第4話 日常が壊れた日

 あの日、全てが変わってしまった日。もうすぐで一年だ。小学4年生の7月15日。ぼくが悪いことをひとつもしてこなかったとは言わない。ぼくは弱かったから、いろいろと間違っていることをしてきた。お母さんに名前の由来を聞いた時に正しい人になろうって決めたのに、ぼくはその名前にみあうほど強くなかったんだ。ぼくは泣き虫で、弱すぎた。

 特になんてこともない日に、お父さんが働いていた会社が倒産した。日常はいつ途切れてもおかしくないくらいもろいことをぼくは知った。

帰ってきたお父さんは玄関先に座っていた。お父さんの背中は小さくその背中は抜け殻みたいだった。

「お父さん」

 ぼくが呼んでもお父さんは答えない。下駄箱のバラの花が強く臭った。

 お母さんがぼくのうでに触れて、目でぼくに聞く。「どうしたんだろう?」ぼくは小さく首を振った。黙っている時間が長引くほど、おかしいことが起きているという、嫌な予感がどんどん大きくなっていった。

「ねえ、どうしたのよ?」

 逃げ出したくなるような空気にたえられず、お母さんがきいた。

「ああ」

 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声。

 そして、ぽつりと呟いた。

「会社が倒産した」

 とうさんってあの倒産?

遠くでセミが鳴いていた。

「えっ、どういうこと?」

 お父さんがくるりとぼくらに体を向けた。お父さんの革靴がろうかを踏んだ。乾いた土がついていた。その顔には昨日まではあったはずのなにかが失われていた。

 死んだ顔で口が動いた。

「会社が倒産したんだ。今の時代よくあることだよ」

 ニュースを伝えるアナウンサーのように感情がなくて、ぼくの心はそれを聞いても静かなままだった。

「ちょっとまってよ。と、倒産したって、え、どうして? なにがあったの?」

「倒産だよ」

「な、なにいってるの? ほんとのこと?」

 お母さんはただただ驚いていた。

「そうだよ。二、三年前から徐々に危なくなってて、それが今日崩れた。お母さんに話したところで、どうしようもなかった。だからいわなかった」

「そんな、わけがわからない。どういうこと? 説明して」

「会社が倒産したんだ。それだけだよ」

「ねえ、なにいってるの? 嘘ついてるの?」

「残念だけど嘘はついていない」

 お母さんは頭の中がぐちゃぐちゃで、それはぼくも一緒だった。ただひとり冷静なお父さんはぼくたちの混乱を解こうとはせず、たんたんと爆弾のように破裂する事実だけをいう。

「嘘でしょ? 嘘っていってよ。ねえ、いいかげんにしてよ」

 お母さんはいっぱいいっぱいで、頭を抱え落ち着きを失いかけていた。お母さんにとって重すぎたんだ。

「ほんとのことだ」

「そんなのっ、そんなのって……。どうするのよ?」

 お母さんがちぎれてしまいそうなほど頭を左右に振り、ほんとのことを追い払おうとするけど、そんな努力に意味はなかった。それはいつまでもお母さんを放そうとはしなかった。

「どうするのよ? 倒産したって、どうするのよ? 私がそれではいと答えると思った? 倒産したってそれだけですむわけないじゃない。これからどうするのよ?」

 お母さんは憑りつかれたようにお父さんの方へ、一歩、また一歩体を揺らしながら近づいた。お母さんはたえきれず、あやふやになる。

「教えてよ? 黙ってないで、どうするのよ? 新しい仕事はどうするのよ? マンションのローンはどうするのよ? まさ君のお金はどうするのよ?」

 お父さんは答えない。黙ったまま、すがることしかできないお母さんのことを無視していた。

「答えてよ。私たち家族でしょ? お父さんが引っ張ってくれなきゃいけないじゃない。わからない。近所の人に無職の旦那だって笑われる。私たちは笑われる」

 靴箱に家族写真があった。そこに写るちょっと前のぼくたちが今のぼくたちのことを見ている。ねえ、写真の中のお母さんとお父さん、ぼくたちを助けてよ。ぼくは二人のことが好きなんだ。こんなのいやだよ。

 写真の中の二人はずっとおんなじ顔でおんなじ格好で1ミリだって動かなかった。

「どうしよう。どうしよう。どうして私はいつもこんな目にあうの? どうして? ようやくみんなよりも上に上がったと思ったのに」

 お母さんがお父さんにたどり着き、足をつかんだ。

「みんながうらやむ完璧な家族だったじゃない」

 お父さんは一切のやさしさを持たず、ただお母さんを見下ろしていた。

「家族、か」

 お父さんが言ったその一言はお母さんが言うのと同じ言葉なのに、同じ意味を持つとは思えないくらい、寂しい言い方だった。お父さんの目はとても悲しげだった。お父さんがその一言にこめたたくさんの思いをぼくはひとつも受け取ることができず、漂いやがて消えた。

 その日だけじゃなくて、ぼくは何度もその目をみてきた。疲れて休んだ公園で、信号を待っている車の中で、ご飯を食べ終わって、ぼくとお母さんがしゃべっているテーブルで。ぼくが話しかけても気づかない。どこか違う世界にとんでいて、その世界でなにが起きているのかぼくにはわからなかったけど、お父さんの目はとても悲しげだった。ぼくはそれを見つけるたびに、お父さんを連れ戻した。そうしないとそのままどこかにいっちゃいそうなきがしたんだ。そのあとでお父さんはいつもこう言う。「ごめん、考え事をしてたんだ」

「もう決めてある」

 顔を上げたお母さんにはさっきまでなかった希望があった。

「そうだよね。それはそうだよね」

 お母さんがお父さんに近づく。

「お父さんが無計画なわけないもの。いつだって家族のためを考えてくれる」

 お母さんは怖いくらいに希望にしがみついた。お母さんの目には入っていない。もう決めてあるといったお父さんがどこまでも無関心だってことを。言葉はあけっぱなしの口から垂れたよだれとかわらないくらい無意味だってことを。

「私にはもったいないくらいいい人なんだもん。それでどうするの? これからどうなるの?」

「僕はやめるよ」

 聞きなれない「僕」。お父さんから僕にかわった。

「なんのこと?」

 お父さんはそれに答えなかった。

「ねえ、どうしたの?」

「離婚するならそうしてくれ」

 ぼくの聞き間違いかと思った。お母さんの期待も変化がなかった。ただ少し目を細めただけだ。だから、ぼくは安心した。それは向こう側にあるものだから。ぼくの家にはいってきちゃだめなものなんだ。

「ごめんね。今なんて?」

「離婚するならそうしてくれ」

 お母さんは表情をなくした。そして、ぼくも。心臓が少し止まった。

「共有財産も全て君たちのものだ。僕は要らない。僕はこれまでのようには生きていかない。僕はやめる」

 お父さんが両手を広げた。手のひらが天井に向いている。肘がのびきらずに少し曲がっている。ショーの司会者のようだ。「私を見てみろ」と言いたそうだった。「これが全てだ」と。

「僕はやめる」

 お父さんは手を下ろした。

 あれからぼくはこれまでのお父さんをたくさん思い浮かべ、ぼくはお父さんを知らないってことを知った。お父さんの友達を知らないし、お父さんが子供の頃どんなだったのかを知らない。お父さんの気持ち、考えていることを知らない。ずっと一緒にいてぼくは知らない。お父さんは誰なんだろう。

 写真はかわらず、そこにあった。

 

「離婚、なにいってるの?」

 固まったお母さんの口だけが動いた。

「僕はわかった。これまでもずっと感じてはいた。なるべく見ないようにして、僕は生きてきた。そうだ、欠陥だ。ここで終わりにしようと思った。僕は終わりなんだ」

 お父さんの言うことを理解できなかった。

「僕は違う。これまでも違った。僕の手にはなかった。僕だけが違った。それは僕じゃない。これまでもこれからも。僕は探し求めていた。終わりだ。降りる。僕は、僕は……」

 一息ついた。

「僕は……」

 お父さんの口が二回動いたけど、何を言ったのか。ぼくには聞こえなかった。とても大事なことのはずだ。いつもこうだ。ぼくは一番大事なところで間違えてしまう。

「わけがわからない。あなたはあなたなのよ」

 お母さんにも聞こえていないみたいだ。

「あなただけが頼りなの」

 かけちがいのボタンみたいだ。

「あなたはこれまでのように生きていかなきゃいけないの。家族を養っておじいちゃんになってそれで家族に囲まれて死んでいくの。まさくんは大きくなって、有名な大学に行く。結婚なんかして、こんなこともあったよねって笑い合う。周りが羨むくらいに私たちは幸せにくらしていくの。離婚なんて考えられない。あなたは働かなくちゃいけない。失業した夫なんてみんなに笑われるんだから」

 お母さんはきちんと道を作っていた。それはきれいすぎる道だった。誰にいわれることもなくお母さんひとりで作った道だ。

「私はあなたたのために。あなたは私たちのために。まさくんはお母さんとお父さんのために。みんなで手を取り合って家族を作っていかなくちゃいけないのよ」 

 お母さんは笑いだした。ケタケタと笑い出した。

「倒産、離婚。そんなのだめよ。許されない。なにいってるの?ここは私の楽園なのよ。それが壊れるなんて……。」

 お母さんの笑いが止まった。

 そして、破裂した。

 鼓膜に突き刺さるような高い声でお母さんは叫んだ。なにかをのみこもうとするように大きく口を開き、目は見開いて、体全部で叫んでいた。それが人のものとは思えなくて、バケモノみたいだった。こんなお母さん見たことない。ぼくはわけがわからなくて、ぼくも破裂寸前だった。

 お父さんには響いていないようだった。お父さんははじめとおんなじ死んだ顔をしていて、お母さんの叫びに全く無反応で立ち上がった。そうして、足にしがみつくお母さんを振り払おうとした。ビニール袋が足にまとわりついたといった感じで。

「だめよっ、許されるわけないじゃない」

 お母さんは足をつかむことができなくなって、かわりにお父さんの背中に抱き着いて止めようとするけど、お父さんはかわらないしっかりとした足取りで出口に向かう。お母さんは叩いたり、ひっかいたりして暴れた。

「夢だったのよ。ようやく自慢できたのに」

 お父さんのスーツが破けた。

お母さんはひきずられる。

「お母さん」

 ぼくはどうしていいかわからなかった。

 壊れちゃう。お母さんも、これまでみんなでつくりあげてきたものも。

「お父さん」

 ぼくはやめて、ともいえなかった。ぼくは怖くて、怖くて、たまらなかった。

「どうなるかわかってるの? あなたはおかしくなったの? ありえない。私はどうなるのよ?」

 お父さんがドアノブに手をかけてドアを開けた。日が暮れてからまだ間もない空はほのかに赤を残しながらもすでに輝きを失い始め、夜がものすごい勢いで侵略を始めていた。

 ろうかで近所のおばちゃんが立ち話をしていて、そののんきな声がぼくたちのところにも聞こえてきた。旦那さんの悪口で笑いが起きて盛り上がる。お母さんは手を放した。叫ぶのもやめて、隠れるようにろうかの端で髪と服の乱れを直し始めた。お母さんはお父さんが出ていくことよりも、周りの人に今の状況がバレるのを嫌がったんだ。完璧な家族を演じていなきゃいけなかった。お父さんは自由になり、出ていこうとする。お母さんは近所の人にどう思われるかを気にして、お父さんを止めることができず、ただ見ている。動けるのはぼくしかいなかった。

「お父さん」

 ぼくはそれしか言えなかった。聞こえているはずなのに、お父さんは振り返らない。その背中が遠かった。

「お父さん」

 ぼくは、一歩二歩と前に進んだ。お父さんは出ていこうとする。止めるなら今しかない。

 動け、動け。

 だけど、ぼくの足は止まり、口は閉じた。

 ぼくの誕生日を思い出していた。

 電気を消した部屋でぼくは椅子にすわり、年齢の数だけろうそくを立てたケーキが運ばれてくるのを待った。お母さんがケーキを持ち、お父さんがその隣にいる。ろうそくの火がゆらゆらと揺れ、暗闇をほのかに照らす。そのあかりで浮かんだ二人の顔は笑顔だった。ケーキをぼくの前において、歌を歌う。「ハッピーバースデートゥユー、ハッピーバースデートゥユー、ハッピーバースデーディア正人、ハッピーバースデートゥユー」そしてぼくが吹き消した。

「正人、誕生日おめでとう。お前はお父さんの一番大切な宝物だよ」

 ほんとうはぼくは何番なんだろう? 二人はどれだけぼくのことを考えていてくれているんだろう? 二人にとってぼくはなんなんだろう? ぼくはどれだけ愛されているんだろう?

 ぼくの土台がぐらぐらと揺れていた。

 行け、行くんだ。馬鹿。壊したくないんだろう? ぼくしかいない。守れるのはぼくしかいないんだ。

 ぼくの体は動いてくれなかった。ぼくは知るのが怖かった。 

 今でも思う。あの時走って、お父さんの背中に飛び込んでいたら、どうなっていたんだろう、 と。  

 たぶんなにも変わらないんだろうな。ただ、もしぼくが駆け出していたら奇跡が起きたんじゃないかって想像することもあるんだ。そんなことはありえないって、頭の中で否定するけど、考えずにはいられない。お父さんがぼくを背中で受け止める。そして、お父さんはいうんだ。「ごめんな。大丈夫だから」

 後悔してる。もしあの時飛び込んでたなら。ぼくは怖かったんだ。無視されることを。取り返しのつかないことが起きているって頭にたたきこまれることを。ぼくが愛されていないと知ることを。ぼくは最後の最後に勇気を出せなかった。

 お父さんがドアから手を離す。静かに幕を降ろすようにドアがゆっくり閉じていく。お父さんの背中がそれによってさえぎられてく。そして、ドアは閉じた。


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