第2話 壱
実のところ、
南条家は旧くからの同盟国、というよりも我が国が属国と言うべきかもしれない。
一方、杜緋は近年急激に勢力を伸ばし、領地を拡大していた尾形家の姫。その杜緋にはよからぬ噂が付き纏っていた。
家の為に幾度も政略結婚を繰り返す姫君は少なくない。問題は彼女の夫となった者達はいずれも病死や事故死などの夭折を遂げており、婚姻期間は一年~三年とごく短期間で終わっていること。
尾形家からこの縁談を持ち掛けられた南条家当主は断りつつ、代わりの縁談相手として儂に白羽の矢を立てた。属国の嫡男と婚姻結ばせることで和睦の体裁を保ちたかったのだろう。立場の弱い我らに断る権利などなし。
父からは『充分に警戒せよ。決して気を許してはならぬ』と言い含められていたし、儂自身、十も年上の妻など、と困惑を隠せなかった。
彼女の面を初めて目にするまでは。
考えてみれば、初夏の午後など一番暑い時間帯。帰路の道中で再び汗にまみれてしまう。
「まだいたのか」
銭湯から帰宅してもまだ多和田は居座っていた。文机の前に鎮座する彼の手には今朝方脱稿したばかりの原稿。濡れた手拭いを畳の上に放り投げ、有無を言わさず取り上げる。
「留守番する間暇だったんだよ」
「勝手に読むんじゃない。僕は帰れと言った。さっきも言ったがうちに盗られる物なんて」
「あるじゃないか」
多和田が指を差したのは玄関の上がり框にある蕎麦色の睡蓮鉢。
水面に浮かぶ水草と藻の間を朱赤の和金が五匹、三つ尾の尾びれを揺らし、ゆったり泳いでいる。
「金魚売りが半値で売っていたから買ってみただけだよ。四つ尾ならともかく三つ尾の赤い和金なんて珍しくも何ともない。鉢だって適当な店の安物だし」
「そう言う割りに鱗の色つやも肉づきもいい。水もきれいだ。君の居住空間よりもてんでましだ。随分しっかり世話してるように見受けるが」
「買って早々に死なれたら切ないじゃないか。金魚は弱い。人の手できちんと世話してやらないと」
「ものぐさな八塩君とは思えぬ発言だな。ま、金魚の世話が執筆の息抜きなんだろう。あぁ、そうそう。さっきの原稿だけど、僕が編集者なら落とす」
「…………」
「指摘はあえてしない。おそらく君自身もわかっているだろうから。悩む気持ちはわかるが、原稿と睨み合ってばかりじゃなくてたまには外へ出てみたらどうだね」
いつもなら結構だと断っただろう。なのに、今日に限って僕は素直に頷いてしまった。
久しぶりに詰襟のシャツに袖を通す。その上から着物を纏い、袴を穿く。
三十過ぎて書生もどきの格好とは、などと多和田が文句を垂れてきたが無視をする。寝巻にも使う長着よりはマシだと思え。
などと内心で毒づき、道中、多和田の話に適当に相槌を打っている内に目的地へついてしまった。
行き道の途中から予想はついていたが、的中となると落胆も大きい。
広さ十二畳の客間も、床の間の壁の掛け軸も、脚の下に引く座布団も全て見覚えがあるものばかり。
「なぜ、君の別邸なぞに」
酒でも飲み交わしながら文学談義でもしたいのだろうか。否、彼と僕とでは読書の趣味も互いの作風も違い過ぎて余り話にならない。いつもくだらない雑談で酔って騒いで終わるだけ。
以前なら息抜きだと楽しめた。でも今は――
「多和田よ、悪い。酒の相手をして欲しいだけなら帰らせてくれ。原稿の推敲をしたいんだ」
「まぁ、待ちたまえよ。実は君に会わせたい人がいてね。せめて、その人にだけでも会ってくれないか」
「……わかった。少しだけだからな」
膝立ちの姿勢から元の正座に戻ると、「おぉ、ちょうど来た」と、多和田は障子戸に映る影に視線を巡らせた。
「し、失礼しますっ」
鈴が鳴るような愛らしい声に続き、障子戸が開く。
顔は伏せているが、左右の耳下でのおさげ髪、明るく淡い色の着物が若さを強調している。きっとまだ十代だろう。奉公人には見えない。
訝しむ視線に感じたのか、偶々か。少女がゆっくりと顔を上げる。
その顔は夢の中の妻、杜緋と気味が悪い程瓜二つだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます