22『人間模様15~決断と解放と~』

 ならば、自分はどうするべきか――

 廃屋を慌ただしく行き交う視線と同様、詩緒の考えもまた迷走の最中にいた。

 『ヤラセ』……ドキュメンタリというジャンルの中で、ある種絶対の禁則ともいえる行為への加担。たとえ水面下では当たり前のように横行しているとはいえ、ひとたび表沙汰になってしまえば業界内外から一斉に鼻つまみ者にされてしかるべき行為といえた。

 かといって、それを指示した千駄木の意思に反旗を翻せば、自分だけがもっと確実な形で窮地に立たされる。それで助かるのは自分を除く他のスタッフと、せいぜい番組のイメージだけ……救われるという見返りもなしにそんな自己犠牲をあっさり受け入れられるほど、詩緒は聖人ではなかった。

 喩え実行に移していなかったとて、ヤラセを承諾したという事実だけでもそれが明るみに出れば番組、そして自身にとっては致命傷。志賀谷はそれを知った上で詩緒を責めるでもなく、かといって千駄木の理不尽な押し付けに対し助けの手を差し伸べるわけでもなく、ただ反応を待つだけでいた。

 方や嵐の洋上、方や無風の湖面。瞳にそんな対比を映しながら、見合い続ける。

 そのひどくゆっくりな時間の経過が、詩緒の心を追いつめていった。まるで水槽の中で縛られて、上から水を注がれているように増していく閉塞感と苦しさの中――


「志賀谷さん、私は、もう」

 

 やがて、限界はあっさりと訪れた。

 明言こそしなかったものの、縋るような声で助けを求めたとなれば、起きていたことを認めたも同然だった。

 当たってほしくない想像が当たってしまった志賀谷が、肩を震わせながら声を絞り出す詩緒を見て一瞬だけ顔を曇らせる。


「いいかい」


 それから大きく頷き、しっかりとその目を合わせた。


「詩緒ちゃん、この番組はだ。起きた事を大袈裟に演出はしても、起きてもいない事を起きた事にしてはいけないんだ」


 静かに、しかし強い口調で向けられる、志賀谷の番組観。詩緒は自らの頬に触れるまでもなく、顔が悲観に歪んでいくのを感覚として覚えていた。

 誰の助け舟もないまま、自分にとって何の救いにもならない倫理観を貫けと言われている……もはやそれは、芸能人としての死刑宣告とも言える突き放しの文句だった。

 





 ※     ※     ※





「いきます、か」


 カガミが意を決するように独り言ち、すっと小さく息を吸い込む。それに合わせて、シオもまた僅かに顎を上げてカメラの方を向いた。

 女性陣に取り囲まれてよほど懲りたのだろう。カガミの目がシオの方を向く回数は極端に減っている。ふたりとはやや離れた後方で座っている千駄木が見ている限りでも、その変化はありありと伺えた。

 まぁ、何があったのかは大体察しがつくけどよ――千駄木は顎を撫でながら、カメラの前で最後の立ち位置確認を行う鏡に向かって嘲笑とも同情とも取れない視線を送ってやる。

 あいつは俺みたいに要領がいいわけじゃない。大方シオを言いくるめようとして失敗したんだろう。

 気の毒だが後は自分で何とかするんだな。こっちにとっては事情はどうあれ、何かを伺うようなおどついた視線が鳴りを潜めてくれたということだけが事実であり、それは中継にとって紛れもなくプラスといえる。

 それよりも――カウント3から声を消したADの立てる指を見て、千駄木は頭の中からその事を完全に追い出し、視線を左へスライドさせる。

 そこにはカガミと同様に、逡巡や戸惑いを一切見せずに凛と背筋を伸ばすシオの姿があった。


「先ほどは映像が乱れてしまい、誠に申し訳ございません……ようやく、我々も落ち着きを取り戻しました」


 長台詞をつらつらと並べながら、つい30分前に大騒ぎしながら逃げ出した部屋のドアノブに手を掛けるカガミ。その手付きや映る横顔にもはや躊躇ためらいや恐れは見られない。


「ここで私たちに何が起きたのか。スタジオや視聴者の皆様の中にはよくわからなかった方もいるかもしれません……」


 その安定感は中継に集中しているからというよりも、からといった方が、理由としては正しかった。自分に続いて1歩遅れながら無言でドアを潜るシオを一瞥し、彼女が歩みを止めたタイミングで、カガミは再びマイクを口元へ持ってくる。


「この床をご覧ください。床一面に散らばるこのガラスは、中継を続ける我々の後ろで突然、何の前触れもなく割れたのです」


 画角一杯、我ながらうまく散らしたじゃねえか。

 首を伸ばして展開されたカメラの液晶を覗き込んだ千駄木は、そこに映り込む無数のガラス片に満足げな笑みを浮かべた。

 さっき上げてきた動画の反応も、頑なにヤラセだと騒ぐ一部のアンチコメントを除けばおおむねは好調だった。あとは目一杯引っ張った後にシオにいつものそれっぽいポーズで『除霊』させればいい。

 ただ一つ気になることがあるとすれば――千駄木は静かに目を横へ、カガミの隣へと滑らせる。

 そのシオが志賀谷と喋っていた僅かな時間で、不気味なまでに落ち着きを取り戻していたのがどうにも引っ掛かっていた。 

 カガミの変化と同様、番組の進行にとっては悪い事ではない。だがその打って変わった態度は僅かに不安を覚えるほどの急変とも言えた。

 ……一体、あいつに何を吹き込まれた?

 千駄木は想像を巡らせるが、真逆ともいえる性格を持つ相手の内面を推し量るのは霞を掴む様な話であり、結局のところ答えが出ることはなかった。

 まぁいい。イレギュラーが起きすぎて神経が立っているだけだろう。

 その棚上げが甘い目算であるとは露とも思わず、首の関節を鳴らしながらべンチに深く座り直して気分を切り替えた千駄木は、来るクライマックスの成功に確信を抱いてシオとカガミを眺めていた。


「奇跡的にスタッフにケガはありませんでしたが――シオさん」


 一度言葉を切り、カガミは床から目を離す。カメラへと戻す顔に浮かべる表情と口元を引き締めてから、肩口ごとシオの方へと向いて呼び声を上げた。


「やっぱり、ここにいるのは相当凶悪な霊みたいですね」


 ――そこにいるのがどんなものであれ一言一句変わらない、毎度おなじみのセリフ。

 『霊ドル』にとってその言葉は番組のクライマックス、つまりはシオによる除霊ショーの始まりを示す合図だった。それを受けてシオは一歩前に進み出て、自分に寄って来るカメラに向かって力強く頷く。

 そんなお決まりの流れが続くはずだった。


「……」


 しかし。

 踏み出たものの、普段よりも明らかに長く間を空けるシオに、それまで緊張を前面に出していたカガミの顔がだんだんと戸惑いを含むものに変わっていく。

 そんな彼を中心としてスタッフに、ひいては現場全体にさざ波の如く広がっていく異質さを帯びた空気に、志賀谷を覗く全員の顔が曇っていった。


「……あの、シオ、さん?」


 耐えかねたように画角の外からカガミが続きを催促するが、シオは全く動じる様子を見せない。誰もが放送事故の予感を覚えて焦りを抱き始める中、ただふたりだけは全く別種の感情に支配されていた。

 ひとりは自らを戒めるように腕を組んで、じっと不動を貫く志賀谷。これから起こる事態がある程度正しく予測出来ている彼は覚える不安を押し殺し、何があっても受け入れる覚悟と共に泰然とシオを見守っている。

 そしてもうひとりは千駄木。事前の根回しによる中継の成功、その確信を手放せないままいや増していく『何かまずい事が起ころうとしている』という胸騒ぎに座る尻をもぞつかせている。

 シオには言い含ませたはずだ。アイツにとって俺の下知を無視する事なぞびた一文のメリットもないし、何より現場をひっくり返すような度胸はないはずだ。

 ……ならば、なぜ動かない?


「おい、一度外せ――」


 張っ倒してでも言う事を聞かせにゃ、これ以上はマジモンの事故になるぞ――

 千駄木は弾かれたバネのように立ち上がったが、しかし一瞬遅かった。千駄木がカメラに制止を求める声を掛けると同時に、詩緒は大写しになった自分の顔を目一杯左右に振っていた。


「ここに、悪霊は、いません。ガラスは、番組のスタッフが、割ったものです」


 テレビの前の存在に向かって放つ、ゆっくりと噛んで含めさせるような声。

 詩緒の打ち立てた明白に翻した反旗は、誰にも留められないまま電波に乗っていった。

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