第2話 父親

 岡本君のいじめを止めた昼休みから放課後まで、誰もぼくに声をかけてはこなかった。ぼくの一番仲がいい中島君は、教室を出る時にぼくをちらりと見て、それからすぐに出て行った。中島君には他に一番の親友がいる。ぼくじゃない。河野君っていう。幼稚園のころからずっと仲良しで家族ぐるみの付き合いだ。河野君は別のクラスにいるから、中島君はよくぼくと一緒に帰ってくれた。中島君はぼくがいなくても平気だ。ぼくのことを一番に思ってくれる人は誰もいない。

 ひとりだけの帰り道はとても静かで、どこからか聞こえてくるクラクションの音や車のエンジン音が、静かでもの悲しい世界にノックしてくれたけど、ドアを破ってはくれなかった。

 家のマンションは曇り空と同じで灰色だ。

「正しい人になってほしいって願いが込められているんだよ」

 僕の名前はお父さんが付けてくれた。僕の名前の由来を教えてくれるお母さんは、とても幸せそうだった。お父さんはぼくに正しい人になってくれることを望んでいる。

「お母さんは幸せよ。まさくんがいて、お父さんがいる。こうやって幸せな家族を持つことが夢だったのよ」

 戻れるなら戻りたい。小学2年生の家族旅行。海で泳ぐぼくを心配してお母さんはそばを離れず、お父さんは海水をかけてきた。お母さんはふざけないでと怒っていたけど、本当は楽しそうだった。僕の誕生日に行った回転寿司屋さんで、お皿をつむほど、「大きくなったね」とお母さんは喜んでくれた。その日の帰りの車で、お父さんは言った。「正人はいつか、お父さんより大きくなるだろうな」。僕は早く大人になりたいって思った。

 ぼくはぼくの人生のなかで一番正しいことをした。お父さんの望みを叶え理想の子供になった。このぼくなら、お父さんを助け出すことができるんじゃないか。

また昔みたいに戻れる。

 これでだめなら、ぼくはもうなにもできない。期待と不安が入り交じる。きっと大丈夫となぐさめても、家が近づいてくるにつれてどきどきは大きくなった。もしいくら正しいことをしても二人がぼくに興味がないとしたら。考えたくもない。だけど、考えてしまう。なにをやっても、無駄だとしたら。

 ぼくは家を通り過ぎようかと迷った。ぐるぐると家の周りを回り、日が暮れてから家に帰る。なぜだかわからないけどそうやって時間を過ごせば、なんとなく見たくないものから離れることができそうな気がしたんだ。でも、結局は帰ることにした。ぼくには希望が、一筋でもいいから希望の光りが必要だった。痛めつけられ、たったひとり。長く辛い日々が始まったあの日から、ぼくは全てに耐えてきた。

 マンションのエレベーターにのり5階を押す。エレベーターはぼくの気持ちには気づかずにぐんぐんぼくをその時に近づける。扉が開き、ぼくは出る。左に曲がって四つ目の部屋がぼくの家だ。遠くまでぼくの町がよく見える。家が、整理されたようにきれいに並び、車がとことこ走っている。空は一面灰色で墨がまじったような黒い雲に覆われている。ぼくはランドセルから鍵を取り出しドアを開けた。

「……カップル離婚という報道がありましたが、実際のところどうなんでしょうか?」

「おそらく事実でしょうねえ。最近は妻である加藤さんの不倫報道もでて、夫婦仲は最悪でしょう。しかし、あの報道には驚きましたねえ。清純派女優の裏にこんな素顔が隠されていたとは。男どもはみんなだまされていましたよ」

「男はああいう女に騙されすぎですよ。私も含め、世間の女性はわかっていしましたよ。ああ、この人は裏があるなって。笑顔があざとかったですもん」

「いやあ、手厳しい」

 ろうかとリビングを区切るドアを開けるとお酒のにおいがした。コンビニ弁当の容器や脱ぎっぱなしの服が床に散らばり、束になった髪の毛が部屋の隅にかたまっている。いくつもある綿のような埃がフローリングをすべっていく。みんなで追いかけっこをしているようだ。もう滑ることもできない重量級の埃もある。正面にはワイドショーを流すテレビがあって、右側には白いテーブルがあり、その上にはビールの缶が散乱していた。

 お父さんはテーブルに肘をつき、だるそうにビールの缶をあおっていた。黒くまばらに生えたヒゲ、力のない顔、光りのない目、肉のない頬。弱々しくて、小さかった。大きく飛び出た喉仏がビールをのむのに合わせて上下する。

「ただいま」

 ぼくが言っても返事は返ってこない。テレビからコメンテーターの声が流れる。それが余計にぼくとお父さんの間の沈黙をはっきりさせていた。今日だけじゃなくて毎日だ。ぼくの「ただいま」はどこにも届かないまま消えていく。ぼくもその言葉と同じようにお父さんの世界から消えていた。そして無視をされることで、ぼくのなかのなにかがなくなっていった。それは毎日少しずつなくなっていき、ぼくは軽くなっていった。いずれぼくは重力なんか無視できるくらいに軽くなって、ふわふわと浮いてほこりのようにどこかに飛ばされるんじゃないかと思った。

 大切なものを差し出して、希望にすがりつく。ぼくは「ただいま」をやめなかった。

「お父さん」

 前を向いていたお父さんの顔がほんのちょっと動き、ぼくを見たような気がした。でも、ぼくにはわかっていた。それはぼくの願いが見せた幻だって。

 今が言うべき時だとぼくは思った。

「今日ね、ぼくはすごいことをしたんだ。正しいことを」

 ああ、どうしてだろう? 名前の由来を聞いたあの日の夜を思い出す。


 あの日、布団の中で夜遅くまで待っていた。お父さんが帰ってくると、飛び出して玄関までむかえにいった。

「おかえり、お父さん」

「ただいま」

 お父さんは静かに言う。お母さんを起こさないように気をつかって。

「聞いたよ。ぼくの名前がなんで正人なのか」

「そうか。お母さんはなんていってた?」

 疲れているはずなのにお父さんはちゃんと聞いてくれた。

「ぼくに正しい人になってほしいって、正しいことをえらべる人になってほしいって」

「そうだよ。お父さんは正人にそういう人になってもらいたいんだ」

「お父さんは正しい人なの?」

 思い切って聞いてみた。お父さんは寂しそうに笑い、ぼくから目をそらした。


 お父さんはあの日なんて答えたんだっけな。

 今のお父さんはテレビしか見ない。

「ぼくのクラスに吉田君っていう男子がいるんだけど」

 お父さんが息を吐く。

テレビでは人の悪口が続く。

「その吉田君がいじめられてたの」

 あきらめちゃだめだ。

「ぼくは今日、いじめをしてる岡本君にやめろっていってやったんだ。クラスでぼくだけが見て見ぬふりをやめて、動いたんだ」

 お父さんはテレビを見ている。

 あきらめちゃだめだ。

「ぼくは正しいことをしたんだ」

 お父さんはビールを手にとって飲んだ。

「ほらっ、お父さんはぼくに正しい人になってほしかったんでしょ。ぼくをみて。ぼくはお父さんの望み通りの子供なんだ」

 反応はない。

 まだ、大丈夫。きっと大丈夫。このぼくなら、お父さんは愛してくれる。

 その時、ぼくの質問へのお父さんの答えを思い出した。


「お父さんはね、違うんだ。お父さんもそういう人になりたいけど、なれないんだ。どうやってもなれないんだ」

 それきりお父さんは黙ったんだった。


 そうだった。そうして、ぼくはこれから先の未来を知った気がした。

 それでもぼくは続けようとした。

「ぼくは……」

 お父さんは椅子を引き、立ち上がった。ビール片手に。そしてぼくのそばを通りぬけ、自分の部屋に戻っていった。あとにはお酒のにおいが残った。消えることのないお酒のにおいが。テレビでは出演者が笑っていた。耳障りなほど大きな声で。

「酒にさえ酔えないのか」

 ドアの向こうからかすかに音が聞こえてきたような気がしたけど、それはぼくの間違いに違いなかった。


 ぼくは自分の部屋のベッドに倒れ込んだ。お父さんはぼくを見ようともしなかった。なにも残っていなかった。ぼくはどうすればいいの? わからないよ。ぼくはひとり。ひとりきり。ぼくの全てが引き裂かれたみたいだった。誰かぼくを助けてよ。もうぼくには耐えられない。

 なぐさめてくれるのは昔の思い出だけだった。それは痛みとともにぼくのところへやってきた。苦しく、心が痛んだ。ぼくにはわかっていたから。それが思い出のなかにしかないってことを。二度と同じことが起きないってことを。

 1年生が終わる3月の寒い日だった。学校から帰るとちゅう、ぼくは友達にからかわれて泣いていた。仮面ライダーを見ていることを笑われたんだ。あれだけ好きだったはずなのにみんな見なくなって馬鹿にした。

 ぼくはかわらず仮面ライダーが大好きだった。敵をやっつけるヒーローたちに、ぼくの眠気が吹き飛んだ。

「お前もしかしてまだみてるの?」

「あんなのちっちゃい子しかみないよ」

「恥ずかしくないの? あんなのをみて?」

「バカみたい」

 ぼくはなにも言えなくて、涙をこらえていた。悔しかったけど、さからえなかった。だまって、仮面ライダーが幼稚園の子しか見ない、ばからしいものだって、笑われるのを聞いた。

 友達がいなくなると、こらえていた涙がぼろぼろと溢れだした。ぼくは泣いたまんま家に帰りたくなくて、通学路の近くにある公園のベンチに座った。寒い。風が冷たい。これは天罰だ。ぼくが弱虫なことへの天罰だ。ぼくはもっともっと寒くなって、ぼくに風邪をひかせてくれればいいのにって思った。

 買い物袋をもったお母さんが歩いているのを見つけた。お母さんもぼくを見つけた。

「どうしたの?」

お母さんはぼくに聞いた。

「なんでもない」

 バレてるのはわかっていたけど、ぼくにも意地があったんだ。

 お母さんはぼくの隣りに座った。

「まさくん」

 ぼくは下を向いた。

 お母さんはぼくの肩をそっと包んだ。それは突然でぼくにはなんの心構えもできてなかった。

「まさ君、お母さんはまさ君の味方だから。どんなことがあってもまさ君を守るから」

 お母さんのぬくもり。優しさ。なんの迷いもないまっすぐな言葉。いつものお母さんからは想像がつかないくらい自信に満ちていた。お母さんとふれているところからぬくもりが全身にひろがっていく。ぼくはひとりじゃないんだ。

心のふたが外れて、ぼくは全部話した。お母さんはうん、うんとぼくの言うことを聞いてくれた。お母さんは最後に言った。

「話してくれてありがとう。つらかったね。嫌な思いをしたね。だけど、まさくんは悪くないよ。仮面ライダーが好きなことは悪いことじゃない。相手が複数ならいい返せなくてもしょうがない。大人が同じような立場だったとしてもなにもできないよ。大切なことはね、その悔しさを忘れないことだよ。それで、もういいんだよ。自分を責めなくていい」

 なくなってはじめて知った。当たり前のものすぎて、その大きな存在に気づかなかったんだ。ぼくはばかで、それを空気のように吸っては吐いた。目には見えなくて、口にもだせない。なにかって聞かれるとぼくにも答えられない。だけど、それは確実にあって、ないと生きていけない。 

 今、ぼくに愛をくれる人はひとりもいなかった。

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