19『人間模様13~不可視の善意?~』

 手を抑えてよろめく各務とそんな彼から飛びのいた詩緒。僅かに立ち位置は動いても、ふたりはほとんど正方形の部屋の中心に位置している。入り口から見て左側の詩緒と右側の各務。開いたふたりの距離は人ひとり分にも満たないが、今やそこには確かに見えない境界が存在していた。

 壁、と言っても差し支えない。部屋の中を飛び交う瓦礫や小物はその一切が詩緒の方へと向かうことはなく、すべての軌道は各務に向かって集中線を描いていた。

 それが比喩にせよ否にせよ、状況を俯瞰してみる事が出来たならば、巻き起こっている事態は不自然の極みであり、そこにの意図があることは一目瞭然なのだが、渦中にいる当人たちがそれに気づくことはない。


「ひっ、ひぃぃっ」


 手の痛みも忘れ、ただ身の安全を求めて恐怖に抜けた腰を引きずり床を這いまわる。そんな各務とは対照的に、詩緒は再び起きた超常現象をただ、瞳孔を限界まで開いた瞳に映していた。

 一見その表情は微動だにせず、眉根ひとつも動かしていない。だが断じてそこに怖い気持ちが無いという訳ではなかった。

 今の詩緒は動かないのではなくのであり、叫ばないのではなくだけに過ぎない。

 むしろ『各務からの暴行』という恐怖から解放された束の間の安堵に気持ちが弛緩したことが、すぐさま起きた別の意味での恐ろしさを際立たせていた。

 ふたりにとって何倍、何十倍にも長く感じられた数秒間が過ぎ、その間絶え間なく続いていたものと地面、あるいは壁がぶつかり合う音が段々と小さくなっていく。

 小心者は危機から逃れられる機会を見逃さない。脂汗を垂らしながら切れる息に耐え切れず顎を上げたその視界に、各務は半開きのままのドアを捉えた。


「うっ……がぁ!」


 それは危機逃避、大袈裟に言えば生存本能の成せる業か。各務はほとんど気合だけで下半身に喝を入れて立ち上がり、全力で外へ繋がる僅かな隙間にその身を滑り込ませた。


「痛って!」


 各務の背中が完全に部屋の外に出ると同時に、部屋へと静寂が戻る。自らを恐慌に陥れた相手と起きた事態、その両方から完全に置いて行かれていた詩緒は、廊下から最後っ屁のように聞こえてきた各務の悲鳴と地面をするような音――恐らく、無理をしていた足腰では上手く走り出せず、転んだのだろう――で、ようやく呆けていた意識を元に戻していた。


 ……私も、逃げなきゃ。

 異常な事態は一旦落ち着いたものの、これで終わりという保証はない。何せ自分はさっきと今、2度も恐ろしい目に遭っているのだ。ならばもう一度繰り返されてもおかしくないし、今度こそ――




 もしかして、



 

 瞳が揺れ、膝が笑う。つられて小刻みに動く自分の踵が地面をにじる音にさえ、詩緒の身体がびくりと震えた。

 間違いない。きっとわたしが、霊能者なんか気取ったから、怒っているんだ……

 事実を繋げただけの仮説は、狭窄きょうさくに陥った思考の中では時として真実よりも真実らしい形を成す。自らの生み出した妄想に追いつめられた詩緒は、鉛のように重たく感じる身体に鞭を打ち、出口へと駆け出していく。

 しかし、各務の半分にも満たない小幅で歩むその脚が部屋の敷居まであと一歩と迫ったところで、誰も触れていないはずのドアが勢いよく閉じた。


「嘘、でしょ……?」


 恐る恐るノブに手を振れ、何も起こらない事を確認してから握り込んでぐっと手に力を籠める。ドアはピクリとも動かない。

 

「え、ちょっと、嫌……」


 まさか、閉じ込められた――

 そんな最悪な想像を振り切るように、詩緒はドアノブを滅茶苦茶に回す。同時に肩口から全体重を掛ければ、扉は蟻の這い出る隙間程度は生まれた。だが人間の身体が通り抜けるには遠く及ばず、そして少しでも気を抜けばまるで何者かが向こうから押さえつけているかのように、たちまち中と外を無情に隔絶してしまう。

 鍵は閉まっていないのに、どうして。


「誰か!誰か開けて!」


 手の皮がむける痛みも厭わず、握った拳を立てにドアへと力いっぱい叩きつけるが、誰の反応も返ってはこない。その間も左手では絶えずノブを回し続けていたが、振り下ろす腕が限界を迎えてもなお、蝶番が動くことは叶わなかった。

 


「……やだ、もう、やだよぉ」


 どうあったって、この部屋は私を逃がさないんだ――

 悟ると同時に、詩緒の頭の中でずっと張りつめていた何かの糸がついに切れた。それは体力と気力が底をついた合図であり、身体は薄紙が舞い落ちるようにふらふらと地面へと手折れこんでいく。

 

「どうして、わたしだけこんな目にあわなければいけないの」


 それは誰か充てたことばではなく、いわば自分を取り巻くすべてに向けて絞り出した声だった。

 何度も何度も心で浮かべながらも最期の一線として口に出すことだけは忍んでいた呪詛。それが喉から確かな形となって吐き出された途端、それまで懸命に堪えていた感情の堰は一気に破れた。

 怖い。

 悔しい。

 情けない。

 周りの人と人以外の何かにぶつけられ続けた理不尽に、感情はもはや分別すらも付かない濁流となって詩緒をかき乱していた。抵抗の意思も全て押し流され、ただ地面へと折った膝の中心で喉をしゃくり、鼻をすする。

 それでもどこか遠慮がちに聞こえるその音と一緒に、零れ落ちた涙が埃を吸って、地面に歪な痕を転々と残していった。

 





 ――ちりん。  

 やがて涙も枯れかけ、絶えず震わせていた喉が痛みを訴える頃。不意に耳へと届いた軽い音に、詩緒は眼を擦っていた手を止める。

 それは小さく、また一瞬で消え去るような微かなものに過ぎなかった。しかし久しく聴くことのなかった自らの泣き声以外の音は鮮烈な印象を残し、詩緒の頭の中で想像の形を結んでいく。

 キーホルダー……?

 いや、もっと小さい。それに音は連なっていなかった。

 つまり、――

 詩緒は頭を振ってまつ毛に残る涙を払い、記憶を頼りに音の方向へスマートフォンのライトを向ける。闇へと懸命に振られる光が、やがて三つ連なる小さな緑の光を反射した。

 

「あっ!」


 見間違えるはずのない、エメラルドの照り返し。

 感嘆に思わず声を上げた詩緒が腕を伸ばし、その掌に実際に過ぎた時間の何倍も久しく触れてなかった気のする感触を収める。

 

「良かった……」


 でも――しっかりと胸元にタイピンを付け直しながら、詩緒は拾った場所へともう一度目を向ける。

 どうしてあんな場所を見落としていたのだろう。物陰でも、四隅でもない。見つかったのは何度も視線が往復したはずの位置だった。

 それに……備え付けられた棚や瓦礫が作る段差を見回すが、いずれもそこから部屋の中央へタイピンが落ちる軌道を描くには明らかに無理があるといえた。見つかった切っ掛けは床に落ちる音だったが、一体どこから落ちたというのだろう。

 説明が付かない。だとすれば異常な現象の名残だろうか。

 他のものは一切動かず、タイピンだけを床に落とすポルターガイスト?なんのために?

 そう言えばあれだけ物が飛びかう中、よく自分にはひとつもぶつからなかったものだ。各務はあちこちに傷を作りながら這う這うの体で逃げ出したというのに。

 思えば千駄木の時もそうだった。巻き起こる事自体は怖いけど話はうやむやになった。今だって、あのまま何も起こらないよりマシな結果に落ち着いていると言える……

 

「まさか……あなたが?」 


 ここにいたのは自分と、とっくに逃げ出した各務と、きっと

 見つけてくれたのは。

 助けてくれたのは。

 点と点を繋ぎ思い至った詩緒は、タイピンを握りしめたまま薄闇に向かって問いかける。

 しかし返答はなく、代わりにその背中でゆっくりとドアが開く音がした。 

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