第3話 弐

 ありとあらゆる光を吸い込んでしまいそうな黒い瞳は、美しくも何処までも深淵が広がっている。

 一切の感情を置き忘れたかのような彼女の、笑顔でも驚きでも何でもいい。表情が変わる瞬間を一度でも見てみたかった。











 爽やかな朝の空気を女達の悲鳴が掻き乱す中、廊下を足音荒く突き進む。


杜緋とあけ!』


 御台御殿の最奥、杜緋の私室に勢い勇んで足を踏み入れる。

 杜緋は朝餉の最中だった。儂が眼前に突き出した物――、領内を荒らしていた盗賊の首にちら、と一瞥をくれたものの、特に何を言うでもなく、顔色一つ変えることもなく。恐れ戦き、泣き叫び、卒倒する侍女達にも、誇らしげに首を突きつける儂にも目をくれず。黙々と鰯の干物を箸で割り、里芋の汁物を啜り、湯漬けを品良くかきこむ。


『杜緋??』


 ぽりぽり、ぽりぽり。香の物を齧る音だけが室内に響く。

 ただ食事しているだけなのに、声をかけることさえ憚られてしまう。


『殿。皆が怖がっております。即刻お下がりくださいませ。これ以上気絶する者が増えては困ります』


 食事を終え、箸を置くなり、女子おなごにしては低く、威厳ある声で杜緋は儂を淡々と叱りつける。思わずよろめけば、足元の睡蓮鉢にぶつかった。

 飛沫と共に、手に染み付いた血と同じ色の金魚が跳ね上がった。









 杜緋と同じ顔の少女が一歩、また一歩と僕の傍へと歩み寄る。

 光の加減で青みがかって見える豊かな黒髪も、やや面長な輪郭も、細い顎も。かつての自分を魅了したあの目も似ている。


 彼女は何者だ??本人に直接問うべきか。彼女が退室した後で多和田に訊くか。

 如何せん、僕は婦女子と積極的に関わりたい質じゃない。むしろその逆。

 売れていた時は女の方から寄ってきたりもしたが、悉く撥ねつけていた。

 甘い汁を啜りたいのが目に見えていたし、夢の中の妻とどうしても比べてしまう。


 杜緋の方が美しく賢い。品性も胆力もある。


 数百年前の女性と現代の婦女子を比較するなど馬鹿げたこと。

 だが、物心つく頃から見続ける夢の妻は、彼女への深い悔恨と罪悪の念と共に僕を縛り続ける。


 杜緋の夢は小説にも多大すぎる影響を与えてくる。

『武将布島明昌と茜』は杜緋との結婚生活を元に、「こうだったら良かったのに」という理想を詰めた戦国武将夫婦の人情譚。当時の人々の暮らしをその目で見てきたかのような精緻な描写、夫を支える元気で利発な若妻・茜の人物像(あえて杜緋とは正反対にした)が愛らしいと、優に十冊を越える連作長編作品として人気を博した。けれど、あくまで夢日記に近い作品でしかない。


『八塩先生。新規読者獲得のため、明昌と茜とは全く別物の作品を書いてください』


 作家生活に暗雲の兆しが訪れたのは担当編集者の一言。

 あれから数年。新作を書いては没を食らう。辛うじて出版された作品も鳴かず飛ばず。

 次こそは次こそは。焦れば焦る程作品の質が落ちている気がしてならない。

 焦る僕を嘲笑うかのように、近頃、頻繁に杜緋の夢を見る。


 そして、今、目の前で――、緑色の飛沫が上がり、衣服に盛大にかかった。差し出された筈の湯飲みが畳の上でひっくり返っている。


「すみませんすみません!あぁっ、火傷は?!お召し物も汚して……、申し訳ありませんっ」


 畳に額を擦りつけ、少女は必死に謝罪を繰り返す。僕は杜緋なら天地がひっくり返ってもしないであろう失態に唖然としていた。


もみじさん、謝るだけじゃなくて何か拭く物を早く持ってきなさい」

「ご、ごめんなさいっ!今すぐお持ちしますっ」


 少女が慌ただしく廊下を駆け去っていくと、多和田はすまない、と小さく謝った。

 倒れた湯飲みを戻しながら僕は首を振る。


「地方住まいのとある有名作家の妾の娘でね。東京府の女学校へ通うための下宿先を探していたから、ここを貸している」

「妾が住む別宅に下宿なんて微妙だがね」

「そうか??うちのも娘ができたみたいだと喜んでるし、椛さんも楽しそうだ。あぁ、ちなみに椛さんは君の作品の熱心な読者らしいぞ」

「やだぁ!何でご本人に教えるんですかっ」


 いつの間に戻ってきたのか。

 開きっ放しの障子戸の陰に佇み、布巾を手に椛さんは赤面していた。


「八塩君の自宅を教えるから、彼の執筆意欲が上がるよう学校帰りに発破でもかけに行ってやってくれよ」

「多和田、君、何を勝手な」

「椛さんの好きな金魚もいるし」


 彼女も金魚が好きなのか。容貌以外の思わぬ杜緋との共通点に言葉を失う。

 一方、椛さんの黒目がちな瞳に数多の星が宿る。杜緋と違い、輝きに満ちた明るい瞳。


「八塩先生も金魚お好きなの??」

「好き、な訳では……」

「でも、飼われてるんですね??」

「あぁ、まぁ……」

「あの、厚かましいのを承知でお願いしたいのですが」



『今度、金魚を見にお邪魔してもいいですか??』

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