第6話 いじめがはじまった日

 目覚まし時計のピピピという音がぼくの眠りにドカドカと割り込んできて、ぼくの心臓は飛びはねた。目覚ましを止め、気を抜いたらすぐにでもとじてしまいそうなまぶたを持ち上げて、ぼくはベッドから起き上がり、真っ先にトイレに向かった。一晩中たまったおしっこは、消防者のホースから発射されたみたいに一直線に走って、トイレの便器に直撃し、そこからはしぶきが散った。

 カーテンとカーテンの隙間から朝の光りが線となって、誰もいないリビングに差し込んでいる。ぼくは台所に置いてある菓子パンを食べた。甘くて、重い。ぼくは袋に戻し、輪ゴムでくくり、元の場所に置いておいた。それからぼくは部屋に戻り、服を着替えた。ほとんど家事をやらなくなったお母さんでも洗濯だけはやってくれた。たぶん、近所の人に家の状況を知られたくないからだ。だけど、お父さんは昼間にお酒を買いにいくから、ぼくが着飾ったところで効果はない。ぼくは顔を洗い歯を磨く。冷たい水がぼくをひっぱたき、完全に目が覚めた。テレビを点けると、真っ暗な画面にカラフルなスタジオが浮かびあがり、ぼくは急いでテレビの音量を下げた。上の方で小さく映る天気予報が今日は一日中晴れだと教えてくれた。

 時間になり、玄関のドアをそっと開けた。

「いってきます」

 お母さんは時間じゃないのに起こされるとすごく怒る。だから小声で。こんなに小さいと誰にも聞こえないし、たとえ二人に聞こえたとしても返事はしてくれない。ぼくは心の中でお母さんとお父さんの声を作りその声で「いってらっしゃい」を再生した。お母さんは明るくぼくを元気づけようとする声、お父さんは静かで重みのある声。

 ぼくは静かに、慎重に鍵を閉める。雲ひとつない青い空がぼくを追いやる。

 マンションにはちょっとした広場のような場所があって、そこへ小学生が集まり集団登校をする。ぼくが行くと10人以上がもうすでにいた。元気に走りまわる子もいれば、手を当てずにあくびをする子もいる。一緒のクラスの近藤さんがいて、ぼくはその子を見ないようにしていた。頭の端っこに蓋を閉めておしやったものがあり、それを解放したくなかった。

 岡本君、森君、井上君。いじめ。

 これからぼくはどうなってしまうの? ぼくはいじめられるの?

 悪魔がひっそりと姿を現す。

 お前、あんなことするんじゃなかったな。

 ぼくは太ももをグーで殴った。弱くて卑怯な悪魔は、そんなことでは消えてくれない。

 おれの言うとおりだろ。いいことなんてひとつもなかった。損しただけだ。

 ちがう、ぼくは正しいことをしたんだ。

 へえ、でも目的はそれじゃなかっただろ? お父さんに変わってほしかったからやったんだろ?

 それは……。そうだけど。

 それで結果はどうだった? なんの意味もなかっただろ。お前は失敗したんだ。

 わかってるよ。

 無駄なことをやったわけだ。ドジを踏んだせいで、これから地獄のような生活がまっているかもしれない。吉田君にやっていることよりもっとひどいことをお前にやるかもしれないな。

 そんなのわからないよ。

 ん? ああ、そうか。かわらず吉田君がいじめらてお前は大丈夫かもしれないって、言いたいんだな。それなら簡単だよ。教室に着いたら岡本君に謝るんだ。昨日はごめんって。許してくれるかもしれないよ。ヒーロー気取りで調子にのってごめんさいってね。

 そんなの、そんな最低なことぼくにはできない。やるつもりもない。

 大丈夫だよ。みんなやってることだよ。それにお前は吉田君がいじめられていようが、泣いていようが、楽しんでいようが、どうだっていいんだろ? 素直になれよ。

 ぼくは答えられなくて、聞こえないふりをした。


 

 岡本君は5年2組のボスだ。岡本君に逆らえる人はいないし、先生だって気を使っている。触らぬ神に祟りなしで岡本君による被害が出ても目をつむり続けた。岡本君は意味もなく同級生の男子に死ねと言い、その上殴ったり蹴ったりして得意げに笑う。女子にも容赦がなく何人も泣かせていた。こんなひどいことをしている時の岡本君は凶暴な目つきで、笑う。まるで悪魔みたいだ。岡本君には小学校にまで悪い噂の届くお兄ちゃんがいて、その人に鍛えられた岡本君に誰も立ち向かうことができなかった。

 けれど岡本君は誰にでも攻撃して楽しんでいるわけではなくて、サッカーをやってる子とかかっこいい子には手をださなかった。なぜかわからないけどぼくもなにもされなかった。

 こんな岡本君を桜田さんという女の子は好きでいた。かっこいいからだろう。熱心に、隙があれば岡本君と話そうとしているけど、相手にされない。それでも桜田さんはあきらめない。

 5年生がはじまってやられる子達は平等にやられて、ビクビクの日々を過ごしていた。なるべく、岡本君から離れようと図書室に逃げ込んだり、学校が終わると一目散で家に帰ったり。誰かがやられていると、自分には被害がこないからほっとする。たとえ仲のいい友達が蹴られていても、そのあいだは知らない人のように、無関心になる。友達がやられているそばで、他の友達と仲良くする。見て見ぬ振りだ。そして、それが終わると何事もなかったかのように友達に戻る。みんな自分が大事だったんだ。

 そんな不安定な時期はひと月ほどで終わった。遅い春がきたみたいに、みんなの顔に希望が見られ、戦場だった教室は新しい芽が生える、心やすらぐ場所となった。みんなが幸せで、安心していられることの大切さをしり、テレビとかでよくいう平和についてはじめて体で実感してた。誰も口には出さなかったけど、いつまでもこんな日々が続いてほしいなって心から願っていたはずだ。

 つまり吉田君ひとりがいじめられ続けて、他のみんなは安心、安全でいられる日々が続けばいいなって、みんなが望んでいたんだ。吉田君を生贄に差し出して、ぼくらは平和に暮らしていたんだ。

 みんな気がついていた。吉田君はかわった子だと。誰とも仲良くせず、喋ろうともしない。いつもひとりで、椅子に座ってじっとしている。休み時間はろうかの端から端までいったりきたり。喋る時は敬語を使って、早口で不気味だ。みんなとはまるで違って、かなりへんてこだ。変だなって噂さされる以外は吉田君はクラスでも忘れられていた。岡本君も他の子をいじめるのに忙しくて、まだ吉田君にかまっていなかった。友達がいなくてもそれが吉田君にとってはよかったんだ。たぶん吉田君は自分の心の中に閉じこもっていて、そこが一番心地よい場所なんだ。だけど、ずっとその場所にいるわけにはいかなかった。吉田君は無理やり引っ張り出された。そのきっかけは席替えだった。 

 5年2組のはじめての席替えはゴールデンウィークの次の日にあった。

 みんな仲のいい友達の近くになれるんじゃないかってわくわくしていた。ぼくは中島君と同じ班になれたらいいなって思った。反対に岡本君たちとは離れた席がいい。そして、村上さん。3、4年生の時に一緒のクラスで、5年生のクラスが同じだったってわかった時にはぼくは神様に感謝した。ぼくに起こったほんのひと握りの幸運の一つだった。

 村上さんはおとなしい。いつも古野さんと野田さんと一緒にいる。二人は村上さんと同じようにおとなしかったけど、そのなかでも村上さんはいちばんおとなしかった。村上さんはこぼれてしまいそうな小さな声でしか話さず、ぼくは夢中で聞き耳を立てる。少しでも村上さんのことを知りたかった。村上さんとはこれで同じクラスになるのが三回目だけど、あんまり話したことはない。3年生の時は今よりも話していた気がする。まだ、村上さんの前で、緊張しなくてよかったから。

 村上さんはぱっちりした目を開けて先生が持っているくじの入った箱を緊張しながら見ていた。かわいくて、ぼくはドキドキしてしまう。白くて小さな手をさりげなく祈るように組んでいた。長い髪はさらさらで、やわらかそうだった。村上さんにも好きな人がいて、同じ班になりたいのかな。それがぼくだったらいいのにな。ぼくも手を握ってお祈りした。もう一回村上さんと同じ班になれますように。教室中がお祭り騒ぎだった。岡本君が井上君たちに大声で言った。「同じ班になろうぜ」森君は右手を高く上げた。「この右手に不可能はない」。みんな笑った。

 二人は岡本君の取り巻きだ。森君は明るく小柄なお調子者で、井上君はサッカークラブに入り、岡本君以上にサッカーがうまかった。

 名簿順に先生の箱から、番号が書かれた小さな紙切れをとっていき、その番号と名前を黒板に書いていく。黒板には番号がわりふられた座席表が書いてあって、自分がどこかすぐわかる。天国か地獄か。運命の一瞬だ。

 岡本君がくじを引き、ろうか側の前から二番目に決まった。さきに引いていた井上君と近くになれなかったから岡本君は悔しがった。ぼくは箱の中の紙きれをめいっぱいかきまぜてから引いた。岡本君から離れますように。中島君と村上さんと同じ班になれますように。結果は15番で、岡本君とはかなり遠かった。あとは二人を待つだけだ。

 それからどんどん席が決まっていった。二人が引く前にぼくの周りは埋められて、ぼくの右隣の席だけが生き残った。岡本君の状況も悪くなる一方で、次々と岡本君にやられている子やおとなしい女子に囲まれていった。岡本君はイライラしていた。だけど最悪なのはこの子達で、あまりのショックに紙に書かれた番号を何度も見返していた。ぼくは岡本君から離れられたことを喜んでもいいのかわからなくなった。誰かが引き受けなくちゃいけないにしても、自分だけ喜んでもいいのかな。でもどうせぼくは見て見ぬふりをする。正しいことじゃなかったとしても、自分がやられるのは嫌だから。ぼくにはそんな勇気はないから。

 その時はまだぼくが岡本君に立ち向かうなんて思ってもいなかった。

 中島君はさっそうとあらわれて、さっとくじを引いた。背は低いけど、かっこいい。中島君は番号をあまり興味なさげに確認して黒板に書き込んだ。それはぼくの隣りじゃなかった。ぼくは残念で、中島君はそんな感じじゃなかった。中島君はぼくじゃなくてもいいんだ。

 村上さんは箱の前で緊張した様子で立ち止まった。長い髪はさらさらとして、太陽を吸い尽くしてしまいそうなほど黒かった。村上さんの希望はもう埋まってしまったのかな。それとも、ぼく? ぼくの顔が赤くなる。とにかく岡本君のとなりだけはだめだ。 

 でも、それじゃあ、他の子だったらいいの?  村上さんとお前だけがよかったらそれでいいの?

 声が聞こえて、ぼくはどう答えたらいいかわからなかった。

 黒板には、22番 村上優子と書かれた。岡本君の隣りでもぼくの隣りでもなかった。ぼくは喜びもしなかったし、落ち込みもしなかった。誰がジョーカーを引くのだろうか。ぼくはその子を思って心が痛んだ。

森君もくじを引いたけど、岡本君と離れた場所だった。「お前、使えないな」。森君は泣きそうになる。

 教室が暗くなり、雷の音が聞こえてきそうだった。すごく居心地が悪かった。くじを引くのは残り三人だ。機嫌の悪い岡本君の隣りなんて、檻から放たれたライオンの前でしばりつけられるのとおんなじだ。ぼくは想像しただけで、ぶるっと震えた。残った人の中で、吉田君はただひとりいつもどおりかわることがなかった。自分の席で鉛筆を同じ幅で、高さも同じに一本づつ丁寧に並べていた。もう上半分は並べ終えて、下半分に取り掛かっていた。机に緑のしまもようができていく。鉛筆を二十本以上使い、それはなくなることなく引き出しからあらわれた。まるで魔法の宝箱みたいに。

 山田君がくじをひろげ大きく息をはいた。ため息じゃなくて、安心して。山本さんが目を閉じる。嬉しさを噛み締めて。

「次は、吉田君」

 先生が呼ぶけどよっぽど鉛筆並べが大事なのか吉田君は前に行かない。先生はとげのある声でもう一度言って、ようやく吉田君はくじに向かった。吉田君は岡本君のことなんかまるで考えてないみたいで、早く鉛筆並びに戻りたいようだった。なんのためらいもなく、一枚のくじを引いて、それを黒板に書き込んだ。手の力が強くてチョークが折れた。8番 吉田友裕。それは岡本君の隣りの席だった。

 その瞬間、さっきまでのピリピリとした空気が抜け、教室がふわっとやわらかくなった。岡本君が舌打ちしたんだけど、関係なかった。みんなほっとして、口元には笑顔が生まれた。友達もいない、かわっていて、普通じゃない吉田君。

 吉田君ならいいじゃん。

 誰もそうは言わないけど、みんながそう感じていた。吉田君なら見て見ぬふりをしても、心が痛くならない。だってみんなとは違うんだから。

 ぼくたちは新しい引越し先に自分たちの机を運んで、そのまま終わりの会をして、さよならになった。席替えが終わってからも吉田君は鉛筆を並べた。自分の思い通りにならなくて、湯気が出そうなほどにカンカンの岡本君がすぐそばに立っていても気づかない。

 学校が終わっても、みんなさりげなく二人に注目して、教室から出ていこうとはしなかった。特に、これまでやられてきた子なんかは、すごいショーを待っているかのように好奇心丸出しだった。今だけはみんな安全だった。

 いきなり岡本君は吉田君の机の鉛筆を全て払いのけた。床にぶつかる鉛筆がたてるカタカタという音は、みんなにとっては終わりのチャイムで、吉田君にとっては始まりの合図だった。空に向かってピストルは鳴らされた。教室がぐねぐねと歪む。

「ぎゃあ」

 吉田君は動物の鳴き声みたいなのを出して、立ち上がった。岡本君とは目をあわせない。

「なにするんですか。やめてください」

 ロボットが話すようにカクカクで、早口だった。

「うっせえ」

 岡本君は吉田君を蹴った。

「ぎゃあ」

 猿みたいに叫んで、吉田君はすごく大げさに蹴られた場所に手をあてた。

 岡本君は笑った。

「なにそれ。変な奴だとは思ってたけど、お前やばいな。井上、森おさえとけ」

 近くで待っていた二人は吉田君の腕を取って動けなくした。吉田君は全力で振り払おうとするけど、がっちり抑えられている。足をじたばたさせて、叫ぶ。幼稚園の子供みたいに。

「ぎゃああああ」

 思いっきり、吉田君の出せる全部を出して。さすがの岡本君もこれには一瞬とまどって、パンチを出さない。井上君と森君は手を離しそうになったけど、もうだめなとこを見せられない森君が踏ん張って、井上君もそれを見習った。叫びは続く。だけど、終わらないし、誰も助けにいかない。意味もなく続く叫び。ぼくはただ聞いていた。

 やがて、岡本君は叫び続けひとりで暴れている吉田君のことをおもしろがった。5年生が、幼稚園児みたいに暴れているんだ。見ている子も思わず笑った。それは少しずつ広まり、叫び声と笑い声で教室がうまった。もう、吉田君の叫びは人をおもしろがらせる効果しかなくて、岡本君は新しいおもちゃをもらったように目をかがやかせた。

 ぼくは見ていた。ただ見ていた。

「やばい」

 岡本君が殴る。叫び声は大きくなる。みんなはゴールが決まったみたいに喜ぶ。楽しまなきゃ損だというふうに。みんな今までたまっていたものを吐き出していた。見ているお客さんと吉田君の反応にすっかり気分が良くなった岡本君はさらに殴り、それは吉田君が叫ぶことができなくなるまで続いた。

 ぐったりと倒れこむ吉田君。お祭りのあとはみんなすっきりとしたいい表情で、ゴミとなった吉田君は誰にも拾われることなく捨てられていた。そのそばを通るのは楽しげでスキップしそうな男子、女子。ひとりひとり、教室から出て行った。ぼくも中島君と外に出た。

「さっきのやばかったな」

 帰り道、中島君が興奮するわけでもなく言った。

「うん」

 ぼくはうなずいた。

 中島君が早足になる。

「あっ、ごめん忘れ物しちゃった。教室に戻って取ってくるから」

 ぼくは返事も聞かず、駆けだした。

教室には倒れたままの吉田君がいた。校庭からわずかに聞こえるはしゃぎ声が吉田君に降りかかる。今さら卑怯だってことはわかるよ。ぼくは吉田君をかきあつめるように鉛筆を拾っていった。鉛筆の芯は折れているのが多くて鉛筆削りで一本づつ削った。

 ザッザッザッ。

 吉田君は倒れている。

 ザッザッザ。

 違う、これじゃない。もっとやるべきことがあるんだ。

 ぼくは削った鉛筆を全て机に置いた。

「吉田君、大丈夫?」

 初めにこうすべきだった。

 吉田君は目をうつろに開けたまま答えない。

 これでもない。もっとやるべきことがあったんだ。ぼくは止めるべきだった。

「ごめんね」

 ぼくはかがんで、吉田君のそばにいた。静かな教室に時間が流れた。ごめんね、ぼくは正しいことをしなきゃいけないのに。ランドセルが重かった。

その時遠くから誰かの話し声が聞こえてきた。男二人だ。もしかして岡本君?

 ぼくは怖くなった。勝手に足が動いて立ち上がった。机の上にはぼくが集めた鉛筆が置いてある。ぐったりした吉田君が集まられるわけなくて、誰かが集めたんだとわかってしまう。ぼくは払い落とそうかと思った。ぼくは殴られたくない。ぼくの手が動く。

「正しい人になってほしいって意味が込められているのよ」

 まだ優しかった頃のお母さんの声がした。

 ぼくは教室を飛び出した。吉田くんを残し、鉛筆は机の上に置いたままで。ぼくは誰にも見られることなく、家に帰った。

 吉田くんがおもちゃになったその日からみんな幸せになりました。おとぎ話のように丸く収まったんだ。

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