第95話 媚薬の香り
俺は重ねられた手をはずすようにさりげなく酒の容器に手を伸ばす。
「ご子息のことは本当の弟のように感じているんですよ。となれば、ジョスリーン様は私の母も同然ですね。お礼などとんでもない」
ジョスリーンの杯を満たした。
「ここでは敬称はやめませんこと。ジョスリーンで結構ですわ」
「それでしたら、私もハリスと」
「いえ。愚息の恩人をそんな……。分かりました。それではハリスと呼ばせて頂きます。それで、私の方が年下ですのよ」
杯を置き拗ねたふうな姿態を見せた。
場を持たせるために葡萄酒を口に含む。口当たりがいい酒だが結構きついな。俺は頭を振った。まずいな。少々飲み過ぎかもしれない。小皿に乗ったつまみの品を口に放り込み咀嚼する。
「ええ。それは存じ上げていますが……」
「私の気持ちはお分かりにならない?」
媚を含んだ笑みを向けてくる。濡れた瞳を見ていると吸い込まれそうだった。ジョスリーンは酒の容器を持ち上げる。俺は杯で受けて僅かに口に含む。やはり芳醇な香りと舌を滑り落ちるなめらかな感触は格別だった。
俺は話題を変えることにする。
「これだけの逸品はなかなか口にすることはできないですね」
「味が分かる方に飲んでいただけて嬉しいですわ」
「単に多く飲んでいるだけです。酒の一滴は血の一滴ってね」
「いつもはお一人でお飲みに?」
「うちに居るのが酒を飲むのにいい顔をしないので」
「あら。こうやって一緒に飲んだ方が楽しいでしょうに。私も久しぶりにいいお酒を頂けてますわ。ところで不躾ですが……」
ジョスリーンがまた杯に注ぐ。
「奥様はいらっしゃらないそうですわね?」
「その日暮らしの冒険者にはそんな甲斐性がありませんよ」
「そんなことはないでしょう」
そういやコンバに頼みごとをされてるんだったな。
「所帯と言えば、ご子息もそろそろ身を固めてもいい年頃では?」
「そうですわね。ハリスに鍛えていただいて以前に比べれば大人の顔つきになってまいりました。家族ができることで、その責任が人を育てることもあるでしょうしね」
「私がお役に立てているかは自信がないですが、ご子息も奥さまを迎えてもいいような気がします」
「あの子から意中の方のことを聞かれたりしてますの?」
「まあ多少はね」
「どんな方?」
「私たちの冒険者仲間でジーナって女性です。魔法士をしてますがなかなかの腕前で、かなり頭が切れます。私の友人の受け売りですが、妻に選ぶなら第一条件は頭の良さらしいですね」
「なるほど。それは殿方を選ぶのも同じではないかしら。少なくとも私は頭の弱い方を夫にしたいとは思わないですわ」
「そうかもしれませんね。それで、母親として既に決めた女性がいるんでしょうか?」
「もちろん、釣り合いのとれた女性の候補が数人ありますわ。確かにいいお嬢さんたちではあるのですけれど、それだけに賢いかどうかは測りかねるところがあります。ハリスの目にかなう女性なら考えても良いかもしれませんわね。でも……」
「何か?」
「どうしてハリスがその方を奥さまになさらないのかと思っただけですわ」
「説明が難しいのですがね。仕事の相棒としては最高だと思うんですよ」
俺の逡巡を見てジョスリーンが笑みを浮かべる。
「男性は頭だけでなく、下半身でも考えるということかしら?」
俺は無言で暗にそうだという意味を伝えた。ジョスリーンは軽やかな身のこなしで立ち上がると俺の近くにやって来る。
「それでは私は合格かしら?」
覆いかぶさるようにしてジョスリーンの唇が俺の口を塞ぐ。するりと舌がねじ込まれた。心地よさが脳を蕩かす。いや、だめだ。俺はジョスリーンの両肩に手を添えて押しやろうとした。酔いが俺の動作を緩慢なものにする。ゆっくりと身を起こすジョスリーンとの間にはきらりと光る糸が引いている。ジョスリーンは艶やかな笑みを浮かべた。
麻痺したような頭にティアナの顔が浮かんだ。俺は杯を置き右手の親指の爪を左手の手のひらに突き立てる。酔っているせいかほとんど痛みが感じられなかったが、同時に肌着が体にまとわりつくのを感じる。
「お戯れが過ぎませんか? 少々お酒が過ぎたようですね」
ジョスリーンはほっと息を吐く。
「そんなことはなくってよ」
自分の席に戻って座る。安堵を覚える俺に追い打ちをかけてきた。
「私の夫になるつもりはない? もちろん私の有する権限は共有するわよ」
「木材ギルドの実質的な共同統治者ねえ。一介の盗賊には過ぎた地位です」
「そうかしら?」
「一見悪くない話だ。魅力的な女性と社会的地位がいっぺんに手に入る。だが、ジョスリーン。あなたの方のメリットが見えない。旨い話には落とし穴があるという。にわかには首肯しかねますね」
「その説明が面倒なので本当は先に関係を持ちたかったのだけど、仕方がないわね。いいでしょう。今日のところは諦めるわ。空閨を慰めてもらおうと思ったのだけれど、こんな話をした後じゃ無粋ね。その代わり、こっちはとことん付き合ってもらうわよ」
今度は俺が酒の容器を掲げる。それを受けてうまそうに喉を鳴らした。そのことさら見せつける姿に理解する。
「これには何が入っている?」
「もちろん葡萄酒よ」
「それだけじゃない。その香水はこの匂いを誤魔化すためのものだな」
俺は改めて酒の容器の臭いをかぐ。
「これは媚薬か。しかもかなり効き目の強い奴だ」
ジョスリーンが目を伏せる。
「そこまでして……油断したところを刺すつもりか?」
俺の疑問に弾けるように笑いだす。
「それは被害妄想が強すぎるわ。さっきも言ったように私はあなたをうちのギルドに引き入れたいだけ。それには寝るのが一番早いと思っただけよ」
目的のためには手段を選ばず。コンバの母親評を思い出した。
「その理由は聞いても教えては貰えそうにないな」
「別に隠す必要もないのだけれど、人生には謎があった方が面白いでしょ。どうしても知りたいと言うなら考えてもいいけど」
「害意が無いらしいということだけ確認できれば十分だ。それではそろそろお暇させて頂こう」
「あら。つれないわね」
そう言いつつもジョスリーンが両手を打ち、案内役が顔を出した。
「コンバとは良い関係で居たいんでね。今日からお前の父親だとかきついでしょう?」
「あの子は気にしないと思うけど」
俺が気にするんだよな。与えられた部屋に戻り、手持ちの予備の施錠道具をセットしてベッドに潜り込んだ。
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