第7話 ぼくが羊になった日
小学校が見えるとぼくの足取りは重くなる。白い校舎に光りが反射していた。校門をくぐり、下駄箱に向かう。同じクラスの子の顔が曇った。階段を上がった3階に5、6年生の教室が並び、5年2組の教室は一番右端にある。黒と赤とピンクのランドセルに、スポーツブランドのマークがついたリュックがぼくの先をいく。ろうかであっちむいてほいをしている子たちがいる。
ぼくがドアを開けた瞬間、ガヤガヤとした教室を貫いて森君と井上君のヒューという歓声がぼくのところに届いた。ぼくに向けられたってすぐわかる。出荷される豚はこんな気持ちなのかな。トラックに載せられて、鼻を動かしブーブーと鳴く豚は自分の行き先を知っていて、それでもいつものように鳴いているのかもしれない。
森君はキスするように口をとんがらせ、井上君は顔に手をそえ、わざと下手な調子で声を張っていた。二人をたずさえた岡本君は王様のように自分の席に座っている。にらめば人を殺せそうなギラギラした目と、顔に張り付いたニタニタとした笑顔にぼくはおしっこをちびりそうだった。
「河合、ちょっとこいよ」
森君がぼくを呼んだ。隠し事をしているかのように暗い笑みを浮かべていた。
地獄が待っている。
ぼくはゆっくりと三人のところに近づいた。歩幅を小さく、いつもの半分くらいで。それでも一歩づつ確実に距離が縮まり、ぼくはどうして嫌なことは避けられずにその時がきてしまうのだろうと不思議に残念に思った。どうしてぼくたちには超能力もなくて、ちっさな米粒のようなお願いでさえ叶えることができないんだろう。もう一度家族が仲良く。ただそれだけなのに。
ぼくから目を離し、だけどチラチラとこっちを見てくる香山さん。気づかれないようにしているんだろうけど、バレバレだった。指先の動きさえも逃さないようにしつこく目で追う佐藤君。敵意むきだしの桜田さん。悲しそうな中島君。
線路は続く、崖の先まで。ぼくは進む、転げ落ちるとわかっていながら。
「昨日はかっこよかったぜ」
岡本君が言った。足を組んでいて、履き古して汚れたスニーカーが揺れていた。口もとから白い歯が見える。明らかにこの状況を楽しんでいた。
息をするのが苦しくぼくは今すぐ逃げ出したかった。
「おれ、ほれてしまうとこだったぜ。えっと、なんていってたけな。もっかい、いってくれない? おれききたいな」
岡本君のわざとらしさが、ぼくのことを馬鹿にしていた。森君と井上君からくぐもった笑い声が漏れる。我慢するつもりもないくせに、抑えていたんだけど、笑ってしまったといいたげだ。
謝るなら今しかないぞ。今ならまだ引き返せるかもしれない。なにをためらっているんだ? みんながみんな卑怯で、そのなかでぼくだけが立ち上がったんだ。ぼくは他の人にはできない正しいことをしたんだ。だけど、できることは決まっている。ぼくはこれ以上進めない。ぼくの役目はこれでおしまいだ。吉田君だってぼくのことを責めないで、むしろ感謝するだろう。もうぼくには不可能なんだ。謝ろうよ。情けなくてもいい。間違っていてもいい。吉田君なんか見捨ててしまえ。自分が一番でなにが悪い?
悪魔はぼく自身だった。ぼくはぼくが恥ずかしい。
ぼくは言った。
「ぼくはただ吉田君のいじめをやめてほしいだけで……。」
「そうだった。そうだった。そんな偽善者ぶったことをいったんだった」
岡本君が立上がる。ぼくよりにぎりこぶし一つ分高くて、そこからぼくを見下ろした。
「それでおれはどうしたんだっけ?」
「ぶん殴ってやったんだよ」
森君が嬉しそうに答えた。先生の質問に答えるように。
「そう、それ」
お腹にパンチが飛んできた。ぼくは息ができなくなり、お腹を抱えてうずくまった。
「こうしたんだよな。あれ、昨日と違うなあ。ひっくり返れよ」
岡本君がスニーカーの靴底でぼくの肩をおしやり、ぼくは後ろにとばされた。机にぶつかり音をたてながらぼくの体は床に叩きつけられた。
「そうそう、こうだった。お、今日は泣いてないな。昨日はあんだけ泣いてたくせに。まじで5年にもなってあんなに泣くやつがいるとは思わなかった。情けねえよな」
「笑いをこらえんのに必死だったぜ」
「1年でもあんなに泣かないよ。こいつ精神年齢がやばいんじゃないか」
「そうだな。頭おかしいんだろうな」
笑いの雨がぼくに降る。お尻が痛い。お腹が痛い。心が痛い。
岡本君はぼくの胸ぐらをつかむ。残忍な顔がぼくに近づく。
「俺はお前を一生許さない。お前は俺を馬鹿にした。なにがあっても、お前をいじめてやる。誰かがお前を助けようとしても俺が潰してやるからな。それでお前のしたことを後悔させてやる。そんとき謝っても無駄だからな」
それから三人はぼくを残して教室から出て行った。最後に置き土産を残して。
「もっと遊ぼうな」
床に倒れたぼく。天井のしみ。昨日のテレビの話。かけ声。ろうかを走る音。ひとりだけの悲しい宇宙。さまようぼく。
ぼくはとけて液体になってひろがっていく。
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