10『人間模様6~カリカチュア~』

 千駄木が訊ね返し、シオが改めて胸の内を明かしてから数秒。動きを見せないふたりの間には静寂だけが流れていた。

 ドア1枚を隔てただけのはずの外の喧騒はどんどん遠ざかり、代わりに場所そのものが持つ雰囲気とは別の意味合いを持った重苦しい空気が充満していく。

 遠目に見れば静止画とも見紛みまごうその状況の中、過ぎ行く沈黙に比例して怒りに整いを崩していく千駄木の表情と、その変化を受けて揺れを大きくしていくシオの瞳。そのふたつだけが時の経過とそれぞれの胸の内に渦巻く感情を物語っている。


「……なるほどね。バスん中で聞こえたのは空耳でも、クソつまらねえ冗談でもなかったって訳だ」


 先に沈黙を破ったのは千駄木だった。

 耳に入ってきた文句を改めるその口調は額に走る青筋ともはや滑稽といえるまで歪んだ表情とは裏腹に、不気味なまでの静けさを帯びたものだった。

 その落差に釣られたか、シオもようやく焦点を彼へと定め直し、泳ぐ瞳が止まる。


「バカ眠ぃからって流して悪かったな」


 言葉につられるように顔色までをも穏やかに戻し、ゆっくりと自分に向かって歩み寄りながら続けられる優しい言葉に、いよいよシオが深い深呼吸とともに長い間真一文字に結んでいたその口を開く。


「千駄木さ――」


 しかし、必死に意を決して発したその言葉は、突如真横へと振り下ろされた千駄木の足に遮られしまう。


「ひっ!」


 その靴裏が錆びてひしゃげたアルミの戸棚を捉え、破裂にも似た音が部屋中を満たす。途端に背を丸め、肩を限界まで縮めたシオが短い悲鳴を上げた。

 常に斜に構えた冷徹さを崩さず、おどろおどろしい廃墟も平然と歩く美女霊能者――視聴者、そしてスタッフの大半が抱くイメージとはまるで正反対の姿がそこにはあった。

 覚悟していたはずの威圧にあっさりと膝を折りそうになる、怯え切ったひとりの女性……どころか、震えてうつむくその表情には、まだ少女の面影が色濃く残ってすらいる。


「だからよぉ」


 たとえどんな理由があれ、まともな大人ならすぐに自らの行き過ぎた行為を省みてしまうようなシオの顔を、千駄木は下から舐め上げるように覗き込む。うなりにも似た低い声をあげるその顔に躊躇ためらいや同情、動揺の色は微塵も見られなかった。

 それはデビュー当時から後ろに立ってきた千駄木にとって、今のシオの姿こそ見慣れた自然のものであることに加えて、年上は年下に、男は女に優しくあるべきという一般常識も倫理も超えて、現在進行形で腹の底から湧き上がってくる怒り。

 そして何より彼の人格そのものがからかけ離れているからに他ならない。


「聞かせてくれや。俺の怒りがどっか行っちまうくらいの――」


 だが同時に、千駄木その怒りに任せて金の成る木を自ら手折たおるほど愚かな男でもなかった。

 飼い犬に手を嚙まれた怒りが湧いた事に嘘はない。だがそこから派手な音を立てて見せたのはあくまで威嚇いかくであり、委縮させることによって話の主導権を握る為に過ぎなかった。


って奴をさぁ」


 目上目下、平時臨時問わず、様々な交渉事を自分の絵図通りに運んできた。そんな辣腕の所以たる計算をその裏に潜ませ、千駄木はそれをあえて漫然としたペースで口にのぼらせる。

 シオの受け答えを待つ格好に聞こえてその実、どんな理由があろうともジョーク、つまり冗談で話を終わらせてやるという宣言だった。

 押しの弱い相手には先にこちらが結論付けてしまえば、それだけで勝手に折れてくれる。シオのように臆病な相手なら、尚更――


「……うそは、もう嫌なんです」

「――あぁ?」


 しかし千駄木のそんな目論見は、今回に限って見事に外れた。見れば顔を上げて再び視線を合わせてくるシオの身体はいつの間にか震えが止まっていて、大きく揺れながらも必死に睨み返すその瞳からは、再びつぎはぎの決意が自立を取り戻している様子が伺えた。


「それでどれだけ人気になっても、それだって嘘でしかない。どんな仕事をしたって、虚しさがずっと残ってる!」


 叫びがヒビの入った窓ガラスを揺らす。その後駆け寄る足音とノックの音が控えめに響いてきたが、ふたりともそれに取り合う素振りすら見せなかった。

 再び首輪を締め直したい千駄木と、戒めから逃れたいシオ。互いに引けない理由を抱えたまま張り詰めていく空気に水を差されたくはない。

 その一点だけが、ふたりの間に唯一共通する意識だった。


「わかりますか。この番組に出てからどんな現場に行ったって、歌番組に出たって、プライベートでだって求められるのはずっと『霊能者シオ』の姿。それがどれだけ辛いかわかりますか」

「それが芸能人だろうが。トーシロが動画配信してんのと訳が違えんだぞ」


 業界における当たり前の構造論に、シオは抗弁を立てる様子も見せず小さく頷く。これで勢いを殺せたかと睨んだ千駄木だったが、その頭で次の言葉を編んでいる間に、またもシオが先手を取った。


「わかってます。千駄木さんがこの番組にこういうキャラ付けで出ろって言って来た時も、ある程度は納得してた」

「あぁ。理由は知らねえが芽の出ねえお前をメインにと推した志賀谷がいい場所次々見っけきて、そこで説明付かない出来事が立て続けに起こった。お前と、ついでにカガミのリアクションは大受けだった。当然だ。俺が考えたんだからな」


 ――シオの奴。マジでメンタル限界ってわけか。

 歯止めを効かせられなかったという予想外の出来事に、千駄木の声が僅かに上ずる。纏まりきらない思考ではそこに自分の功績を挟みこむのが関の山だった。


「深夜帯にも関わらず、ネットで拡散されたおかげで一気にブームが降って湧いた。その中心にいたお前はそれで一躍スターになった」


 だが、それでハイそうですか対処しますとあっさり受け入れてやるほど、千駄木は単純ではなかった。

 だからこそ名伯楽として名を馳せるに至ったともいえる。当然数多くの金の卵を相手にする中で、こんなケースは何度も経験済みだった。

 芸能人、アイドルとしての虚像を大きく越えて膨れ上がった『自己そのもの』への承認欲求。人気が上り調子にある時にはよくあることだ。


「違う方向性の展開も考えちゃいる。だが、今はまだその時じゃねえ。つまりお前がこの役目を好きだろうが嫌になろうが、それがだ。違うか?」


 プロデューサーである自分にとって邪魔でしかないそいつを抑え込んでやるには、今一度自分が何であるかを自覚させ直す必要があった。こんなものは急に景色が高くなったせいで足元が見えなくなった奴にありがちな、一時の熱病に過ぎない。

 それまで何者にもなれなかったお前が、何故そこまでの立場に至れたか。

 千駄木がいたからだ。

 千駄木がテレビの前に立つお前を形作ってやったからだ。

 察しのいい相手はその事実を思い出させてるだけで、おのずと歯向かうその考えがどれほど愚かで、奢ったものであったかを悟る。

 だが、シオはそうではなかった。ただ奥歯を噛んで黙り込むその姿に、千駄木は肩をすくめて溜息をひとつ吐いた。


「そいつを投げ捨てたいってのがどういうことか。お前わかって言ってんの?」


 察しの悪い奴には、抵抗した後の未来を想像させてやればいい。 

 あくまで静かに、千駄木はドスを利かせたその声でシオへと最後の薬を打ち込んでやる。

 これでもし、首を縦に振らなければ――そのもしも思いながら、見極める目の裏側にほんの僅かだけ同情を込めて返事を待っていた。

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