第3話 幻想の森と尿意とエビと

 ヒモに繋がれたまま、僕は適度な距離を取りながらトカゲの後ろを歩く。暗闇を想像していた僕だったが、月の明かり――上空で輝くものが月かどうかも定かではないが――が思ったよりも明るく、後ろをついていく程度であれば苦労しないほどには視界は確保されていた。


 森の中はうっすらともやがかかっていて、幻想的な雰囲気があった。それは、ファンタジーの世界に迷い込んだようで。この森の中であれば、妖精やユニコーンなどが存在していると言われても信じてしまいそうだ。いや、事実、僕は人間大のトカゲにペットさながら引き連れられている。いくら考えても今の状況を理解することは出来なかった。


 どのくらい歩いただろうか。前を行くトカゲが立ち止まり辺りの様子を伺っている。なにか目当てのものを見つけたのだろうか、僕のヒモを引っ張りまた歩き出した。その先にあったのは岩がえぐれて出来たような洞窟のような場所だった。――なるほど、ここで休むつもりなのか。と思ったのもつかの間、僕に繋いでいるヒモを近くの木にくくり付けだした。


「お、おい。僕をここに置いていくつもりなのか?」


 トカゲに対して必死に訴えるが、彼は僕のほうをちらりと見ただけでそのままヒモを縛り、洞窟の中へと消えて行った。


「おいおい。……マジかよ」


 残された僕はうなだれつつ辺りを伺う。森の中は静寂に包まれていた。気温は少し肌寒く、夏服の僕はぶるりと一度だけ身体を震わせた。


 思い立って身体に力を込め、おもいっきりヒモを引っ張ってみたものの、想像以上にヒモも木も頑丈で無駄に体力を消耗するだけだった。

 ヒモを切るのを諦めた僕は、少しでも身体を休めるように木の根元に座り込んだ。


 幸いにも僕はおばけや幽霊のたぐいは信じていないので、こんな暗い場所でも心霊的な恐怖感は無かった。そのかわりにどこか遠くからときおり聞こえる獣の声や葉の擦れる音に対しては、身体をびくつかせ反応してしまう。今ここでさっきのような獣に襲われたらひとたまりもないだろう。


 すわりの悪い体勢のまま辺りを警戒していた僕だったが、思ったよりも疲れていたのか、いつの間にかそのまま眠ってしまっていた。



 何かに身体を揺すられ、目を覚ますと、目の前にトカゲの顔があり僕は思わず「うわっ」と声を上げてしまった。

 トカゲはそんな僕を呆れるように一瞥すると、僕の口元に何かを押し当ててきた。


「な、なに? むごっ!」


 無理やり口に入れられたそれを反射的にかじる。それはプラスチックの下敷き二枚でサンドしたセーターを食べているような気持ちの悪い食感だった。外は固く、中には繊維質の糸の束のようなものが詰まっていて、中からどろりと出てくる液体は味のない生クリームみたいだった。


「なんだよ、これ」とトカゲのほうを見てみると、僕の顔ほどもあるカメムシみたいな甲虫こうちゅうにむしゃりむしゃりとかぶりついていた。よく見るとその甲虫の足が欠けている。


 ――ってことは。


 僕はいまほど噛んでいた物の正体に気付き、即座に嗚咽おえつを漏らしながら吐き出した。そんな僕を見てトカゲが不満そうに「ギャギャ!」と叫ぶが、食えないもんは仕方がない。僕は胃液と共に虫の足を吐き出し、口の中に残ったものをぺっぺっと執拗しつように吐き出した。


 一方のトカゲは食事に満足したのか「ゲフッ」とひとつゲップを吐き、木と僕を繋いでいるヒモを解きだした。


「またどこかにいくの?」と問いかけてはみるものの、当然返事は返って来なかった。作業中のトカゲが付けている首輪の木片が目に入る。象形文字のような文様が描かれたその木片のキズの真ん中は「ヌラ」と読めた。


 ――ヌラ。


 そこでようやく、僕はこのトカゲが見張り番だったあのトカゲだということが分かった。僕はそれがなんとなく彼の名前のように思えて、彼のことをヌラと呼ぶことにした。


 ヌラは木にくくりつけていたヒモを解くと、自分の腕に巻き付けてから、誘導するように僕の前を歩き出した。僕もされるがままにヌラについていく。


 歩き始めて少ししてから、僕はあることに気が付いた。――尿意だ。


 思えば昨日家を出てから一度もおしっこをしていないのだ。さらには寝起き特有の膀胱ぼうこうの張りが僕の下腹部を刺激する。


「ね、ねぇ! ちょっとまって!」


 僕の声にヌラが立ち止まり振り返る。


「あの、おしっこしたいんだけど」


 僕の言葉は当然伝わるはずもなく、ヌラは首をかしげて「ギャ?」と鳴いた。


「おしっこ! わかる? 下! 下!」


 僕は首を必死に動かし、自分の股間をアゴで指した。その様子をヌラは不思議そうに見つめている。


「あぁ! もう! 早く!」


 僕の膀胱はもはや限界だった。足をクロスし必死に我慢する。しかし、僕の大声が気に障ったのか、ヌラは「ギャオ!」と鳴いて背中に携えた槍を抜き取り、僕の頭をコツンと叩いた。


 その衝撃で僕の気が緩んでしまったのだろうか、股間から温かい液体が流れ落ちるのを感じた。それはすごい勢いで、ズボンの内股を侵食していく。


「……あぁ」


 僕は悔しさと情けなさで、その場でヒザをついてしまった。そこでようやくヌラにも僕の状況が伝わったのか、彼は頭に手を当ててやれやれといった様子でため息を吐いていた。


 ――夢なら早く覚めて欲しい。なんで僕がこんな目に合わないといけないんだ。いったいどうなってるんだよクソ!


 気付けば僕の目から涙がこぼれ落ちていた。悔しさと虚しさと不可解なこの状況に対しての、色んな感情が入り混じった涙だった。涙と鼻水を垂らしながらぐずぐずと泣いていると、ヌラがギャギャっと鳴いてヒモを引いてくる。


「なんだよ。ほっといてくれよ!」


 半ばやけくそ気味に叫ぶ僕を無視して、ヌラはぐいぐいとヒモを引っ張る。根負けした僕はゆっくりと立ち上がり歩き出した彼の後ろをついていく。おしっこで濡れたズボンがペタペタと足にまとわりついてとても不快だ。


 俯き加減で歩いていた僕の頭に、急に立ち止まったヌラの背中が当たった。


「いてっ! なに?」と顔を上げた僕の目に飛び込んで来たのは、小さな滝の流れ落ちる小川だった。涼やかに流れ落ちる滝はとても美しく、僕はしばしその流れに目を奪われていた。


 ヌラは顔だけを僕に向けギャオギャオと鳴くと、その小川のそばまで歩き出した。僕もその後をついていく。

 小川のほとりまで来ると、爽やかな緑の匂いがした。ヌラが川の際で立ち止まると、僕と川を交互に指さした。


「入れってこと?」


 僕の言葉が伝わったわけではないだろうが、ヌラは応えるようにギャオと鳴いた。


 僕はおずおずと歩みを進め、ゆっくりと川に足をつけた。川の水は驚くほど冷たく、思わず水から上がろうとすると、牽制するようにヌラが牙をむき出し「ギャオ!」と叫んだ。その顔を見て僕はしぶしぶ川の中へと入って行く。水が腰のあたりまでくる深さまで進むと、銭湯の水風呂に入るときのように、大きく息を吸ってから一気に顔まで水に沈めた。


 ざばぁと水しぶきを上げながら顔を出すと、水の冷たさに慣れた身体に心地よさを感じるようになった。


「あぁ、気持ちいい!」


 僕は一瞬だけ、デカいトカゲに連れられていることや、先ほどお漏らしをしてしまったことなんかを忘れていた。――そこで僕はようやく思い当たった。


「……もしかして、それでアイツは僕をここへ?」


 僕はふとヌラのいた方向を見ると、そこにいるはずの彼の姿が無かった。


「ん?」


 僕は水に浸かったまま、きょろきょろと辺りを見渡す。すると川上のほうからヌラが姿を現した。そして僕に目線を送ると、上がってこいと言わんばかりにギャオンと鳴いた。


 僕は水の抵抗を受けながらゆっくりと川から上がり、ヌラのほうへと歩みを進めた。ヌラは満足げに頷くと、僕に向かい何かを差し出してきた。手の平サイズのそれは、ザリガニのようなテナガエビのようなそんな生き物だった。僕に向かい手に持ったそれをぐいぐいと突き出し、大きく口を開けてカチンカチンと二回牙を打ち鳴らした。


「食べろってこと?」


 顔の目の前まで近づけられたそれに、僕は意を決してかぶりついた。それは少しだけ青臭かったが、さっきの虫に比べるとだいぶマシだ。殻もそれほど硬くなく、殻の中から出てくる柔らかい身の部分も、エビだと思えば旨味さえ感じてしまうほどだ。手が使えない僕は、ヌラが押し出すままにそれを口に入れ、殻ごとバリバリとかみ砕き飲み込んだ。


 僕が食べ切ったのを確認し、ヌラは僕を繋いでいるヒモを掴むと、再び森へと歩き出した。黙って前を歩くヌラの背中を見ながら僕は、――意外とコイツ悪い奴じゃないのかもな――なんてことを思ってしまっていた。

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