみたいだ。ベットの上で明かりもつけず、じっと体育座りをした。よくわからない。よくわからない。なんだろう、よくわからない。とんでもなく、頭が悪くなったみたいだ。ぼくはじっと座り続けた。やがて、ひざにじくじくと痛みが生まれ、それはぎゃあぎゃあと泣き叫んだ。

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