第8話ぼくにクッキーをくれた女の子

 中間休みにまた殴られた。森君と井上君に羽交い締めさにされて、岡本君がボクシングのフットワーク的なことをしながら殴ってきた。一発一発は弱く本気じゃなかったけど、何発もくると吐きそうになった。ぼくが少しでも被害を減らすために頭をさげ的を小さくしてみても、今度は後頭部に平手が打ち下ろされた。衝撃にぼくはくらっとなり、気持ち悪くなった。これはあとどれくらいでおわるんだろう? 1発、2発、3発、4発、5発、6発、7発、8発、9発、10発。数えるのはやめた。永遠に終わらないような気がしたんだ。最後に一発重いやつがきた。

「いい練習台だ。気持ちいいぜ」

 二人はぼくを放して、ぼくはその場にくずれた。

 

 こんなのになりながらでも一日が続く。一時停止もお助けアイテムもない。ぼくのことなんかおかまいなしに世界は回っている。ぼくが苦痛にあえいでいるそばで、クラスのみんなは普段と変わらず勉強をして、あくびをしている。見知らぬ人になった昨日の友達がいつもどおりに今日を過ごしている。みんなにとっては今日もほかの日とかわらない何気ない一日というやつなんだ。その中でぼくは突き放されていた。鈍く光る斧が何百回、何千回とぼくに打ちつけられ、ぼくはメキ、メキと音を立てて崩れてしまいそうだった。

 給食の時間になると、昨日まで仲良く話していた班の子たちが、僕を無視した。まるで初めから僕なんていなかったみたいに。

 ぼくの班には大食い女王と呼ばれるほど、いっぱい給食を食べる川上さんがいた。川上さんはぼくと坂本君っていう男の子から給食の具材を横取りしようとして、ぼくらは必死に防衛した。それを心配そうに、でもあきれながら見る今井さん。楽しくぼくらはやっていたんだ。

 だけど、今日、ぼくが抜けていながら、川上さんは楽しそうに、坂本君の給食を狙い、今井さんは飽きれ、坂本君は必死になった。昨日とほとんど同じ光景がぼくの前で繰り広げられた。違うのはそこにぼくがいないっていうことだけだ。

 

 お昼休みにトイレで吐いた。すっぱくて、口からつばが細い糸になって垂れた。肉じゃがとご飯と牛乳が混ざって、どろどろとした気持ちの悪い色をしたゲロ。茶色く白くぐちゃぐちゃだ。臭いがつんときて、また吐きそうになる。

教室に戻ると、ぼくの机が引っくり返っていた。床にはプリントと教科書がちらばっていた。色とりどりの教科書が床でまざりあっているのは、さっきのゲロと似てた。ぼくに気づいた数人の人が顔を伏せ笑った。笑い声まで聞こえてきた。それはもぐらたたきのもぐらみたいにいたるところから生えてきて、引っ込んだ。

 みんながぼくを囲って、責めてたのしんでいる。ぼくは踏みつけられてぼろぼろになる。涙の粒がぽとりと落ちた。ぼくは顔をあげずにゆっくりと教科書を拾い続けた。ぼくが泣いてもかわいそうに思ってもらえない。ぼくの気持ちはわかってもらえない。反対にあいつ泣いてるぞって宝物を見つけたように喜ばれるだけだ。

 胸がやぶれそうなほどいたかったけど、ぼくは力尽くで抑え続けた。一冊づつゆっくりと丁寧に拾い、ほこりを手で払った。どれだけ時間をかけてもいずれは終わってしまう。最後の一冊を手に取ると、ぼくは目をつむって涙を押さえこみ、机に教科書を詰め込んで、それから早足で教室の外にむかった。誰にも目を合わせないようにうつむいてたけど、中島君がいるのがわかった。ぼくから目をそむけて、友達と小声で話していた。村上さんがいた。悲しそうにぼくを見ていた。吉田君がいた。岡本君以上に、吉田君には知られたくなかった。一人で席に座って、鉛筆を並べている。それだけだった。立つこともしない。声をあげることもない。ぼくより鉛筆が大事だった。

 吉田くん、ぼくは君の恩人なのに助けてはくれないの?

 黒くどろどろとしたものが生まれてぼくを包みこんだ。

 

「今日も一日よくがんばった。授業中も静かにしていてみんな偉かったぞ。ただ宿題を忘れた人がいるから、きちんとしような。明日もみんな元気で仲のいい5年2組にしような」

 心のこもっていない遠藤先生のあいさつで、一日が終わった。みんながうきうきでテンションがあがってる。中島君は友達の輪のなかにいて、遊びの約束をしている。ぼくとの楽しい思い出があったとしても、ぼくを捨てるのは簡単だ。

「一緒に帰ろうぜ」

 中島君が言う。

「オッケー。一緒に帰るの久しぶりだな」

「それは……。」

 中島君は岡本君の方を見る。それで周りの友達もわかったみたいだ。

「あ、ああ、そうだった。うん、帰ろう。早くいこう」

 中島君たちは教室からぞろぞろ出て行った。ぼくの名前は口にだしたらいけないらしい。正しいことをしたぼくからいろんなものがなくなっていった。友達も名前も。あとにはなにが残るんだろう。

 村上さんたちは教室の端の方で固まっている。ここからだとなにを話しているか聞こえないけど、村上さんの声を一言でいいから聞きたかった。なぐさめてほしかった。河合君、大丈夫だよって。

 4年生の冬、それまでは何も思っていなかった村上さんが、大切な人になった。


 お母さんがパートに出るようになって家は悪い方へかわっていった。お母さんが起こしてくれなくなったから、ぼくは起きるのが遅くて、朝ご飯は食べられなかった。給食の時間まで腹ペコで、お腹はなにか食べさせろ、とぞうきんみたいにねじれ曲がり、ぎゅるぎゅると鳴った。すごく恥ずかしかった。お腹を抱えても音がすりぬけていく。

 隣りの席の村上さんとは、時々、どこのページをやっているか聞くぐらいで、仲良くはなかった。村上さんはぼくのぎゅるぎゅる鳴るお腹の音を、すぐ近くで聞いていたんだ。ぼくは村上さんの邪魔をしていたかもしれなかったけど、何も言わなくて、ぼくは気付かれていないのかもって自分を騙した。

その日、ぼくのお腹は絶好調だった。なんでもいいからお腹につめこんで、ねじ曲がる胃袋をゆるめたかった。水はがぶ飲みしたけど、気持ち悪くなっただけだ。しかも、1時間目が体育の持久走で、ぼくのエネルギーは空っぽだった。ぼくは机に倒れこんだ。もうなんの力も湧かなかった。

 隣りに村上さんが座った。最悪のタイミングでぼくのお腹はぎゅるぎゅるっと大きな音で鳴った。さすがに気づかれたと思った。朝ごはんを食べないぼくに、怒って嫌がらせをしたんだ。ぼくはパンチでそれに答えた。

「河合君」

 村上さんが言った。ぼくは顔をあげたくなかった。だからぼくはねたふりをした。またお腹が鳴る。ぎゅるぎゅる。きっと村上さんにも聞こえてる。

「きいてほしいことがあるの」

 起き上がったけど、顔は恥ずかしさで、真っ赤になっていたと思う。村上さんはあたたかそうなモフモフの長袖を着ていた。ぼくの服は薄っぺらい。汗が冷えて、寒い。

 またお腹が鳴った。とことんぼくに意地悪するつもりなんだ。ぼくは村上さんから目をそらした。

「これ、どうぞ」

 机の下で、村上さんはぼくになにかをわたそうとした。手のひらにすっぽり包まれているそれがなにかはわからない。なんだろうと思いながらぼくは手を開いて、村上さんからの贈り物を待った。ぼくたちの手があたった。あたたかかった。村上さんからぼくに贈り物がわたった。クラスはうるさかった。ここだけ、静かに雪が降っていた。ぼくのお腹さえ鳴り止んだ。贈り物をもらうのは久しぶりだった。

 手のひらには包みに入った甘くておいしそうなクッキーが二枚あった。渡した村上さんは恥ずかしそうにちっちゃくなった。ぼくもちっちゃくなった。クラスのみんながうるさかった。

 「ありがとう」ただそれだけのことなのに。ぼくはいきなり立ち上がって教室からでてしまった。体が熱く、ぼくは体中をかきむしって、うわあって叫びたかった。

 ぼくが隠そうとしていた秘密はとっくの昔にばれていたんだ。ぼくのことを心配したんだろう。村上さんは知らないふりをして、しかもおやつを持ってきてはいけないというクラスの約束を破って、クッキーをもってきてくれた。村上さんは朝ごはんを食べてないのかなって心配してくれたんだ。

 ぼくは村上さんの気持ちが詰まったクッキーをすごく大事にしたくて、すごくボロボロにつぶしたかった。これはぼくの家が変な証拠だった。

 ぼくはクッキーをポケットにしまって、教室に戻った。村上さんはちっちゃくなったままうつむいていた。ぼくのお腹はぎゅうぎゅうと鳴ったけど、チャイムがその音を聞こえないようにしてくれた。ごめんねって、ぼくは声に出さずにつぶやいた。

 そのクッキーをぼくは食べなかった。家に帰って中身を捨てて、袋は勉強机の透明なシートの下に飾った。ぼくの宝物はここに飾ってあり、家族写真もここにある。クッキーの袋は前からここにあったみたいに、すんなりととけこんだ。

 村上さんは優しかったころのお母さんだ。いっぱい、いっぱい村上さんに伝えたいことはあったけど、それが口からでていくことはなかった。口がチャックされたみたいに、ぼくはなにもいえなかった。

 次の日から、ぼくたちはクッキーのことなんてなかったかのように、話さないまま離れ離れになってしまった。

 

 ぼくがやられるのを村上さんも見て、悲しそうに本に目をやった。

 もうクッキーはくれなかった。

 ただ悲しかった。心がハンマーでぐちゃぐちゃにつぶされた。だけど、村上さんは悪くない。村上さんだけは悪くない。村上さんはこんなこととかかわっていられるだけ強くない。村上さんは弱くて、悪ってやつにふれるだけでやけどして死んでしまう。村上さんは天国みたいにみんなが優しくて、みんなが人を思いやって、みんなが幸せな平和な国でしか生きていけない。卑怯だから、見て見ぬふりをするんじゃない。ちっぽけで、弱い村上さんは、そうしないと死んでしまう。だから、しょうがない。絶対、村上さんだけは悪くない。

 だって優しかった頃のお母さんと同じなんだから。

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