第3話 母親

 いつの間にか眠っていた。頭がぼやっとしている。夢はなんだかみたような、みなかったような、でもかけらがちょっと、残っているような気もする。それは、心地よいぬくもりのかけら。ぼくの勘違いじゃなかったらとてもいい夢を見ていたんだろう。思い出せないのがさびしかった。

 玄関から乱暴に靴をぬぐ音が聞こえてくる。お母さんが帰ってきたんだ。

「あーあ、しんどい。どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないの。あー、しんど。いるんでしょ。返事しなさいよ、クズ。あんたのせいで、私がどれだけ苦労しているかわかっているでしょ。ああ、もう」

 お母さんが、お父さんの部屋を開けようと格闘し、部屋の鍵が悲鳴をあげた。

「出てきなさい」

 家が震える。怒りと憎しみ。テレビでしか知らなかった人を憎むっていうことが、ぼくの家であたりまえのように起きている。相手が傷つくことだけを願うこと。心が痛くなる。お母さんはぼくに愛を教えて、そのあとに人を憎むことを叩きこんだ。

なんで神様はこんなにも残酷なんだろう。

「卑怯者、臆病者、クズ。あんたんなんか自分がよければそれでいいんでしょう? ねえ、なんかいったらどう? わかってるの?」

 バンって爆発したような、お母さんがドアを叩く音がした。それが始まりで、何発も爆発が続いた。ぼくは耳をふさいだ。痛くなるくらいに。そうしても聞こえてくる。ぼくは頭から布団をかぶって、それからもう一度耳をふさいだ。聞こえなくなった。静けさだけが残った。見たくないもの聞きたくないもの認めたくないもの、ここにはなにもない。ここがぼくの小さな天国。暗くて動けない。だけどここでぼくは守られている。

 一度壊れてしまうと元通りにならないのかな。ぼくはどこにもない希望にだきついていたのかもしれない。あまりにつらくて、自分をだましていないとくずれてしまいそうだったから。

 なにも聞こえないこの場所に、音が入りこんできた。ドアが開く音。ぼくの天国はあっけなく消えた。ドンドンと足音が近づいきて、ぼくから布団がひきはがされる。お母さんがぼくを見下ろす。部屋が暗くて、お母さんの顔は真っ黒に塗られている。それでも、全身から怒りが伝わってきた。

「なにしてるの?」

 お母さんがぼくの腕をつかんだ。痛い。爪がくいこむ。

「まさ君も手伝って」

 お母さんはそう言って、お父さんの部屋を睨んだ。ずっと視線をそっちに向けたまま、ぼくを引っ張る。ベッドから落ちそうになったけどお母さんは気にせず強い力で引っ張り続けた。お父さんの部屋のドアがなにもいわずぼくを待ち受けている。茶色く、分厚い。

「ほら、まさ君もいって」

 お母さんはぼくの顔をのぞきこんだ。頬だけがあがる、不自然なくらい優しい表情で、その声はねっとりしていた。

 ぼくは疲れていた。ただただ疲れていた。悔しいとか、どうにきゃしないとっていうような感情は死んでいた。反対する力もない。あきらめだけが残っていた。さあ、毎日の宿題をやらなくちゃいけない。目の前で、というかぼくの手でひとつひとつ終わらせるんだ。

 ぼくは家族を壊す手助けをしていた。

「お父さん、お母さんはしんどいんだよ。どうしてわかってあげないの?」

 ぼくの声じゃないみたいだ。それが本当に起きていることなんて信じられなかったけど、お母さんが深くうなずくから、やっぱり本当なんだなって思った。ぼくの肩に手を置く。まだ足りないんだろうな、なんとなくそう思った。

「お母さんがかわいそうにおもわないの?」

 もうなにも感じない。だるさ以外には。ぼくがのっとられてしまって、ぼくは檻の中に閉じ込められてしまった。口が勝手に動く。

「お父さんはくずだよ」

 ドアの向こうから返事はなかった。沈黙が続いた。

「まさくん、ありがとね。今はあのクズのせいで大変な時期だけどすぐにかわるからね。それまではまさくんだけが頼りだよ」

 お母さんはずっと笑顔でしかいられないお人形さんのようなゆがんだ笑顔でぼくを見つめた。言葉がぼくを抱きしめて、その力があまりに強すぎてぼくは息ができない。窒息死してしまいそうだ。苦しい。

 だけど、そんなことはおかしいとわかっていたけど、嬉しいという感情が心の奥の方でポツポツと生まれていた。お母さんが言ったことは嘘で、全部お父さんへの憎しみから出た言葉だってわかってる。でもぼくは疲れていた。なにもかもに。だからそれが嘘だとしても、偽者でも、ぼくにはなんでもよかったんだ。お母さんの言葉を何度も何度も頭のなかで再生して、ガムみたいに噛み続けて味わった。甘くて、ほっとして、ぼくはお母さんに必要とされているんだ、というとても確かで木のようにどっしりとした実感が沸き上がってくる。ぼくはここにいていいんだ。よかった、ぼくは道端に生える雑草なんかじゃないんだ。ぼくはぼくなんだ。その時、ぼくはハッと気づいた。

 ぼくは家族のつながりを一本一本切っていく代わりに、お母さんに褒められている。そして、ぼくはそのことをめちゃくちゃ喜んでいる。

 ぼくは自分が褒められたら他がどうなろうとどうでもいいんだ。

 お母さんはもう一度怒りに満ちた表情でドアを思いっきり叩いて、さっきの笑顔にすぐに切り替わりぼくにいった。

「それで、昨日のテストの結果は返ってきた? あれだけ頑張ってたんだから満点とったでしょ?」

「ごめんなさい。取れなかった。85点だったよ」

 お母さんの顔が凍った。ぼくの肩を掴んで前後に揺さぶる。

「なにしてるの? なんでそんな点数なの? 勉強さぼったの?あれだけ勉強しろっていったのに? お母さんのいうこときけなかったの? 頭いいのになんで? あーあ、あいつだけじゃなくて、まさ君にもがっかりさせられるなんてお母さん思ってもいなかったよ」

 ぼくの見える景色はゆれてぶれぶれで、そのなかでお母さんの声だけがはっきりとぼくに届く。ぼくは消えてしまいたかった。

 お母さんが手を止めた。そして、ぼくのことなんかはじめからいなかったかのように、ぼくを見ないで、リビングに向かっていった。途中で、お母さんはろうかに放置されたゴミ袋を蹴った。中からゴミがとびだし撒き散らされた。お母さんがテレビを点ける。ぼくはひとり取り残された。

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