第4話 参

 秋深まる頃。杜緋とあけが嫁いできて一年が経とうとしていた。


『下女に蕎麦焼きを作らせた。一緒に食べないか』


 縁側の廊下、すっかり色づいた庭の楓と銀杏を眺める背中に語りかける。

 蕎麦焼きは彼女の好物。喜んでくれるかもしれないと期待を込めて。だが期待に反し、振り向くどころか返事一つない。


 今までなら返事くらいはしてくれたのに。子供じみた示威行為(首の件は反省した)の数々に愛想を尽かされてしまったのか。


 二度目の呼びかけを迷っていると、杜緋が両手で何かを包んでいることに気づく。紅葉を眺める体で視線の先は庭ではなく掌の中。


『何を握っている』


 杜緋は相変わらず儂に見向きしなかったが、代わりにそっと掌を開く。

 そこには金魚が一匹。降り注ぐ陽射しが朱赤の鱗を金に染め上げていた。


『四半刻程前、鉢を覗いたら浮いていたのです』


 微かに声が上擦り、伏せた睫毛がぴくり、震える。

 真白の掌に収まる金魚はぴくりとも動かない。


『楓の樹の下へ埋めてやろう。儂も手伝う』


 弾かれたように見上げた黒水晶の瞳は驚きとも困惑ともつかぬ――、有体に言うと、動揺に駆られていた。また余計な事を言ってしまったか。不安が擡げ始めた矢先、杜緋の固く引き結ばれた口元がふっと緩む。


『はい』


 ごく短い返答。固いけれど、穏やかな笑み。


 ようやく見ることができたのに。


 最初で最後の微笑みになるなんて。





 杜緋が自害したのは十日ののちだった。












 風が、蚊取り線香の煙を乗せて風鈴を揺らす。

 太陽が徐々に陰り出す頃、そろそろ来るか、と万年筆を下ろす。


「こんにちはー!朱殷しゅあん先生せんせーい


 ほら、来た。よいしょっと腰を上げ、玄関の引き戸を開ける。

 朝顔柄の銘仙に袴、お下げ髪のもみじさんが胸に西瓜を抱えていた。


「こちらへ来る途中、商店街の八百屋で西瓜を買ってきたんです。一緒に食べましょう!私、切りますよっ」

「いや、僕が切るよ。金魚でも見て寛いでて」


 箱入り娘に包丁を持たせるなど考えるだに恐ろしい。万一怪我をさせたとあっては多和田にも申し訳が立たない。


 初めて会った日から一か月半。

 週に二、三日、椛さんは学校帰りにうちへ遊びに来る。

 遊ぶと言っても、一、二時間金魚をぼーっと眺めるか、執筆の邪魔にならない程度にお喋りに興じるか。そのどちらかになる。


 邪魔と言えば――、椛さんの相手をすることで執筆に支障が出るのではと思いきや、まさかの逆。むしろ筆の進みはすこぶる良好。

 夕方は寝ているか、起きたばかりの昼夜逆転生活だったのが一転、椛さんの訪問時間を想定し、朝起きて夜寝る規則正しい生活へと変化していったのが功を奏したようだ。


 天真爛漫な椛さんは長屋の住民ともどんどん仲良くなっていく。

 親子程の年齢差、郷里の姪という嘘も手伝い、今のところ妙な噂も立っていない。

 また、椛さんを多和田の別宅まで送る際、必ず近所の商店街を通る。大抵は店じまいする途中だが、店の者と顔を合わせれば多少の挨拶や軽い会話なども交わす。

 僕が周囲とこのように話すことなどとんとなかったのに。


 椛さんと出会い、人と関わりを持ち始めた。生きる上でも執筆の上でも、椛さんや周囲との関わりは大きな糧になると知った。


「おいしい、おいしいっ!」


 頬に種を張りつけ、西瓜を頬張る横顔のあどけなさは年相応だが、睡蓮鉢を見つめる物憂げな瞳、横顔は杜緋を想起させる。そして、椛さんは金魚の中でも朱赤の和金が一等好きらしい。


 杜緋と椛さんは別人。面影を重ねるのは失礼にあたる。

 頭では理解していても、水草をつつく金魚を眺める姿だけはどうしても重ねてしまう。


 僕が『儂』の生まれ変わりなら、もしや彼女は――、否、おそらく違う。

 根拠はないが、椛さんは杜緋じゃない、気がする。なのに、彼女と接していると懐かしさが込み上げてくる。


「朱殷先生、新作の調子はどうですかぁ??この間、終わりが見えてきたって話してましたでしょ??」

「うん、今日も君が遊びに来るまでの間ずっと書き進めていた。この調子なら、あと二週間で脱稿できる、かな。現代が舞台の話、ずっと書くのが苦手だったけど、今回は一度も詰まらずすらすら筆が進むんだ」

「わぁ!じゃ、きっと傑作ですね!」

「少なくとも僕にとってはね。編集の返事が怖いところだけど」


 筆の早さと作品の質は必ずしも一致しない。その逆も然り。丁寧に時間をかけて書いたからといって傑作になるとも限らない。自分が面白いと思っても世間が面白いと思うとも限らない。


 手に持ったままの、食べかけの西瓜の汁が掌から手首、肘へと伝っていく。汁はぽたり、畳に赤い染みの痕を残していく。


「きっと大丈夫ですよ」


 二切れ目の西瓜を一口齧ると、椛さんは僕にうふふと笑いかけた。


「ありがとう、椛さん」

「いえっ、お礼を言われるようなことは何もっ」

「いーや、筆の進みが早いのは君のお蔭なんだなぁ」

「またまた、ご冗談っ!」


 突然言われた礼に、西瓜に負けじと真っ赤な椛さんはやはり年相応だ。


 でもね、冗談じゃなくて本当に君のお蔭で新作の着想を得られたし――、杜緋の夢もほとんど見なくなってきたんだよ。

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