最終話 満天の星空へ
さぁぁぁという音が聞こえている。全身に感じるこの感覚は――。
「……雨?」
僕はゆっくりとまぶたを開く。薄暗い中に強い雨が降りしきっている。頬から垂れてくる雨水を口を開けて口内に流し込む。久しぶりに摂る水分が身体に染み渡る。
僕はなんとか寝返りをうち顔を空に向ける。口を大きく開けて少しでも雨を取り込み、喉を潤そうとする。
――ここ、どこだ?
仰向けになった視線の先には高く伸びた木々があり、枝や葉っぱの間から雨粒が落ちてきているのが見えた。
朦朧とする意識の中、雨のお陰で少しだけ元気が出た気がした僕はようやく身体を起こすことが出来た。辺りを見渡すと、そこは森の中のように思えた。
――どういうこと?
混乱した頭のままゆっくりと立ち上がった視線の先の光景に、僕は思わず息を飲んだ。
――あれは。
視線の先、小高い丘から見下ろしたような平野部、そこには夜空に輝く星のように点在する光があった。しかし、それは星なんかではない。僕はあれを知っている。あれは、――町の灯りだ。
さらにその点在する光を繋ぎ合わせて浮かんでくる地形にも見覚えがあった。
――海岸線。海。……僕の住んでいた町。
それに気付いた瞬間、僕の目からは涙が止めどなく溢れ出てきた。もう遠く昔の記憶のようにも思える町の灯り。それが今、確かに目の前にあった。
「……帰ってきた。……戻ってこれたんだ」
喉の奥から堪え切れない嗚咽が漏れる。
言いようのない安堵感が全身の力を吸い取り、僕はその場で膝をついた。
「帰ってきた。……帰ってきた、帰ってきた」
何度も、何度も。確かめるように呟き続ける。夢ではないかと頬をつねる。つねってはみたものの、痛いのかどうかも分からなかった。ただ全身に降り注ぐ雨の感触は、とてもリアルに感じられた。
「……ヌラ」
僕は思い出したかのように呟く。
「そうだ、ヌラは?」
月明かりもない暗闇の中、僕はほとんど手探りのような形で辺りを確認する。
――いた。
僕が倒れていた場所の近くでヌラが倒れているのを発見し、すぐさま駆け寄る。
「ヌラ! ヌラ!」
身体を何度か揺すってみるが、ヌラの反応は無かった。
「……そんな」
僕はヌラの顔に自分の顔を寄せてみた。微かに呼吸の音が聞こえる。
「……良かった」
ヌラが生きていることに安堵し、ほんの少しだけ息を吐く。
――まだ助かる。
「ヌラ。僕が助けを呼んでくるから。少しだけ待っててね」
決意を胸に僕は立ち上がり、眼下に映る町を見つめる。
――どのくらい距離があるだろう。
どのくらい距離があっても関係ない。とにかく町を目指して、そして人を呼んで――、それからどうすればいいんだろう。
一、二歩進んだ所で僕の足が止まった。
――人を呼んで、なんて言えばいいんだろう。人間大のトカゲが倒れています? ヌラを見た人はどう思うだろう。警察を呼ぶ? 救急車? それとも謎の研究所に?
様々な考えが浮かんでは消えていく。ここはヌラのいた世界じゃない。僕がいた現代の世界だ。人間大のトカゲが発見されたら大騒ぎになることだろう。そして、彼との関係を聞かれたら、僕はなんと答えればいいのだろう。
――まてよ? そもそもここは僕がいた世界なのか?
そうだよ。ここが僕が以前いた世界と同じだって保障は何もないじゃないか。時間軸がずれていたら? 似たような別の世界だったとしたら?
それに、もし同じ世界だったとして僕は母さんになんて言えばいいんだろう。ヌラを連れて帰ったら、母さんは気絶してしまうんじゃないか?
僕は未だに目を覚まさないヌラに視線を送る。かろうじて息はあるものの、ギリギリの状態であるのは間違いない。
ともかく、僕は町に降りよう。そこで助けを呼んで、それから――。
そこまで考えて、またしても僕の思考は止まってしまう。
――いっそこのまま、ヌラだけを置いて行くのはどうだろう。
そんな悪い考えが頭をよぎり、僕は否定するように強く頭を振る。
――ダメだ。ダメだ。彼は……。彼は……。……いや、彼なら。ヌラならこの世界でも一人で生きていけるんじゃないのか? ……そうだよ。この近くには水場もたくさんある。虫や動物もいる。雑食の彼なら。あの世界にいた彼なら。一人で生きていけるんじゃないのか。
「……ごめん、ヌラ」
卑怯な方向に心を決めた僕はヌラから視線を外し、ゆっくりと歩みを進める。遥か遠くに町の灯りが見える。まっすぐ降りていけばどこかで道路にぶつかるだろう。
僕はふらつく足を懸命に動かし、町を目指す。足が重い、頭も重い。
――なにくそ、これくらい。僕は強くなったんだ。テントを張り、魚を取り、巨大な猪と戦ったんだ。
……誰と?
僕は思わず足を止め、振り返る。
そのままゆっくりと、来た道を戻る。
いつの間にか泣いていた。涙と鼻水を腕で拭う。
そうしてヌラのそばまで戻ってくると、僕は腰を落としてヌラの腕を取った。
「……ごめんね、ヌラ。……僕は最低なことをするところだった」
ヌラの身体は予想以上に重たかったけど、気合を入れて上体を起こさせる。
「君は僕を守ってくれた。……ずっとそばに居てくれた」
担ぎ上げるようにヌラの身体を持ち上げると、手を肩に回して倒れないように支える。
「今度は僕の番だ。……何があっても。この先何があっても。君のことを守るから。……僕が君を守るから」
ゆっくりと歩き出した僕らの目線の先には、満天の星空のような町の灯りが、きらきらと光っていた。
【蜥蜴の国】了。
蜥蜴の国 飛鳥休暇 @asuka-kyuka
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