17『人間模様11~仮面と泥~』


「ない……ない……」


 薄暗い部屋でか細く、断続的に響く呪詛じゅそのような声は、ともすれば幽霊よりも薄気味悪いものだったかもしれない。

 『日生 詩緒』は割れた窓から差し込む微かな月明かりだけを頼りに、ボトムスと指先が埃に汚れるのも一向に構うことなく、四つん這いで部屋の床へと視線を這わせていた。

 恐怖がマヒしたわけではない。時折吹き込む温い微風の音にすらいちいち怯え上がり、この部屋から逃げたい気持ちは何度でも蘇った。しかしその度に胸元、ネクタイの剣先に手をやり、そこに在るべきものを見つけ出すまでは立ち去れないという気持ちを奮い立たせる。

 今は病に臥せっている母から初のテレビ出演を祝って贈られた、エメラルドのあしらわれたタイピン――大小にかかわらず人目に出る仕事の際、根っからの小心と現場の緊張に負けそうになる度、シオは袖やカメラの外でいつもその小さな輝きを握りしめ、母の守護を勇気に変えて立ち向かってきた。

 いつしか逆説的に、それがなくては日生 詩緒わたしわたしシオになれない――そう思い至る程に、絶えず彼女を支えてきたもの。

 半身の依り代ともいえるそれを無くす恐怖はいるかもわからない幽霊のもたらすそれと比べて遥かに大きいものだった。

 さっきまで床の向こうから聞こえてきた喧騒が止んだ。きっと今頃、志賀谷さんや千駄木……プロデューサーは再開の準備を進めている。一刻も早く見つけなければ皆にまた迷惑が掛かってしまう。そんな焦る気持ちとは裏腹に、月明かりは一向にエメラルドの緑光を反射してはくれない。

 それでも詩緒は諦めず、懸命に探し続ける。

 スマホのライトを片手に隅から隅へ、終わればまた元の位置に戻って膝を折る。

 繰り返すほどに眼先と指先に神経が集まり、雑念が遠ざかっていく。それは執念と無意識に生じている恐怖に対する逃避心から生まれる異様な集中力だった。

 それこそ、後ろから近づく足音と人影にも気づかないほどに。


「シオっちってば!」

「うひゃあっ!」


 数度目。いよいよ真後ろに立った人影が発した大声に前方以外を全く閉じた感覚がとうとう打ち破られ、詩緒は飛び上がって悲鳴を上げた。


「こんなとこいたの」

「な、なんですか……カガミさん」


 ばくばくと鳴る心臓を押さえながら振りかった先には、笑みを驚きに引きつらせたカガミが立っていた。


「いや、そろそろ休憩終わるっぽいけど……何、探し物?」


 好奇心に語尾を上げたカガミは、言葉を切る前に詩緒の照らすライトの先に視線を宛てながらしゃがみこむ。スタッフやカメラの前――つまり、撮影の現場よりも気安い言動は、彼も詩緒と同様に業界の目から解放された今『MCのカガミ』からただの『各務 恭二郎』へと人格を戻しているからだった。

 彼にとってのタイピンは、周囲の目そのものと言えた。


「手伝うよ」

「あ……」


 その声だけを聴けば善意以外の何物にも過ぎない申し出だったが、それでも詩緒は当惑に濁った声しか返す事が出来なかった。

 掛かる彼の吐息に、思わず身を引いてしまう。その少し伸ばせば肘先が触れてしまいそうな近さに、何か言い知れぬ嫌な予感を覚えたからだ。

 何度もカメラの前で並び立ってきた。ふたりきりでの付き合いこそないがプライベートでだって隣の席に座ることくらいはあった。だが、ここまでの近さは今までに経験がない。それが単なる偶然である事を願ってシオはしばらく待つ。しかし当の各務は何も悪びれる事のないまま前方の薄闇へと目をやり、探すように目線を動かし始めた。

 つまり、この距離感は故意によるものである。


「……なんですか?」


 そう結論付けると同時に我慢できず、、シオは怪訝な顔を隠せないままに訊ねていた。

 これといって、平時から彼自身へ嫌悪を抱いているわけではない。

 しかし息遣いまで聞こえるほどの近さに何故寄る必要があるのか。態度の不透明さが渦巻く胸騒ぎをより一層掻き立てていった。


「いや、一緒に探した方が早いでしょ?」

「でも……」


 本当にそうならば、効率を考えて互いに離れて探した方がいいのではないか。 

 思うものの口には出せず、視線の居所を求める詩緒は各務の手へと目をやる。そこへ移る指先の動きは明らかにおざなりで、それが単なるポーズでしかない事。

 同時にその裏に、何か別の狙いを忍ばせていることを物語っていた。


「……さっきは、突き飛ばしてごめん」

「えっ」


 不意に聞こえたしおらしい声に、詩緒は思わず心の中で高さを増していた警戒の壁を一段低くした。

 ――単純に、謝りたかっただけなの?

 きっと今は、困惑に眉根が寄っている。そんな自分の顔を必死に捉えようとしながらも、ばつの悪さについ泳いでしまうその視線を見ているうちに、知らずして固く張っていた肩肘までも解れていく。

 きっと大勢のスタッフの前では気恥ずかしくて口にできず、ここまで追いかけてきたのだろう。ならばパーソナルスペースを大幅に超えて踏み込むこの誤った距離感も、彼の不安と緊張の表れと取れなくもない。


「自分でも訳わかんなくなってて、怖くて。置いて逃げようとしたわけじゃないんだ。ホントだよ?」


 向けてくる声と瞳が揺れている――彼も私と同じ心地でいる。

 同類の相哀れみは奇妙なシオの心に連帯感すら芽生えさせていった。

 真摯な反省と、贖いとしての手伝い。 

 自らの目に映る各務の態度に疑う余地はない。 


「……気にしてませんよ」


 だから、返すフォローと一緒にシオは笑顔を作った、つもりだった。

 彼も私同様、千駄木からの覚えが良いわけではない。ならば彼の為にも今は起きた事の全てを一旦心の内に仕舞い込み、シオとして撮影を最後まで続けたほうがいいのだろう。

 そんな事すら思い浮かべながら浮かべた、赦しとしての笑顔。これを受け取らせれば、やっと改めてふたりでタイピンを探し始められる――はずだった。


「だったらさあ」


 詩緒の微笑みを見た各務の顔が瞬時に、暗く歪んでいく。


「シオっち」


 改めて向ける声までをも低くして、いよいよカガミは距離はそのままに体ごとシオに向き直る。

 右の手だけは相変わらず前の暗闇へと伸ばしているものの、最早その指先は完全に動きを止めていた。

 そんな事はどうでもいい。今やその顔だけでなく手先までもが、各務の内面を雄弁に物語っている。


「……あとで、ってカメラの前で証言してよ。簡単でしょ」


 さっきまでとは全く意味合いの異なる笑みに口の端を釣り上げる各務に、詩緒の内側に広がっていた安堵は瞬時に塗りつぶされ、代わりに頭の中が色を混ぜ過ぎた絵の具にも似た、不快に濁る色へ満たされていく。

 身体は再びこわばり、返す言葉を見つける事が出来なかった。仮に正常な思考のまま受け止められていたとしても、反応は同じだっただろう。

 言っている事の、意味が解らない。

 口を半開きにして硬直する詩緒を見て、察しの悪さに沸き上がる苛立ちをため息に変えて荒々しくはいた後、各務は続ける。


「『ヘタレだけど優しい』ってのがグループでの俺の立ち位置でね。それが女の事ほっぽり出して逃げたとあっちゃ、イメージ致命的なわけ。わかる?」


 一旦浮かんだ心は、その分より深くへと沈む。

 身勝手な理由を述べながらぐるりと方へ回してくる各務の手を振り払う気力すら萎んでいく。

 この男も千駄木と同じだ――

 各務に引き寄せられる詩緒の顔からは、音もなく取り繕いの笑顔が消え去っていった。

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