第141話 霧の中から

 バーデンでの滞在を終え、新婚夫妻は王都への帰還の途につく。カンディール4世の心証も考えて、俺がティアナに求婚したことは周囲には話さないことにしていた。仮にも国法をないがしろにしていると思われない方がいいというのが、エレオーラ姫の意見だ。俺としてもまだ秘密にしておいた方がいい。


 ジーナはともかくエイリアがどのような反応をするか見極められるまでは迂闊に告げるのは危険だった。黙っているのは少々気が咎めるが、エイリアがとんでもない行動に出る可能性がある。ジーナやチーチともいずれはきちんと話をしなくてはならない。ティアナを妻に迎えるという点は揺るがないが、その先は判断が難しい。


 チーチとの関係は西方の安全保障の問題に直結する。とはいえ、自分以外の妻の存在をティアナがどう思うかということも重要だ。逆の立場を仮定した場合、ティアナにもう一人夫がいるなんてことは考えたくもない。形だけというのもチーチに失礼だし、可愛そうだ。自発的に他の男に興味が移るのがベストだが……。


 そのチーチは俺から少し離れたところでキャリーと並走しながら何か話をしている。時折クスクスと笑っているが何の話をしているのやら。そして、俺はゼークトとタックの件についてようやく意見交換をする時間をとることができていた。暇な俺と違ってグラハム伯となったゼークトはなかなかに忙しい。


「なるほどな。確かに難しい。王都に暮らす以上はある程度の礼儀は必要だろう。俺個人としては子供に何と呼ばれようが構わんが、その感覚で他所の貴族に話しかけでもしたら最悪斬られる」

「それは分かるんだ。ただ、ある日突然、見知らぬ相手にこれからはお前の父だ、と言われたのとセットというのが最悪だな」


「確かにタックからすれば受け入れがたいだろう」

「まあ。俺も親の顔なんざ知らないから、タックの本当の気持ちは分からんけどな。実の親に売られる場合だってあるんだ。血のつながりにこだわる必要はないと思うがね」


「することすれば親にはなっちまうからな」

「おや。もうすぐ父上と呼ばれることになる自覚をお持ちのようで」

 ゼークトは咳払いをする。

「まあ、ステラさんに預けたのは正解かもしれん。当面はうまくタックをあしらってくれているだろう」


「あれだけ怖いのに、時折母性があふれ出るからな。女はよくわからん」

「うちの家令にそれとなく言っておこう。あの庭師も生真面目だからな。俺はこの件にはそれ以上は介入しない」

「忙しい聖騎士様を煩わせるわけにはいかんだろうからそれでいい」


 ゼークトはニヤリと笑う。

「しかし、まだ結婚もしていないのに、他人の子供に父親になってくれとは、お前も大変だ」

「まったくだ。そんな柄じゃねえのに」


「ところで、あの件、急にどうしたんだ?」

「実はアイシャに会った」

「ほう」

「もうアーヴァイン商会から放り出されて見る影もなかったよ。だから何もせず見逃してやった」


「そんなところだろうと思ったよ。妙にすっきりした顔をしていたからな」

「まあ、あの指輪だけは取り返したが」

「そうか。復讐するもしないもお前の気持ち次第だ。たぶん、それで良かったんだと思う」


 考えてみれば、ゼークトとの付き合いも長い。よくもまあ、あの荒れた時期の俺を見放さなかったものだ。俺の人生も捨てたもんじゃないらしい。辛いことも多々あったが、師と友と、そして未来の妻と、ほぼ最良の人間に恵まれている。ゼークトへの感謝の言葉を探したが、結局は別の言葉を口にした。

「霧が濃くなってきたな。警戒を強化した方がいいかもしれない」

 

 これだけの人数を襲うことはまずないだろうし、万一そんなことがあれば、襲った方が後悔することになるだけだ。とはいえ、誰かが思わぬ怪我をすることも無くはない。少しでも早く脅威を発見できれば味方の損害は軽減できる。そして、それがスカウトの仕事だ。単騎で先行した。


 霧の中から小さな人影がまろびでる。手足に傷をいっぱいつけた薄汚いガキだった。顔も血で汚れている。いつでも抜き撃てるように構えて近づく俺に向かってガキが呻いた。

「おねがい。たすけて」


 周囲を探ったがこいつ一人しかいない。罠の可能性は低いと判断して馬から降りる。近くにきたガキは血で塞がっていない方の目を見開いた。

「ああ。ザック。たすけて……」

 くずおれそうになるガキの手をつかむ。ザック?


 よく見ると、王都にいた浮浪児のトムだった。

「トム。何があった?」

 トムは気が緩んだのか気を失う。

「ゼークト。エイリアを」

「分かった」


 すぐにゼークトが馬にエイリアを乗せて戻ってきた。

「ハリス。何か御用ですか?」

 嬉しそうに側に寄ってきたエイリアの顔が曇る。

「ひどい」


 エイリアはすぐに治癒の呪文を唱え始めた。邪魔をしないように俺は離れゼークトに周囲を警戒するように頼む。周囲の幾人かは俺がゼークトに指示を出すことに不満そうだが、知ったこっちゃない。ゼークトは配下に哨戒行動を取らせた。円を描くようにして数人が馬をゆっくりと走らせ始める。

「ハリス!」


 エイリアのところに戻るとトムが意識を取り戻していた。

「ザック!」

 近くに来ていたレッケンバッハ伯爵が下馬してくる。何か問いかけたそうな顔をしていたが黙っていた。後で名前を借りたこと謝罪しなけりゃな。


「お願いだよ。弟が捕まってるんだ。このままだと、オーガの餌にされちまう。なんでもいうこと聞くからさ。俺を娼館に売っぱらってでも……」

 俺はトムの頬を軽く叩く。

「分かった。助けてやる。どっちだ?」


 トムは悲しそうに首を振った。

「よく分かんねえ。でかいお屋敷から何とか逃げ出して、追手がかかって。崖から飛び降りたんだ。それから滅茶苦茶に走って。ああ。日が沈んじゃう」

 トムはべそをかきはじめる。


「ハリス様。私がご案内できるかと。この辺りの大きな屋敷と言えば心当たりがあります」

 さすが博覧強記のホフマンだぜ。

「ゼークト。悪いがホフマンを借りる。コンバ! ジーナ!」


 俺が馬上にトムを押し上げようとすると、靄の中からティアナが走って来た。

「ご無事で」

 ためらいもなく衆人環視の中で、俺の額に口づけをして身を離す。体の中から湧きおこる勇気を感じながら、ホフマンに続いて馬腹を蹴った。

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