18『人間模様12~既視感~』
いつも、我慢するのは私だった。
自然体でなく霊能者と言う嘘の役割を務めるのも、おどろおどろしい廃墟の先頭を歩くのも、横柄なスポンサーの接待に最後まで付き合うのも、いつも彼ではなく、私だった。
現場へと向かう番組のメインMC。立場だって、怖いのだって一緒のはずなのに。
「役割分担」とか、「スポンサーが喜ぶから」とか、「求められているのは女の子のそういう姿だから」とか。私が渋面を浮かべる度、彼は都度都度もっともらしく、かつ自分を悪者としない理由を見つけて来ては、柔らかい強制を押し付けて来ていた。
思えばそれも周囲に対する『自分は悪くない』というイメージを植え付けるための工作に過ぎなかったんだ。
今だって――
それまでひと時も止まることなく目の前の薄闇をかき分けていた詩緒の手は、今や違う種類の暗さに囚われてしまっていた。
「カメラの前が難しいってんなら、後でSNSとかでもいいからさぁ……聞いてる?」
じゃり、と踵をにじり、各務は急かすように肩へと回した腕を軽く揺する。抵抗することも出来ずゆらゆらと揺れる視界の中、茫洋とした意識のまま詩緒はまたも指先を自らの胸元へと向かわせていた。
しかし、救いを求めるように伸ばしたその指先が、またも宙を切る。
ああ、そうだ。
ここに私の救いはない――
代わりに伝わって来るのは、留める物がなくなったネクタイの剣先が指元を撫でる頼りのない感触。詩緒は改めて、わが身の置かれている無情さを突きつけられた気がした。
それは母から貰ったお守りを無くしたことだけではない。
もしここで大声を出せたならば、唯一の味方である志賀谷が駆け付けてくれるかもしれない。だが口と調子だけはいい各務の事だ。半開きのドアの向こうへ誰かの影が見えるより前に、口下手な自分よりも早くこの場を切り抜ける言い訳を並び立てることだろう。
各務の腕を振り払って逃げようかとも思った。しかし一見緩く巻かれてぶら下がっているその細腕も、詩緒が僅かに身を捩った途端、反射のようにがちりと固めて逃れる事を許さなかった。
助けもない。
逃げられもしない。
支えもない。
つまり、どうしようもない。
現状を省みるほどに胸のうちへ広がっていく諦観は、最早俯いた詩緒の目に涙すらもたらさなかった。
代わりにぎしりと、奥歯が音を立てる。周りを取り囲む大人の男にとって都合が良いように――それ以外の振舞いを許されないこの現実は、ただただ詩緒へ乾いた苦痛だけを伝えていた。
ただ、もう苦しい嘘を吐きたくないというだけなのに。
どうして、こんな目に遭わなければいけないんだろう。
湧き上がる息苦しさに、詩緒はたまらず胸元に伸ばしていた手をネクタイごと思い切り握りしめていた。
萎む掌と折れる指の間に抵抗はなく、挟まれた布地に皺が刻まれていく。そこにあるはずの金属の硬い感触は、未だ暗闇のどこかに紛れている。
今の詩緒にとってその事実は、こうした理不尽に晒される度に耐える力だけでなく、耐える理由そのものを失くしている事と同義だった。
「あなたも」
抑えのなくなった感情をそのままに、詩緒の口からついに言葉がこぼれ出ていく。そんな彼女の内情を推し量る器もつもりもない各務は、やっと返ってきた反応に目を輝かせていた。
「千駄木さんと同じことを言うんですね」
しかし。
続く声を聞いた途端、その期待に満ちた表情は一瞬にして固まる。
「……なんだって?」
俄かには信じがたいといった震える声で、各務は訊ね返す。引きつりながら必死に保っていた笑顔も、ふたたび反応を見せなくなった詩緒を前にしてみるみるうちに醜く歪んでいった。
本来見る者を惹きつけるように整えられたその顔も、この場においてはかえって滲ませる怒りをより鮮明に、そして滑稽に表す小道具にしかなり得なかった。
それを嘲るものも、嗤うものもいない。やがて各務の沸点は静かに、しかし唐突に訪れた。
「ざけた事言ってんじゃねえぞ!」
突き放すように回していた腕を離した各務が、すぐさま逆の手で詩緒の襟首を逆手に掴み上げる。
承諾以外の返事が返ってきた事で要望を突っぱねられたと受け取ったのか、それとも内心でその傍若ぶりを軽蔑している千駄木と自分を同類項になぞらえられたからなのか――いずれにせよその激昂ぶりは、いままで現場にいるクルーの誰も見た事のない豹変だった。
普段の詩緒にならば、過分と言えるほど効果を発揮する恫喝となり得ただろう。当然、怒りに支配される各務の思考の片隅にもその目算はあった。
だが自暴自棄ともとれる諦念に囚われた人間にとって、他人の激情など帆を畳んだ船に吹く突風と変わらない。やがて乱暴に籠められた力に顎が上がり踵が地面を離れてもなお詩緒は一向に動じないまま、ただ感情を一切乗せることのない瞳で各務を見返していた。
「ふざけやがって……」
天井を向く顔の角度のせいだけではない。
この女、俺を見下している。
それは全くの誤解であるにも関わらず、各務は覚えた妙な確信がもたらす衝動に従うまま、右手が反射的に振り上げていた。
一瞬のためらいすらも見せず、握られたその拳が自分に向かって加速してくる。
顔に走る衝撃の予感。それを覚えた詩緒もまた、意思とは無関係に強く瞼を閉じていた。
これまでも男の人にひどい事は沢山言われてきたけど、ぶたれるのは初めてだな。
どれくらい痛いのかな。
どれくらい血が出るのかな。
お化けも怖いけど、痛いのも怖いな。
嫌になっちゃうな。もう。
瞼の裏、一切の光が差さない暗闇の中。詩緒は襲い来るであろう衝撃に思いを巡らせる。
いくら考えたところで仕打ちに対する納得も、痛みに対する覚悟も出来るはずはない。単にわずかな猶予の間で膨れ上がる恐怖、そこから思考を逸らせる心の逃避でしかなかった。
実際に痛みが届けばはあっさり散逸する、無駄な抵抗。
いっそ、あれこれ考えているうちに痛みが来てくれれば良いのに。
そんな願いとは裏腹に、目を閉じる前に見た各務の手と自分の顔との距離に対し、肝心の激痛が訪れるにはどうにも遅い。いつまでも訪れないその瞬間にその内にもはや考えを逃がす先すら見失った詩緒が、恐る恐る瞼を開く。
その視界が開ける直前、襟首を掴む各務の手から軽い振動が伝わった気がした。
「……えっ?」
やがて開いた眼前へと広がっていた光景に、詩緒の口から呆けた声が漏れる。
自分の顔ではなく各務の握り拳に、何かがめり込んでいる。
「ぎゃっ!」
そして自分ではなく、各務が短い悲鳴がを上げていた。
何が起こったかわからないまま掴まれていた襟を離され放り出された詩緒の横で、一拍遅れてごとりと重い音が響く。
余力で地面2,3度転がったそれがマグカップ大の瓦礫であり、自分を殴るはずだった手を押さえて、各務が激痛に苦悶の声を上げている。
つまりその拳が自分の顔へ届く直前に、その拳へと突き刺さった。
……なら、一体誰が?
ようやくの理解と新たに沸き上がった疑問を前にして、詩緒は辺りを見回す。ドアは相変わらず開いたままであるものの、人の気配はない。
そういえば、千駄木さんといた時も――
「な、何だ?!」
いち早く異変に気付いた各務が、動揺に声を震わせる。
詩緒の考えがそこまで至ると同時に、至る所から鳴り響く誰かが乱暴に壁を叩くような轟音が、瞬く間に部屋を満たしていった。
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