第140話 涙のあとに
涙を流すというのは俺の想定の中には無い。申し訳なさそうに断られることもあるかもとは思っていた。声も無くただ静かに涙を流しているティアナの姿に俺は狼狽してしまう。俺の頭は冷静さを通り越して冷え切っていた。浮かれて娘ほど年の離れた相手を泣かせるとは……。
大きく息を吸い込んで席を立とうとする俺の手をティアナがつかんだ。
「ごめんなさい。どうして私泣いてるんだろう。変ですね」
ティアナは無理やり口角を上げる。涙の跡が残る頬にえくぼが刻まれた。
「はい。喜んで」
この数語を理解するのに時間がかかった。
「つまり、承諾ってことでいいんだよな?」
こくんと頷くと、ティアナは伸びるようにして俺と唇を合わせる。涙の味がしたが最高のキスだった。
「おい。ハリス。こんなところで……」
急にかけられた声に俺達は体を離す。ゼークトがいぶかしそうにしていた。
「急に立ち止まらないでよ。一体どうしたの?」
後ろから覗き込んだエレオーラ姫が言葉を飲む。
ティアナは名残惜しそうにしていたが、すっと立ち上がった。その顔を2人が注視する。ティアナの頬にはまだ濡れた跡がはっきりと分かる状態だった。
「ハリスに求婚されました」
2人はえっという顔をする。
「それで?」
「もちろんお受けしました」
ティアナは力むでも恥じらうでもなく自然体で告げる。そこからはちょっとした騒ぎになった。
エレオーラ姫はティアナに抱きつきおめでとうを繰り返す。ゼークトはゼークトで力いっぱい俺の肩を何度も叩いた。
「ハリス。やるときはやる奴だと思っていたが、ついに決心したか。しかし、なぜ急に?」
「手加減しろよ。肩が砕けそうだ」
お祝いムードが一段落するとエレオーラ姫がためらいがちに切り出す。
「折角の雰囲気のところに申し訳ないんだけど、まだ許しを得てないわよ」
俺は姫を押しとどめて、ティアナに向き直る。
「良く聞いてくれ。さっきの言葉は本心だ。だがこの国では今すぐお前と結婚することはできない。そういう決まりなんだ」
俺は解放奴隷との結婚を禁じる法律のことを説明した。
「お前が今すぐ俺に結婚の誓いをしろというなら、俺はこの国を出てもいいと思っている」
「ちょっと。ハリス。何言ってるの?」
エレオーラ姫の抗議の声は脇に追いやって俺はティアナを見つめる。
「それではお仕事はどうするのですか? お友達とも会えなくなるし、ハリスを信頼している人を裏切ることになります。私はそんなことはしたくありません」
「そ、そうよね。ティアナの言う通りだわ」
エレオーラがティアナの手を取った。
「ティアナ。私のことを信頼して。ハリスはかなり活躍をしてるから、あともう1歩なの。近いうちに別の活躍の機会もあるし、そうしたら私からも父に強く言うわ。だから、ちょっとだけ待ってて」
「私はいいですけど、ハリスはそれでいいですか? あの、やっぱり、早く……」
先ほどまでの態度とは打って変わってしどろもどろになる。
「そりゃ、俺だって、お前に承諾して貰えたんだから少しでも早く一緒に……。あ。違うぞ。そういう意味じゃないからな」
ティアナの頬の赤みが増すのを見て俺は慌てて否定した。
「俺は早くお前と夫婦になって、夫婦ならではことをしたいわけじゃない。いや、したくないんじゃないぞ。むしろ、したいとは思ってるが……」
「落ち着けハリス」
「誰かが余計なことを吹き込むからだろ」
俺の様子がおかしかったのかティアナはふふっと笑う。
「私はハリスが待てるならそれでいいです。ノルンには知り合いもいっぱいできましたし、あのおうちは自分の家のような気がします」
ティアナの言葉にエレオーラ姫はやれやれという表情をする。自分の計画が破綻しなかったことに安堵しているに違いない。
「それで、俺を探していたように聞いたが」
「ああ。一応戻ってきたので報告をと思っただけだ」
「それよりもティアナとの逢瀬を優先したわけね」
エレオーラ姫がしたり顔をする。
「お二人の時間をお邪魔してはと思っただけですがね」
「それはそれとして、何の用事での呼び出しだったんだ?」
俺はティアナの前でアイシャの名前を出したくなかった。
「知り合いに引き合わされただけだ。あとは子供用のサインをねだられたよ」
そこまで伝えるとちょうど俺の腹が鳴った。ティアナが顔を輝かせ俺の手を取って立たせる。
「そろそろ戻られることだと思って、厨房をお借りしてお食事を用意しておいたんです。昨夜もお仕事と聞いたので元気が出るもの作りました」
そのまま東屋を出て行こうとするティアナを引き留める。
「そいつは楽しみだがちょっと待った。涙の跡が残ったままだぞ」
ティアナは慌ててハンカチを取り出すと顔をゴシゴシと擦る。
「これで大丈夫だと思います。さあ、こっちです」
ティアナはエレオーラ姫やゼークトが居ることなど忘れたかのように俺の手を引いた。あっけにとられながら笑みを浮かべる2人に、当面は婚約のことは秘匿するよう頼んで、俺はティアナについていく。屋敷の厨房脇の小部屋でティアナの用意してくれた食事にありついた。ティアナも相伴するように頼む。
疲れた体に染み渡る味にほっとする。昨夜の一働きもそうだが、先ほどの求婚もかなりの心労だったようだ。
「実に旨いな」
「良かったです」
ティアナは俺の食べる様子を幸せそうにして見ている。不意にあることに気が付いた。
「そういえば、こうやって2人だけでティアナの作ったものを食べるのは久しぶりな気がするな」
「言われてみればそうですね」
「賑やかなのもいいが、こうしてたまには2人きりというのもいいもんだな」
改めてティアナが俺の申し出を受けてくれた喜びが胸に湧く。
「ありがとう」
粗末なテーブルの上のティアナの指に自分の指を絡ませる。その雰囲気をぶち壊す声が響いた。
「あ。こんなところでハリス一人で美味しいものを食べてる」
振り返ればキャリーが元気に歩み寄る。
「なんだか怪しい雰囲気ね。新婚さんみたいよ」
一点の曇りもない顔でキャリーは言い、俺は表情をつくろうのに苦労した。
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