16『人間模様10~汚名 挽回~』

 足の速い順――あるいは、肝の小さい順に列をなして廊下に出た一行は、階段を目指してガムシャラに走っていた。


「うわ、痛っ!」


 しかし悲痛な叫びと共に逃走劇は突然に中断される。2階に下ったところで列の中腹にいたカメラマンがもつれ、肘先と膝と頬が強かに地面を擦ったことにより後ろを走っていた者が、そして一拍遅れて響いた、硬質なプラスチックの塊が地面を叩く音によって前を走っていた者が。

 全員、仲間への心配と驚きでその脚を一斉に止めることとなった。


「皆落ち着いて!の仕業じゃない!」


 その一瞬を見逃さず、志賀谷が喉を張って一喝する。

 その迫力に加え、動きを止めた事で身体が疲れを思い出したのか、再び狂乱のまま走り出すものはひとりもいなかった。ある者は曲げた両膝に手を置き、またある者はそのまま地面にへたり込み、皆一様に肩で息をし出す。


「……カメラはどうだい?」


 幾重にも重なる荒い息切れがようやくその勢いを衰えさせたのを見計らい、志賀谷は転んでうずくまったままでいたカメラマンに手を差し伸べる。彼を引き起こしながら、擦り向けたその手から放り出されたカメラを視線だけで差した。


「あっ――」


 彼の表情から苦悶の色が吹き飛ぶ。ふたたびもんどりを打ちそうになる前のめりでカメラに手を伸ばし、暗くなった液晶を見つめながら祈るような思いでボタンを数度押し、やがて大きく息を吐いた。


「ダメか。予備は?」

「……車の中です」


 歯切れの悪いカメラマンの返しに、志賀谷は心の中で天を仰ぐ思いだった。

 今日ほど重なる事はまれと言えど、いくら準備を入念に行っていたところで生放送ではいついかなる時にどのようなトラブルが起こるかわからない。その為出来得る限りの想定と用意をしておくのは、現場を指揮するものの心得以前の問題だった。

 当然、その中にはメインで中継するカメラが不慮の故障に陥った際に備え、予備をすぐに使えるように用意しておく事も含まれる。

 むしろ最重要と言える項目でもあった。しかし今回に限っては現場の人員に荷物持ちを割くほどの余裕がなく、それに加えて内部の狭さと歩きづらさを考慮した結果、本番直前のミーティングで千駄木の一令の元「予備を携行しない」という判断を下したのだった。


「……取ってきてもらえるかい?」

「えっ」

「僕も行くから。ひとまず局に連絡を入れなくちゃならないしね」


 一瞬、カメラマンはひとり走らされることへの忌避感を顔で示した。そんなを励ますように、志賀谷は帯同を申し出る。

 ADと千駄木がそうしていたように、別に建物の中は電波が通じないというわけではない。すぐにその事実を思い出したカメラマンは彼の気遣いへの感謝を胸に、壊れたカメラを置いて立ち上がった。


「ちょうどいいから、この間に皆も一息ついて落ち着くと良い」 

「志賀谷さん、なんでそんなに冷静でいられるんすか……」

「言ったろ。変なものの仕業じゃないって。大方――」


 その声を合図としたように、一段の走ってきた方向とは反対側から千駄木が姿を現した。その半端に吊り上がった口角にはクルーたちへの呆れと、巻き起こった珍騒動への笑いが半々ずつ含まれている。

 笑いに肩を揺らすたびに、その手に下がった錆びた鉄の棒を見て、スタッフの大半が事態を察して眉間にしわを寄せていった。


「千駄木さん、まさか」

「お前らよぉ……いくら何でもビビり過ぎだろうが。特にカガミ、おめーのせいでスタジオだって言ってるぞ」


 ――まぁ、盛り上がってるみたいだからいいんだけどよ。

 自分が勝手なタイミングで騒ぎの引き金を引いたことを棚に上げ、千駄木は口の端に笑いを浮かべる。

 思った以上に、上手くいった。

 いつまで経っても行動に移さないシオの代わりにこっそり隣の部屋のベランダを乗り越え、外から窓を叩き割る――

 単純な手だ。窓と自分の延長線上には延長線上にはカメラもあった。事前に用意したかんしゃく玉の仕込み以上に仕掛けがバレやすい手かもしれないと不安を覚えていた。

 だが、カガミの真に迫った反応が画に予断を許さない説得力を持たせてくれた。加えてそこから画角は滅茶苦茶に乱れ、割れた方向は一瞬程度にしか映り込んでいない。

 これでは隠れている千駄木を見つけてヤラセだと騒ぐのは不可能だった。視聴者どころか現場のスタッフですら、今の今まで彼の仕業と言うことに気付いていなかったのだから、当然と言えば当然である。


「打ち合わせもなしに、そりゃないですよぉ」

「何言ってんだ。知ってたらおめーの白々しいリアクションで全部台無しじゃねえか」


 恐怖の余韻と、そこからの解放による安堵に未だ声を震わせながらカガミが抗議の声を上げるが、千駄木は当然とばかりに言い放つ。その暴論ぶりに何人かのスタッフがカガミに同調したものの、いずれも千駄木は右耳の穴に小指を突っ込んで聞こえないふりをして受け流していた。


「……せめて僕くらいには伝えてほしかったけどね、おかげで余計な手間が増えた」


 しかしそんな余裕の態度も、ただひとりいち早く事実を看破していた志賀谷の冷たい声には動じざるを得なかった。彼に見えない確度で舌を出してから、張り付けた全力の申し訳なさそうな表情で振り返る。


「咄嗟の思い付きだったんでな。伝える時間がなかった悪ぃ」


 口早に弁解する千駄木だったが、志賀谷の疑いの目は変わらない。

 そもそも千駄木は自分が浮かべるには迫真過ぎて逆にうさん臭い顔を向けていた。すなわちその時点で、志賀谷の納得を得る事は半ば諦めていた。

 妙に勘の利く彼の事だ。そもそも口先だけで言いくるめられる相手ではない。それは千駄木が一番よくわかっている。

 そもそも、赦しも納得も必要ない。形はどうあれテレビの向こうはこれまでにない盛り上がりを見せている。数字が上がっているならば、たとえ

 悪習と知りながら誰もが見てみぬふりをする業界の常識だった。


「まったく……僕が戻るまでは大人しくしててくれよ」

 

 そして何より――

 ようやく自分から目を外し階段を降り始めた志賀谷に向かって、千駄木は届かない卑賤な笑みを餞る。

 こちらの本当の仕掛けがバレなければいいのだ。もし知られてしまったならば、過保護な志賀谷は自分の胸倉を掴みかかってきた事だろう。

 つまりはシオへの『演出』の強要――とは言っても、あいつがいつまでもグズグズしてっから、自分が動かざるを得なかった。

 そこまで愚図ではなかったはずだが、切られることもやむなしとして誠実を貫こうと大っぴらに手のひらを返したようにも思えない。

 どちらにせよ余計な手間を掛けさせたからには、それなりの対価を頂かなくては話にならない。

 どうせなら、契約を切る前にシオの身体を狙っている別局の上役にでも『売り込み』に連れていくか――下卑た算段を立てながらその姿を求めて視線を流し、そこで千駄木は初めて気づく。


「……おい、シオの奴はどこいった?」


 改めて今度はひとりひとりの顔を確認するようにゆっくりとあたりを見回すが、幾度その視線を往復させたところで、そこにシオの姿はなかった。他のスタッフも千駄木に問われて初めて気が付いたのか、動揺とざわめきがさざ波のように広がっていく。


「お、おかしいな……さっきまでそこにいたはずだけど」


 スタッフのひとりが覚束ない口調で答えながら階段の近くを指差し、それに数名が頷きを返した。

 彼らに嘘を吐く理由はない。志賀谷達の下っていった1階へと繋がる階段は千駄木のすぐそばにある。

 つまりシオはここに来たあとで、千駄木が顔を出す直前にあえて3階へと取って戻った、ということになる。

 

 ……あれほどのビビりが?

 可能性を探る千駄木の胸に、形容のしがたい嫌な予感が広がっていく。


「探してきます。皆は休んでてください……俺もせいでもあるし」


 沈黙の中、いち早く声を上げたのはカガミだった。大方先ほどの『失点』を取り戻すために、単身で彼女を探す勇壮な姿勢を全員へ見せようという腹だろう。

 もっとも幽霊の仕業だと思っていたのが身内の犯行だと知れ渡っている現状、それがどれだけ功を奏すのかは怪しい所だった。

 しかし千駄木を除いてここにいる全員が心身ともに重石を抱くような疲労を覚えている中、わざわざ急な階段を上り3階へと戻ることを厭っていた。

 反対する理由は誰にもない。結局カガミは数名の視線に見送られながら、妙に矍鑠かくしゃくとした足取りで踊場へと消えていった。

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