外伝4-1 家出娘の帰還
白い雲の隙間から大地と海が見える。今まで縛られていた大地と違って空には自由があった。長らく顔を見せていない父が心配していることは想像できる。しかし、父の前に出れば、この間のことを問い詰められるであろうし、伏せておくことは難しいだろう。当然、激しく叱責されるのが予測できるだけに帰りたくない。
だから、ノルンという人の町を飛び立って、西に向かうべきところを私は東へ飛んだ。犬の姿に変えられているときに数日かかって行ったバーデンも、空を飛べば、1日の行程でしかない。人の定めた境も私には関係なかった。さらに東に進み、人がルフト、マールーンと呼ぶ地域の向こう、はるか遠くまで飛んだ。
ふと喉の渇きを覚えて、山の中の湖のほとりに舞い降りる。幽玄な雰囲気を漂わせる湖には波一つたっていなかった。水際から首を伸ばすと鏡のような湖面に自分の姿が映る。白く輝く鱗に覆われた優美な姿を取り戻せたことに、深い安堵を漏らした。湖の水を飲むと柔らかな下草の生えている場所に身を横たえ眠りにつく。
目覚めるとまた湖の水を飲む。不思議と空腹はおぼえなかった。ただ、もの寂しさを感じて瞼を閉じる。浮かんできたのはヒトの少女だった。名前はティアナ。女神に側にいるように命じられた娘だ。ヒトの寿命は短いが、その基準からしてもまだうら若いと言っていい。
ティアナに触れられると体に鮮烈な風が吹き抜ける感じがした。女神が何を考えていたかは分からぬが、あの魂に長く触れていると自分の在り方が変わった気がする。ティアナが心を寄せていたハリスというヒトのオスにはあまり感じるものは無かった。でも、ティアナがハリスを大切に思っていることだけは分かる。
だから、興味本位で追いかけていたハリスが倒れたとき、あの娘のために助けなければという気持ちになった。駆けている途中で体が変わり大きくなる。体の中から熱がこみあげてきて、口から炎を吐き出し、とどめを刺さそうとするところを焼き払ってやった。ただ、少し遅かったらしい。ハリスの体からは命が失われようとしているところだった。
龍族は頑健で治癒能力が高い。放っておいても治る。だから独自の高度な魔法体系を有していても傷を癒し流れ出る命を救う術は持っていない。それに妾からすれば今死のうが、短命のヒトが本来の寿命で死のうが時間的に大差あるようには思えず、一度はこれが定めなのだと思った。
しかし、ティアナがハリスと別れたときの表情が浮かぶ。ハリスがこのまま亡くなれば、きっとあの娘は泣くだろう。妾はそれは望まない。時を止める龍族の秘術をハリスに施した。父であれば完璧に作用しただろうが妾では不完全な形でしか術はかからず、ハリスの全身が硬直する。
コンバを連れてやってきたジーナに事情を話してやった。ヒトが魔法を唱えるときに使っている言葉はもとは龍族が伝えたものだ。後は引き受けたという言葉を聞くと、空への思いやみがたく、妾は飛び立つ。ついでとばかりに、薄汚い格好のヒトの群れに炎を吐きかけてやった。
そよ風が吹き顔をなでる。目を開けると湖面にさざ波をつくっていた。まるで夢のような日々を懐かしむのをやめ翼を広げる。億劫だが一度は父に顔を見せに行かねばならないだろう。父を安心させたら、またティアナに会いに行くのもいい。犬の姿のときには話ができなかった。
翼を広げて勢いよく羽ばたく。ふわりと空へと舞い上がった。風を正面に受けて西へ西へと飛び、山の中腹にある住処に帰り着く。舞い降りるとちょうど父は来客と話している最中だった。来客は白い鎧を着たゼークトという名のヒトだ。父は低い唸り声を出す。
「噂をすれば我が娘だ。やっと放逸に飽きたらしい」
「ようやく私も肩の荷をおろせる」
「ああ。苦労をかけたな。そなたを信じぬわけではないが、やはりわが目で見るのは違うものだ」
ヒトの言葉で話していた父は首を伸ばした。その首に絡めるように妾も首を伸ばす。お互いの鱗をすり合わせた。どうやらそれほど怒ってはいないらしい。ほっとした途端に父が強く頭を振る。軽い衝撃が走った。龍語が降ってくる。
「この放蕩娘め」
父は首を伸ばすとゼークトにひたと目を据える。
「我が友よ。次はゆっくりと遊びに来てくれ。娘が世話になったというティアナという者も連れてな」
「落ち着いたらいずれ。では失礼仕る」
なぜ父がティアナの名を? 父と目が合うとぼっと火を吐いた。
「まったく。お前の不始末を他人から聞かされる身になってみろ。女神の神殿を荒らし、罰を受け、やっと禊ぎがすんだはずなのに帰って来ぬのだからな」
妾が話す前に全部知られてる……。これでは都合よく脚色しようがない。
首を項垂れ地面すれすれにする。これはきっと厳しいお仕置きが待っているに違いない。だが、父からの叱責の言葉は浴びせられなかった。
「大人しく我が言葉を待つ姿勢が取れるようになるとは、随分と成長したようだな」
ようやく漏れた父の声に怒りは含まれていない。
「お前のした悪戯は許されるものではないが、もう十分に罰は受けただろう。言いたいことは山ほどあるが、とりあえずお前が無事でよかった」
おそるおそる伏せていた顔をあげると、父の目は穏やかに光っている。
「お帰りシェルオーゼ」
「ただいま。父上」
父が口を大きく開く。
「それとも、ニックスと呼んだ方がいいかね?」
「ど、どこまでご存じなのですか?」
「さっきのゼークトという騎士が知りえた範囲のことだ。お前の出現に驚いてヒトの高位神官が女神さまにお伺いをたてたそうだ」
「それはほぼ全てということでは?」
「そうとも言うな」
後ずさろうとする妾を父の視線が縫い留めた。
「まあ、お前の口から直接語ってくれ。久しぶりにじっくりと話を聞こうじゃないか」
空を飛びながら考えてきたシナリオが崩れ去る。妾が悪くないという話をするのは無理そうだ。仕方ない。神殿のくだりはさっと終わらせて、ティアナと暮らしたときのことを中心に話すことにしよう。あの無垢で純真なヒトの娘、妾の心の中に場所を確保してしまった美しい魂の話を。
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